地保奴(ディボド、生没年不詳)は、北元ウスハル・ハーン(天元帝トグス・テムル)の息子で、モンゴル帝国の皇族。

「地保奴」は明朝側からの呼称で、正確なモンゴル語名は不明[1]。ただし、18世紀以後に漢文史料の知識も交えて編纂された『アルタン・クルドゥン』などのモンゴル語史料では「テブー・ヌー(Tebuu nuu)」とモンゴル語表記されている[2]

概要

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地保奴の生い立ちなどについては記録がなく、その前半生については全く知られていない。

1388年(天元10年/洪武21年)、藍玉を総大将とする明軍はブイル・ノール地方に滞在していたウスハル・ハーンの本営を急襲し、ウスハル・ハーンは軍勢のほとんどを失うを大敗を喫した(ブイル・ノールの戦い)。太尉マンジらの奮戦によってウスハル・ハーンと地保奴の兄の天保奴、知院ネケレイ、丞相シレムンら高官数十人は明軍の追撃を逃れることができたが、地保奴や前ハーンの妃など多くの皇族が明軍の捕虜となった[3]

ブイル・ノールの戦いから3カ月後、藍玉が部下に送らせたウスハル・ハーンの次男の地保奴と后妃たちは応天府に辿り着いた。地保奴らは洪武帝に大元ウルスの金印・金牌を献上し、これを受けて洪武帝は鈔200錠と邸宅を与えて厚情を示した。それから間もなくして藍玉がハーンの后妃と密通したという噂が流れると、洪武帝は藍玉に対して激怒したものの、后妃は恥辱に耐えかねて自殺してしまった。后妃の死に対して地保奴が恨み言を漏らしていたことが洪武帝の耳に入ると、洪武帝は自らの厚情に対する恩知らずな言動であると怒り、これ以上内地には留めおけないとして琉球に島流しするよう命じた。これ以後の地保奴の動向について記録は残っていない[4]

同じ頃モンゴル高原においてもウスハル・ハーンと天保奴父子がアリクブケ王家のイェスデルに殺害されたため、モンゴル高原におけるクビライ家の血統は一旦断絶し、モンゴルでは一時的にアリクブケ家よりハーンが輩出されるようになった[5]

脚注

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  1. ^ 遼代〜元代の漢文史料に見られる「〜奴」という人名について、宮紀子はアラビア語のʿabd/ペルシア語のbanda/モンゴル語のbo'lに相当する、「〜の奴隷、しもべ」を意味する単語ではないかと推測している(宮2018,608-609頁)。
  2. ^ 森川2007,397頁
  3. ^ 『明太祖実録』洪武二十一年四月丙辰「黎明至捕魚児海南飲馬、偵知虜主営在海東北八十餘里。玉以弼為前鋒、直薄其営。虜始謂我軍乏水草、必不能深入、不設備。又大風揚沙、晝晦軍行、虜皆不知。虜主方欲北行、整車馬皆北向、忽大軍至、其太尉蛮子率衆拒戦、敗之、殺蛮子及其軍士数千人、其衆遂降。虜主脱古思帖木児与其太子天保奴・知院捏怯来・丞相失烈門等数十騎遁去。玉率精騎追之、出千餘里、不及而還。獲其次子地保奴妃子等六十四人及故太子必里禿妃並公主等五十九人。其詹事院同知脱因帖木児将逃、失馬、竄伏深草間、擒之。又追獲呉王朶児只・代王達里麻・平章八蘭等二千九百九十四人、軍士男女七万七千三十七人、得宝璽図書牌面一百四十九、宣勅照会三千三百九十道、金印一、銀印三、馬四万七千匹、駝四千八百四頭、牛羊一十万二千四百五十二頭、車三千餘輌。聚虜兵甲焚之。遣人入奏、遂班師」
  4. ^ 『明太祖実録』洪武二十一年七月戊寅「大将軍永昌侯藍玉遣人送虜主次子地保奴及后妃公主等至京師。地保奴及后妃献金印・金牌、賜鈔二百錠。命有司給第宅、廩餼俾就居京師。既而有言玉私元主妃事、上怒曰『玉無礼如此。豈大将軍所為哉』。元主妃聞之、惶懼因自尽、地保奴由是有怨言。上聞之曰『朕初以元世祖君主中国時、有恩及民不可無嗣。嘗与儒臣議欲封地保奴、以尽待亡国之礼、彼乃如此。豈可以久居内地』。於是遣使護送、往居琉球仍厚遺資遣之」
  5. ^ 岡田2010,365-366頁

参考文献

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  • 岡田英弘『モンゴル帝国から大清帝国へ』藤原書店、2010年
  • 宮紀子『モンゴル時代の「知」の東西』名古屋大学出版会、2018年
  • 森川哲雄『モンゴル年代記』白帝社、2007年
  • 和田清『東亜史研究(蒙古篇)』東洋文庫、1959年