姚国楨
姚 国楨(よう こくてい、1883年 – 1942年)は、中華民国の官僚・政治家・教育者。字は幼枝[4]。北京政府・安徽派の政治家で、交通行政部門で各職を歴任した。後年、冀東防共自治政府や中華民国臨時政府、南京国民政府(汪兆銘政権)に参与している。弟の姚震も安徽派の政治家・司法官である[4]。甥は中華人民共和国で国務院副総理をつとめた姚依林[5]。
姚国楨 | |
---|---|
Who’s Who in China 3rd ed (1925) | |
プロフィール | |
出生: | 1883年[1][2][3][4] |
死去: | 1942年 |
出身地: | 清安徽省池州府貴池県[1][2][3][4] |
職業: | 官僚・政治家・教育者 |
各種表記 | |
繁体字: | 姚國楨 |
簡体字: | 姚国楨 |
拼音: | Yáo Guózhēn |
ラテン字: | Yao Kuo-chen |
和名表記: | よう こくてい |
発音転記: | ヤオ・クオチェン |
事績
編集北京政府時代
編集京師大学堂を卒業。清末は広西軍事公債局北京駐在代表をつとめた。
中華民国成立後の1912年(民国元年)7月20日、北京政府で交通部総務庁編製科科長に任命され、以後、交通部でほとんどの官歴を重ねることになる。1914年(民国3年)2月25日、交通部統計委員会副会長に就任し、1916年(民国5年)には交通部の電政・郵政・航政の各司で司長代理をつとめる。翌1917年(民国6年)、交通部で郵政総局局長や参事を歴任した。1919年(民国8年)12月3日、靳雲鵬内閣で交通部次長に任命され、統一鉄路会計会会長や交通銀行幇理、経理公債処処長なども兼任した[6] 。
1920年(民国9年)7月26日、安直戦争で安徽派が敗退したため、姚国楨も交通部次長など各職を辞任する[6]。直隷派の意向により大総統・徐世昌から逮捕令を発せられたため、朱深や弟の姚震らと共に日本公使館へ逃げ込んだ。1922年(民国11年)、姚震や呉光新らと天津に逃れ、反直隷派の活動に従事している[1][2][3][4]。
第2次奉直戦争後に段祺瑞が復権すると、1924年(民国13年)11月12日に姚国楨は全国薬酒事務署督弁に任命された。翌1925年(民国14年)9月5日には、関税特別会議委員会委員となる。しかし1926年(民国15年)に段が再び失脚したため、姚は4月20日に各職を辞任して天津に逃げ込んだ[6]。1927年(民国16年)2月29日、北京交通大学校長に任命され[6]、同年中に政治討論会会員になった[2][3][4]。
親日政権時代
編集国民政府時代において、姚国楨は基本的に天津に閑居していた(姚震は1935年死去)。冀東防共自治政府が成立すると、姚は顧問として起用されたという[5]。
王克敏らが中華民国臨時政府を創立すると、姚国楨もこれに参与する。1938年(民国27年)4月8日、姚は振済部次長(総長:王揖唐)として起用された[7]。ところが同年9月18日、臨時政府の行政改革により振済部は廃止されてしまう[8]。振済部総長の王揖唐は内政部総長に転じたが、姚は他の地位に改任されることなく、そのまま下野した。
1940年(民国29年)3月30日、南京国民政府(汪兆銘政権)に臨時政府が合流し、華北政務委員会が成立する。4月2日に姚国楨は国民政府中央で立法院立法委員に選出されたが、翌1941年(民国30年)4月17日に免ぜられている[9]。華北政務委員会では、1941年1月21日に長蘆塩務管理局局長代理として任命され[1][10]、3月7日には華北墾業股份有限公司董事長を兼任した[11]。8月13日、華北河渠建設委員会委員も兼任している[12]。
1942年、死去[5]。享年60。
注
編集- ^ a b c d 徐主編(2007)、1041頁。
- ^ a b c d 満蒙資料協会編(1940)、1848頁。
- ^ a b c d 尾崎監修(1940)、315頁。
- ^ a b c d e f 外務省情報部編(1937)、496頁。
- ^ a b c 「姚依林的早年歳月和他的大家族」中国共産党新聞網2009年11月4日※webアーカイブにリンク
- ^ a b c d 中華民国政府官職資料庫「姓名:姚國楨」
- ^ 臨時政府令、令字第173号、民国27年4月8日(『政府公報』第12号、民国27年4月11日、臨時政府行政委員会公報処、2-3頁)。
- ^ 臨時政府令、臨字第109号、民国27年9月18日(『政府公報』第36号、民国27年9月26日、臨時政府行政委員会公報処、2頁)。
- ^ 劉ほか編(1995)、1039頁。
- ^ 華北政務委員会令、会字第205号、民国29年1月21日(『華北政務委員会公報』第47・48期合刊、民国30年2月4日、本会1頁)。
- ^ 「華北墾業公司創立総会」『同盟旬報』5巻7号通号134号、昭和16年3月上旬号(3月20日発行)、同盟通信社、20頁。
- ^ 華北政務委員会令、会字第342号、民国30年8月13日(『華北政務委員会公報』第91・92期合刊、民国30年9月19日、本会4頁)。
参考文献
編集- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 満蒙資料協会編『満洲紳士録 第三版』1940年。
- 尾崎秀実監修「アジア人名辞典」『アジア問題講座 12』創元社、1940年。
- 外務省情報部編『現代中華民国満洲帝国人名鑑 昭和十二年版』東亜同文会業務部、1937年。
- 満蒙資料協会編『満華職員録 第康徳九年版・民国三十一年版』満蒙資料協会、1941年。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。