森安五郎
大日本帝国陸軍の軍人
森 安五郎(もり やすごろう、1913年(大正2年)[1]? - 1937年(昭和12年)11月7日)は、大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は陸軍歩兵少尉。静岡県出身。殊勲甲、勲六等功四級[2]。第二次上海事変の英雄。
森 安五郎 Second Lieutenant Mori Yasugoro | |
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生誕 |
1913年? 日本、静岡県 |
死没 |
1937年11月7日 中華民国、上海 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1936-1937 |
最終階級 | 陸軍少尉(戦死後特進) |
経歴
編集戦闘の経緯
編集第二次上海事変の戦いは苛烈を極め、第三師団歩兵第34連隊(静岡連隊)は戦時編成3,800人、戦死者1,248人、戦傷者2,146人。連隊死傷率は90%を超えた。要塞・ 陣地・水濠を張りめぐらした中国国民革命軍第36師(師長:宋希濂陸軍中将)の強力な抵抗に苦戦。10月、軍部は緊急に1,200名の補充員を配置。1937年10月13日,森安五郎は補充員小隊長として、歩兵第34連隊第1大隊第3中隊に入隊。[5]。16日から25日にかけて、大場鎮近くの攻略作戦に参加。小隊を率い中国軍の16人目の兵士を捕虜にする。28日、歩兵第34連隊が渡河作戦を開始、森小隊は最初に川を渡った部隊に属する。11月3日、小隊は中国軍の2つのトーチカを占領。5日、蘇州河南岸の薛家墅を占領。7日、命を受け林肯路を落すが、部隊の進軍は趣家宅に阻まれる。午後2時40分、森小隊長と小隊が餌として中国軍の火力を集めて北に移動。趣家宅トーチカの下に移動した時、森は中国軍の機関銃が日本軍に向けて掃射されているのを見た。傷を負った森は、自らの身体で特火点の射撃孔を塞ぎ戦死。その壮烈な姿に鼓舞された部隊は直ちに趣家宅を攻め、敵の大隊を壊滅。その後、歩兵第34連隊は上海蘇州河南岸を占領。9日、蔣介石、上海から撤退命令。1938年10月7日、第四回支那事変論功行賞、前例を破り功四級金鵄勲章を追贈。
栄典
編集1937年(昭和12年)11月7日
脚注
編集- ^ 静岡中学では、宇佐美一夫、丸杉孝之助、村松道平、山本敬三郎、石上良平、川瀨健治らと同期であり、生年は1913年、もしくは1914年が有力であると考えられる。
- ^ a b c d 同盟旬報 第二巻 第二十八号 [同盟旬報第二巻第二十八号 昭和十三年上旬号] p8 (第四回論功行賞)
- ^ 『静中・静高同窓会会員名簿』平成15年度(125周年)版 58、59頁。
- ^ a b JAPAN, 独立行政法人国立公文書館 | NATIONAL ARCHIVES OF. “任免裁可書・昭和十二年・任免巻百二十七”. 国立公文書館 デジタルアーカイブ. 2021年1月11日閲覧。
- ^ “附表並附録”. www.jacar.archives.go.jp. 2021年1月11日閲覧。
参考文献
編集- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
- 歩兵第34連隊 蘇州河附近戦闘詳報 5/5 昭和12年10月28日~12年11月8日(支那-支那事変上海・南京-67(所蔵館:防衛省防衛研究所))