村上 景広(むらかみ かげひろ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将能島村上一族。村上隆重嫡男武吉の従兄弟。備中笠岡城主。

 
村上景広
時代 戦国時代 - 江戸時代前期
生誕 天文23年(1554年)頃?
死没 寛永4年10月1日[1]1627年11月8日
改名 又鶴丸(幼名)→景広
別名 少輔次郎、弾正、八郎左衛門尉(通称)、元平(別名)
主君 毛利氏小早川隆景細川忠興
氏族 村上氏
父母 父:村上隆重[1]、母:村上義任
兄弟 東吉種景広、女(乃美景嘉室)
正室:椋梨弘平
義盛景則、女(包久景忠室)、正重(吉之允)
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生涯 編集

村上水軍の能島村上氏の一族である村上隆重の子として誕生。主君・小早川隆景より偏諱を賜い景広と名乗る(隆景の生家である毛利氏にも従い、その通字を受けたとみられる元平(もとひら)の別名も伝わる)。

毛利氏に従い、父と共に瀬戸内の要衝笠岡城の城主として活動した。当時の注進状によれば、織田氏との第一次木津川口の戦いにも参戦している。文禄の役では、海上戦に不慣れな藤堂高虎隊に属して、これを補佐している。

関ヶ原の戦いでは、西軍に属した毛利氏の下、乃美景継乃美宗勝の子)、九鬼嘉隆らと共に尾張国海上を封鎖し、東軍に属した水軍を散々に打ち破って首級107を挙げた。しかし、西軍が敗れたために毛利氏が減封となると、豊前国中津藩の藩主となった細川忠興に招かれて毛利氏を離れ、1万石を賜った。以後、細川氏の家臣として、300余人を率いて大坂の陣にも参加している。

寛永4年(1627年)死去。跡を嫡子・景則(長岡河内介)が継いだ。

脚注 編集

参考文献 編集

  • 新人物往来社編『小早川隆景のすべて』(新人物往来社、1997年) ISBN 4-404-02517-3
  • 今井尭ほか編『日本史総覧』 3(中世 2)、児玉幸多小西四郎竹内理三監修、新人物往来社、1984年3月。ASIN B000J78OVQISBN 4404012403NCID BN00172373OCLC 11260668全国書誌番号:84023599