趙秉温
趙 秉温(ちょう へいおん、1222年 - 1293年)は、モンゴル帝国(大元ウルス)に仕えた漢人官僚の一人。字は行直。父は最初期のモンゴル帝国に仕え華北平定に従事した趙瑨。
概要
編集趙秉温は若い頃より即位前のクビライに仕え、クビライの幕僚の一人であった劉秉忠に学んだ。1253年から1254年にかけて行われた雲南・大理遠征にも従軍している。モンケ・カアンの没後にクビライが即位すると、中統初年に命を受けて右三部事を行した。
至元7年(1270年)、尚書礼部侍郎・知侍儀司事の地位を授かった。至元10年(1273年)に秘事少監の地位を授かり、至元19年(1282年)に昭文館大学士・知太史院侍儀司事の地位に移った。この頃、授時暦の完成に寄与したことから鈔200錠を下賜され、官位は中奉大夫に進んだ。至元29年(1292年)、国朝集礼の編纂が完成し、これを受けてクビライは趙秉温の息子の趙慧に地位を承襲させた。死後、金紫光禄大夫・司徒・雲国公を追贈されている[1]。
脚注
編集- ^ 『元史』巻150列伝37趙瑨伝,「秉温、事世祖潜邸、命受学於太保劉秉忠、従征吐蕃・雲南大理。中統初、詔行右三部事。至元七年、創習朝儀、閲試称旨、授尚書礼部侍郎・知侍儀司事。十年、授秘事少監、購求天下秘書。十九年、遷昭文館大学士・知太史院侍儀司事。授時暦成、賜鈔二百錠、進階中奉大夫。二十九年、編国朝集礼成、帝特命其子慧襲侍儀使。皇慶元年、贈金紫光禄大夫・司徒・雲国公、諡文昭。子慧、後仕至昭文館大学士」