美甘政和
美甘 政和(みかも まさとも、1835年〈天保6年4月24日〉 - 1918年〈大正7年〉12月19日)は、岡山県津山市の美作一宮の中山神社の神官。楽天翁と号す。
略歴
編集岡山県湯原村の里正で酒造業の美甘政徳の子・与一郎として天保6年(1835年)に生まれる[1][2]。播磨の河野鉄兜の塾に遊学したが、父の死去により帰郷し、家業を継ぐ[2]。家塾を開き、地元の若者に国学を教える[3]。明治2年(1869年)、津山藩権少属となり、明治4年、中山神社の禰宜に任命される[2]。明治7年に同神社の権宮司となり、明治14年には美作国神道事務分局長、翌15年には太政官より権少教正を命じられた[2]。
明治18年(1885年)の政教分離により、神道大社教管長・千家尊福に属し、本職・家業を捨てて布教活動に従事、自身の説をまとめた『天地組織の研究』5巻を上梓、皇典講究所より四等学生を授与される[2]。明治30年、中山神社宮司に任じられ、美作の神職の多くが政和に就いた[1]。翌31年に正七位、明治37年に従六位、同39年に勲六等瑞宝章を授けられる[2]。
家族
編集- 父・美甘政徳 - 岡山県湯原村庄屋
- 長男・美甘光太郎(1859-1936) - 眼科医。岡山医学校、済生学舎、順天堂大学で学び、明治18年医師免許取得(医籍#269)、丸尾興堂の招きに応じ静岡の眼科医院「復明館」に勤務ののち、明治22年(1889年)上京して中外医事新報に入り、編集に携わる[4]。河本重次郎の逆さまつげ手術法を学び、これをもとに美容整形としての二重手術を考案し、1896年に世界で初めて発表した[5][4]。著書に眼科関係書のほか、『旭香美甘政和翁』(1925年)などがある。
- 二男・安東政重
- 孫・安東友哉 - 政重の長男。日本勧業銀行理事引退後、豊国村村長を務めた。妻の兄に美土路昌一[6][7]。
脚注
編集参考文献
編集- 『天地組織之原理』全5巻 明治23年 初版 11月1日 出版 和綴じ本 神典研究所篇
- 『天地組織之原理』合冊本 昭和4年 再版 門下同志篇 門弟工藤氏 白峯宮寄贈本
- 『幽顕相通神道宇宙観略説』大正5年版
- 『国幣中社・中山神社考』
- 『再版趣意書』昭和3年
外部リンク
編集- 天地組織之原理美甘政和著 (神典研究会事務所, 1892)