ポール・ハワード・ダグラス: Paul Howard Douglas1892年3月26日 - 1976年9月24日)は、アメリカ合衆国政治家経済学者。1949年から1967年までイリノイ州選出上院議員を務めた。

ポール・ハワード・ダグラス
任期
1949年1月3日 – 1967年1月3日
前任者チャールズ・W・ブルックス
後任者チャールズ・H・パーシー
個人情報
国籍アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
政党民主党
配偶者ドロシー・ウォルフ・ダグラス(離婚)
エミリー・タフト・ダグラス(死去)
出身校ボウディン大学
コロンビア大学
ハーバード大学
専業経済学者
宗教クエーカー
受賞銅星章
名誉負傷章 (2)
兵役経験
所属組織アメリカ合衆国海兵隊の旗 アメリカ海兵隊
最終階級中佐
戦闘第二次世界大戦

生い立ち

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マサチューセッツ州セーラムの小さな町で生まれた。彼が4歳の時に母親が死去し、父親は再婚した。父親は再婚相手に暴力を振るい、離婚できなかった継母は夫を残し、ダグラスと兄を連れてメイン州ピスカタキス郡へ逃れた。そこでは彼女の兄弟とおじが森林にリゾートを造っていた。

研究生活と家族

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1913年にファイ・ベータ・カッパのメンバーとしてボウディン大学を卒業した。その後コロンビア大学に入学し、1915年の経済学の修士号を、1921年には博士号を取得した。1915年に彼はブリン・マウワー大学の卒業生で、コロンビア大学で博士号を得たドロシー・ウォルフと結婚した。

1915年から1920年まで、夫妻は6回転居した。ポールはハーバード大学で研究し、イリノイ大学およびオレゴン州リード大学で教鞭を執った。また、ペンシルベニア州エマージェンシー・フリート社で労働争議の調停を行い、ワシントン大学でも教鞭を執った。エマージェンシー・フリート社で勤務している間に、彼はジョン・ウールマンの「The Journal of John Woolman」を読んだ。シアトルで教員を務めたときに、彼はクエーカー教徒となった。

1919年にダグラスはシカゴ大学で経済学の教授となる。1921年に彼は社会改革者ジェーン・アダムズに出会っている。ダグラスは自身の仕事を楽しんでいたが、妻は縁故主義の禁止という大学の規則のため、職を得ることができなかった。スミス大学に職を得ると、彼女はマサチューセッツ大学アマースト校で教鞭を執った経験のある夫に、一家でマサチューセッツに転居するよう説得した。シカゴでダグラスはチャールズ・W・コッブと共にコブ=ダグラス型関数を発表した。ダグラスは結婚生活が継続できないとし、二人は1930年に離婚した。ドロシーが4人の子供を引き取り、ダグラスはシカゴに戻った。翌年ダグラスは彫刻家ロラード・タフトの娘でありウィリアム・タフト元大統領の遠戚であるエミリー・タフトと再婚した。エミリーは政治活動家であり元女優、1945年から47年までイリノイ州大選挙区選出下院議員を務めた。

参照

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  • Biles, Roger. " Paul H Douglas, Mccarthyism and the Senatorial Election of 1954," Journal of the Illinois State Historical Society 95#1 2002. pp 52+.
  • Douglas, Paul H. (1972). In the Fullness of Time;: The Memoirs of Paul H. Douglas. Harcourt Brace Jovanovich. ISBN 0-15144-376-9 
  • Biographical Essay on the University of Chicago www site:

www.lib.uchicago.edu/e/spcl/phdouglas.html

  • Sledge, Eugene B. (1990). With the Old Breed: At Peleliu and Okinawa. Oxford University Press. ISBN 0-19506-714-2 
アメリカ合衆国上院
先代
チャールズ・W・ブルックス
  イリノイ州選出上院議員(第2部)
1949年 - 1967年
同職:スコット・W・ルーカス, エヴァレット・ダークセン
次代
チャールズ・H・パーシー