青山 清吉(あおやま せいきち、1773年(安永2年) - 1838年(天保9年)7月28日[1])は江戸時代後期の狂歌師で、は青山堂枇杷麿(せいざんどう びわまろ)。

江戸小石川伝通院前の本屋青山堂の主で、大田南畝と親交があり[2]、狂歌は石川雅望の五側(ごがわ)に属した。通称は雁金屋(かりがねや)清吉[3]。別号に枇杷丸,平々山人。狂歌集に「枇杷丸一夜ねす百首」「風流水揚帳」。

家業である青山堂の初代は儀助と称したが三代が清吉を称し、以降清吉を襲名している[1][4]。この時代の文人達の著作を出版している[1][5]

1838年(天保9年7月28日)死去、66歳。

著作

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脚注・参考文献

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脚注

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参考文献

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