七里恒順

明治時代の浄土真宗の僧侶

七里 恒順(しちり こうじゅん、1835年8月5日天保6年7月11日) - 1900年明治33年)1月29日[1])は明治時代の浄土真宗の僧侶である。

七里恒順
1835年8月5日 - 1900年1月29日
法名 釋恒順
松花子
院号 願行院
尊称 七里恒順和上
生地 越後国横路
宗旨 浄土真宗
宗派 浄土真宗本願寺派
寺院 萬行寺福岡市博多区
萬行寺
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生涯

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1835年(天保6年)、現在の新潟県長岡市横路にある本願寺派明鏡寺生まれ。11歳で出家し、14歳で僧朗勧学の門に入った。のちに博多にある萬行寺に入り、萬行寺の歴史の中でも寺を代表する名僧となる。本山本願寺の執行を務めるほか、本願寺派の学僧の最高位である勧学の授与が打診されるほどであった(本人は固辞し、没後に贈られた)。 萬行寺では私塾を開いたり、子ども会を組織するなど多くの人々を教化していた。

1900年(明治33年)1月29日死去。

脚注

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  1. ^ 七里恒順』 - コトバンク

関連項目

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  • 萬行寺
  • 浦辺登著『維新秘話福岡』花乱社、2020年、ISBN978-4-910038-15-5 福澤諭吉がコロンボから書簡を送る