南九万
南 九万(ナム・グマン、朝鮮語: 남구만、1629年 - 1711年[1])は、李氏朝鮮粛宗代の文臣、詩人、歴史学者。号は「薬泉」[1]。
ナム・グマン 南 九万 | |
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生誕 | 1629年 |
死没 | 1711年 |
職業 |
文臣 詩人 歴史学者 |
南 九万 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 남구만 |
漢字: | 南 九万 |
発音: | ナム・グマン |
人物
編集1656年、別試文科合格。その後、漢城府左尹、大提学、大司諫、右議政、領議政、奉朝賀を歴任する[1]。1689年、粛宗が昭儀張氏の実子(景宗)を世子に立てようとすると、これに反対する宋時烈に同調して失脚、現在の東海市望祥洞深谷村に流刑に処される[1]。
南九万は、著書『東史辨證』において、檀君朝鮮を建国した檀君について考証している[2]。南九万は、檀君の治世について怪しげな点を整理し、「檀君は神的存在」「檀君が1500年にわたって朝鮮を治め、1908歳の余生を終えた」という主張は説得力がないと糾弾している[2]。