田中不二

日本の機械工学者

田中 不二(たなか ふじ、1877年明治10年)8月20日 - 1922年大正11年)11月19日[1])は、日本の機械工学者。

東京出身[2]。兄はカーバイド工業を開拓した藤山常一である[1][3]

1894年(明治27年)に田中林太郎の養子となった[1][3]正則尋常中学校第一高等学校工科を経て[2]、1901年(明治34年)に東京帝国大学工科大学機械工学科を卒業した[2][1]。同年7月に同学科の講師となった[2]。同年11月に田中林太郎の娘の芳子と結婚した[2]

1902年(明治35年)に助教授となった[1][3][2]。1904年(明治37年)に機械工学第一講座分担を命じられ、1906年に初の日本語による機械設計の教科書『機械設計及製圖』を同僚の内丸最一郎と共著で出版した[2]

1908年(明治41年)にイギリス、アメリカ合衆国、ドイツに留学し機械工学を研究し、1911年(明治44年)に帰国後機械工学第二講座の担当となり、教授に就任した[1][2]。1914年(大正3年)に海軍大学校の教授を務め、早稲田大学理工科でも教鞭をとった[1]

1915年1月時点で従五位[3]

出典

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  1. ^ a b c d e f g 田中不二」『20世紀日本人名事典』https://kotobank.jp/word/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E4%B8%8D%E4%BA%8Cコトバンクより2024年8月12日閲覧 
  2. ^ a b c d e f g h 寺田 p.39
  3. ^ a b c d 田中不二 - 『人事興信録』第4版(1915年1月、リンク先は名古屋大学大学院法学研究科の「人事興信録データベース」)