ウィリアム・ウォード (初代ダドリー伯爵)
初代ダドリー伯爵ウィリアム・ウォード(英語: William Ward, 1st Earl of Dudley、1817年3月27日 – 1885年5月7日)は、イギリスの貴族。貴族院ではピール派、のち自由党に所属した[1]。
生涯
編集第10代ウォード男爵ウィリアム・ハンブル・ウォードと妻アメリア(Amelia、旧姓ピランズ(Pillans)、1797年ごろ – 1882年5月23日、ウィリアム・グーチ・ピランズの娘)の息子として、1817年3月27日にバリー・セント・エドマンズで生まれた[1]。イートン・カレッジで教育を受けた後[1]、1835年6月4日にオックスフォード大学クライスト・チャーチに入学した[2]。その後、トリニティ・カレッジに移籍したが、学位を修得せずに大学を出た[1]。大学では1838年から1842年までクリケット・クラブに在籍したクリケット選手だった[3]。
1835年12月6日に父が死去すると、ウォード男爵位を継承した[1]。1835年1月19日にウスターシャー・ヨーマンリー連隊の中尉に任命された後[4]、1837年12月27日に副隊長(中佐)に昇進[5]、1854年2月27日に指揮権を与えられた[6]。1871年2月6日に辞任[7]、同年6月15日に名誉隊長に任命された[8]。
貴族院でははじめピール派保守党に属し、のちに自由党と合流したが、1869年にウィリアム・グラッドストンが提出したアイルランド国教会の廃止法案に反対した[1]。官職に就任したことはなかった[1]。
1860年2月17日、ロクスバラシャーにおけるエドナムのエドナム子爵とスタッフォードシャーにおけるダドリー・キャッスルのダドリー伯爵に叙された[1][9]。
美術のパトロンとして知られ、1863年5月11日[10]から1866年までナショナル・ポートレート・ギャラリー理事を、1877年から1884年までナショナル・ギャラリー理事を務めた[1]。
1838年に90万ポンド(2020年時点の$82,846,770と同等[11])を費やしてウスターシャーのウィットリー・コートでの広大な地所を購入、1883年時点でウスターシャーに14,698エーカーの、スタッフォードシャーに4,730エーカーの、メリオネスシャーに4,472エーカーの、ロクスバラシャーに1,086エーカーの、シュロップシャーに568エーカーの領地を所有し、合計で年収123,176ポンド相当だった[1]。ダドリー伯爵の所領に炭鉱が多かったため、領地から得られる収入が多く、1883年時点で10万エーカー以上(ダドリー伯爵の所領の約4倍)の領地を所有するイギリス貴族28人のうち、ダドリー伯爵より収入が多かったのは6人だけだった[1]。
1885年5月7日に肺炎によりダドリー・ハウスで病死、息子ウィリアム・ハンブルが爵位を継承した[1]。
家族
編集1851年4月24日、セリナ・コンスタンス・ド・バーグ(Selina Constance de Burgh、1829年ごろ – 1851年11月14日、ヒューバート・ド・バーグの娘)と結婚したが[1]、2人の間に子供はいなかった[13]。
1865年11月21日、ジョージアナ・エリザベス・モンクリフ(1929年2月2日没、第7代準男爵サー・トマス・モンクリフの娘)と再婚、6男1女をもうけた[13]。
- ウィリアム・ハンブル(1867年5月25日 – 1932年6月29日) - 第2代ダドリー伯爵[13]
- ジョン・ヒューバート(1870年3月20日 – 1938年12月2日) - 陸軍軍人。1908年6月21日、ジーン・テンプルトン・リード(1956年以降没、ホワイトロー・リードの娘)と結婚、子供あり[13]
- ロバート・アーサー(1871年2月23日 – 1942年6月14日) - 1906年7月24日、メアリー・アチソン(Mary Acheson、1956年以降没、第4代ゴスフォード伯爵アーチボルド・アチソンの娘)と結婚、子供あり[13]
- イーディス・アメリア(1872年9月16日 – 1955年以降) - 1895年5月5日、第4代ウルヴァートン男爵フレデリック・グリンと結婚[13]
- レジナルド(Reginald、1874年6月11日 – 1904年3月7日) - 陸軍軍人、生涯未婚[13]
- シリル・オーガスタス(Cyril Augustus、1876年1月31日 – 1930年1月11日) - 1904年4月14日、Irène Blanche Nicolette van Brienen(Arnoud Nicolaas Justinus Maria van Brienenの娘)と結婚、子供あり[13]
- ジェラード・アーネスト・フランシス(1877年11月9日 – 1914年10月30日) - 1899年11月7日、イーヴリン・クライトン(Evelyn Crichton、1956年以降没、第4代アーン伯爵ジョン・クライトンの娘)と結婚[13]
出典
編集- ^ a b c d e f g h i j k l m Cokayne, George Edward; Gibbs, Vicary; Doubleday, Herbert Arthur, eds. (1916). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Dacre to Dysart) (英語). Vol. 4 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. pp. 490–491.
- ^ Foster, Joseph, ed. (1891). Alumni Oxonienses 1715-1886 (S to Z) (英語). Vol. 4. Oxford: University of Oxford. p. 1499.
- ^ "Lord Ward". CricketArchive (英語). 2021年12月15日閲覧。
- ^ "No. 19231". The London Gazette (英語). 20 January 1835. p. 102.
- ^ "No. 19574". The London Gazette (英語). 29 December 1837. p. 3384.
- ^ "No. 21530". The London Gazette (英語). 10 March 1854. p. 787.
- ^ "No. 23738". The London Gazette (英語). 19 May 1871. p. 2416.
- ^ "No. 23748". The London Gazette (英語). 20 June 1871. p. 2851.
- ^ "No. 2356". The London Gazette (英語). 14 February 1860. p. 518.
- ^ "No. 22735". The London Gazette (英語). 12 May 1863. p. 2525.
- ^ イギリスのインフレ率の出典はClark, Gregory (2024). "The Annual RPI and Average Earnings for Britain, 1209 to Present (New Series)". MeasuringWorth (英語). 2024年5月31日閲覧。
- ^ Historic England (9 April 1976). "STATUE OF THE EARL OF DUDLEY (Grade II) (1343188)". National Heritage List for England (英語).
- ^ a b c d e f g h i Pine, Leslie G., ed. (1956). Burke's Genealogical and Heraldic History of the Peerage, Baronetage and Knightage (英語) (101st ed.). London: Burke's Peerage Limited. p. 689.
外部リンク
編集- Hansard 1803–2005: contributions in Parliament by Mr William Ward
- ウィリアム・ウォード - ナショナル・ポートレート・ギャラリー
- ウィリアム・ウォードの著作 - インターネットアーカイブ内のOpen Library
- "ウィリアム・ウォードの関連資料一覧" (英語). イギリス国立公文書館.
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