姉歯 松平(あねは しょうへい、1885年(明治18年)5月17日 - 1941年(昭和16年)10月10日)は、日本の裁判官、弁護士、法学者。日本統治下の台湾で活動した。

姉歯松平
生誕 (1885-05-17) 1885年5月17日
大日本帝国の旗 大日本帝国宮城県栗原郡長岡村小野
死没 (1941-10-10) 1941年10月10日(56歳没)
大日本帝国の旗 日本統治下台湾台北州台北市明石町台北帝国大学附属医院
国籍 大日本帝国の旗 大日本帝国
職業 裁判官、弁護士、法学者
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経歴

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1885年(明治18年)、宮城県栗原郡長岡村大野(現在の大崎市古川大野)に、姉歯五郎左衛門の五男として生まれた[1]:1[2][注 1][4]。 中学生のとき、学費が払えず中学校を中退し、のちに上京し、弁護士飯田宏作の事務所で写字生として活動した[5]:225[6]:311[7]:171906年(明治39年)6月、中央大学専門科卒業後、1907年1908年1909年1910年の4回にわたって判事検事登用試験を受験したものの[注 2][注 3] 、いずれも失敗し、1911年(明治44年)にようやく合格を果たした[8]。 同年12月、東京地方裁判所で司法官試補となったものの[5]:226[9]、翌年、飯田宏作が弁護士を辞職したため、司法官試補を辞して飯田の弁護士事務所に戻り弁護士として活動を開始した。その後、飯田の妻が姉歯に自分たちの婿養子になるよう提案したところ、姉歯はそれを拒否し、逃げるように台湾に渡ることになった[5]:226[10]:199[注 4]1912年(大正元年)10月1日に台湾に到着し、翌月に台北地方法院検査局に弁護士として登録し、台北弁護士会に加入した[5]:226[1]:1[9][8]1918年(大正7年)10月に台中地方法院単独部の判官 (裁判官) に[9][5]、次いで1920年(大正9年)6月には台湾総督府高等法院(現在の台湾高等法院)覆審部の判官に任命された。 1929年(昭和4年)には、同法院上告部の判官に昇進した[1]:1[5]:226[注 5]1930年(昭和5年)、台北帝国大学文政学部政学科教授となり民事訴訟法を教えたほか、警察訓練所講師、産業組合講師、鉄道部講師などを務めた。また、台北の他の弁護士と共に「台北比較法学会」を組織した[5]:228[12]:17

1941年(昭和16年)、十二指腸潰瘍を患い自宅療養したが、その後病状が悪化し、10月6日に台北帝国大学附属医院(現在の国立台湾大学附属医院)に入院、10月10日午前2時15分に死去した[9]。 56歳没。没後、正四位が追贈された[1]:1[2]1942年(昭和17年)、遺族は彼の蔵書2,000冊以上を台湾総督府図書館 (現在の国立台湾図書館) に寄贈した。このコレクションは「姉歯文庫」と呼ばれている[5]:228-229

著作

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  • 『祭祀公業並台湾ニ於ケル特殊法律ノ研究』、1934年、台湾月報発行所
  • 『本島人ノミニ関スル親族法並相続法ノ大要』、1938年、台湾月報発行所

栄典

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  • 1926年(大正15年/昭和元年)12月 - 高等官三等[2]
  • 1936年(昭和11年)3月 - 高等官二等[2]
  • 1936年(昭和11年)5月 - 勲四等[2]
  • 1937年(昭和12年)3月 - 従四位[2]
  • 1941年(昭和16年)4月 - 高等官一等[2]

脚注

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注釈

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  1. ^ 一説によると、仙台出身とされる[3]:245
  2. ^ 1923年以前、日本の私立大学卒業者は裁判官としての資格を得るために判事検事登用試験に合格する必要があったが、帝国大学卒業者は免除されていた[5]:226
  3. ^ 一説によると3回[5]:226
  4. ^ 一説によると、1912年(明治45年)春に司法官試補を辞職し、東京で弁護士登録したという[8]
  5. ^ 一説によると、1920年(大正9年)6月に高等法院の判官に任ぜられ、1927年(昭和2年)7月に上告部の判官を兼務[9]、1929年(昭和4年)に再度覆審部の判官を兼任したという[11]:219

出典

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  1. ^ a b c d 宮崎孝治郎 (1942-05). 《臺北帝國大學文政學部 政學科研究年報 私法篇》 (臺北帝國大學文政學部) 第8輯. 
  2. ^ a b c d e f g 臺法月報 (臺法月報發行所) 第36卷 (第10、11、12號合併). (1942-11-10). 
  3. ^ 李騰嶽、林崇智、王詩琅, ed (1962-12). 《臺灣省通志稿·卷七:人物志:第二冊》. 臺灣省文獻委員會 
  4. ^ (第8版 ed.). 人事興信所. (1928-07). NCID BN12021499. https://jahis.law.nagoya-u.ac.jp/who/docs/who8-772 
  5. ^ a b c d e f g h i j 王泰升 (2010-10). “〈日治時期的司法官療法學:以姉齒松平之生平及研究業績為例〉”. 《具有歷史思維的法學:結合台灣法律社會史與法律論證》. 元照出版有限公司. ISBN 978-957-41-7457-7 
  6. ^ 小野真盛 (1942-11-10). 臺法月報 (臺法月報發行所) 第36卷 (第10、11、12號合併). 
  7. ^ 大園市藏, ed (1916-05-12). 谷澤書店. NCID BB13149187. https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1908652 
  8. ^ a b c “〈苦學之姉齒辯護士〉”. 《漢文臺灣日日新報》. (1912年10月4日) 
  9. ^ a b c d e . 《臺灣日日新報》. (1941年10月11日) 
  10. ^ 鰍澤榮三郎 (1942-11-10). 臺法月報 (臺法月報發行所) 第36卷 (第10、11、12號合併). 
  11. ^ 張麗俊著;許雪姬、李毓嵐、洪秋芬編纂、解說 (2002-11). 《水竹居主人日記(五)一九一七至一九二二》. 中央研究院近代史研究所、台中縣文化局. ISBN 9789576719059 
  12. ^ 姉齒量平 (1942-11-10). 臺法月報 (臺法月報發行所) 第36卷 (第10、11、12號合併).