沢藤幸治
日本の政治家
沢藤 幸治(澤藤 幸治、さわふじ こうじ、1881年(明治14年)5月6日[1] - 1960年(昭和35年)6月9日[1])は、日本の政治家。岩手県和賀郡黒沢尻町(現:北上市)長。岩手県会議員。北上市の観光名所展勝地の生みの親として知られる。
来歴
編集岩手県和賀郡黒沢尻町に生まれる[1][2]。東京法学院(現・中央大学)修了。修了後は金原明善に植林業を学ぶ[2][3]。大阪毎日新聞に入り、風見章を知る[3]。政友会院外団鉄心会に入り、中野正剛・緒方竹虎や大陸浪人達と交わる[3]。
一旦帰郷し、1920年(大正9年)和賀展勝会を結成し、北上川沿いに桜の木を植え始める[2][3]。上京し、出版業を始めるが、関東大震災で帰郷する[2][3]。1926年(大正15年)に雑誌「共存共栄」を創刊する[1][2][3]。
1931年(昭和6年)岩手県会議員となり、3期務める[1][2][3]。1934年(昭和9年)から1937年(昭和12年)まで黒沢尻町長を務めた[4]。戦後、公職追放となった[5]。
このほか農業会長、文化協会会長、教育委員などを務めた[1]。1960年(昭和35年)死去。