アルマン・エマニュエル・ド・ヴィニュロー・デュ・プレシ

第5代リシュリュー公爵アルマン・エマニュエル・ソフィー・セプティマニー・ド・ヴィニュロー・デュ・プレシ: Armand Emmanuel Sophie Septimanie de Vignerot du Plessis, 5e duc de Richelieu, 1766年9月25日 - 1822年5月17日)は、フランス復古王政時代の政治家である。フランス革命戦争ナポレオン戦争の間は、王党派の一人として大将の地位にいながら、ロシア帝国陸軍において将校として仕えた。

リシュリュー公爵
第2代、第5代フランス首相
任期
1815年9月26日 – 1818年12月9日
君主ルイ18世
前任者シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール
後任者ドゥソル侯爵ジャン=ジョセフ
任期
1820年2月20日 – 1821年12月14日
君主ルイ18世
前任者エリー・ドゥカズ
後任者ヴィレル伯爵ジャン=バティスト・ギヨーム・ジョセフ
個人情報
生誕 (1766-09-25) 1766年9月25日
フランス王国パリ
死没 (1822-05-17) 1822年5月17日(55歳没)
フランス王国パリ

生涯

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前半生

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第4代リシュリュー公爵ルイ・アントワーヌ・ソフィー・ド・ヴィニュロー・デュ・プレシとその妻アデライード・ド・オートフォール(Adélaïde de Hautefort)の息子としてパリで生まれた。父はルイ15世の寵臣ルイ・フランソワ・アルマン・ド・ヴィニュロー・デュ・プレシの息子で相続人である。祖父の存命中はシノン伯爵(comte de Chinon)の称号で知られたアルマンは1782年、15歳の時にロザリー・ド・ロシュフォールと結婚したが、夫婦関係は形式的なもの以上には決してならなかった。

結婚して間もなく自分の教師と共に旅行にでかけジェノヴァフィレンツェヴェネツィアを訪問、外国旅行から3年後に王妃マリー・アントワネット近衛連隊に入り、翌年にはルイ16世のもと年老いた祖父が宮廷で務めた内廷侍従長(premier gentilhomme de la chambre)の地位を受け継いだ。内廷侍従長はヴェルサイユ宮殿では毎日の崇高な儀式「ルヴェー(lever)」と宮廷人の儀式の間に王の傍に侍ることが務めであり、若年にしてシノンの清教徒的な厳格さが宮廷の評判となったのである。

1788年に祖父が没すると父はリシュリュー公領を相続、シノン伯爵からフロンサク公爵(duc de Fronsac)にあらたまったアルマンは1789年には騎兵隊の中のエステルハージ連隊の隊長を務めている。同年の10月5日ヴェルサイユ行進が始まった時はパリにいて国王一家の安全を危惧し[1]、変装すると群衆に紛れ込んで王と王妃に警告すべくヴェルサイユに向かったのだが、路上の多くの人々を突破することが出来ず林の近道を取る。怒れる群衆が宮殿前に集まったちょうどその時に到着するとマリー・アントワネットのもとへ駆けつけ王の部屋へ避難するよう要請しようとする。そうすれば間違いなく王妃の命は長らえるだろうと考えたのだ[2]

亡命

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マリー・アントワネットの指示のもと、フロンサクはパリを離れウィーンに向かった。彼女の兄で神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世フランス革命について議論するためである。ところが、フロンサクが到着する前にヨーゼフ2世が死去したため、彼はヨーゼフ2世の弟で兄の帝位を継承したレオポルト2世フランクフルトでの戴冠式に出席し、ウィーンのハプスブルク家の宮廷に随行、そこでオーストリアの外交官シャルル・ジョゼフ・ド・リーニュ大公(Prince de Ligne)の息子であるシャルル・ド・リーニュ(Prince Charles de Ligne)との親交を温めた。

フロンサクはリーニュと一緒にロシア帝国陸軍に義勇軍として参加することを決断、もう一人の友人ルイ・アレクサンドル・アンドルール・ド・ランジュロン伯(Comte de Langeron)の同道もあり11月21日にモルドヴァのBenderの司令部に到着した。3人はアレクサンドル・スヴォーロフイズマイール攻略に立ち会い、戦いにおける功績によりフロンサクはロシアの女帝エカチェリーナ2世によって聖ゲオルギー勲章を受章され、黄金の剣を賜った。そして2年後の1791年2月、父の死に際しリシュリュー公爵を襲爵した。

フランス王室に仕えるさまざまな貴族の一部の不承不承のせいで、ルイ16世はすぐ後にリシュリューをパリに召還した。テュイルリー宮殿の内廷侍従長として再任するためである。しかし、彼は宮廷における自信はなく、6月20日の夜にヴァレンヌ事件を通報された。

 
オデッサのリシュリュー公の彫像(イワン・マルトス)

リシュリューの宮廷での役割は、王を革命のパリで沸騰しているあらゆる煽動から助ける上で役に立たないと感じたので、7月に王の許可によるパスポートを憲法制定国民議会から得て、外交官としてウィーンに戻った。オーストリアでしばし滞在した後は、ドイツ国境の町コブレンツに拠点を置いていたルイ16世の遠縁のコンデ公ルイ5世の反革命亡命貴族軍(コンデ軍) に参加した。しかしコンデ軍がさんざんな敗北をこうむった後、エカチェリーナ2世がコンデ軍指揮下の将校をロシア帝国陸軍に召し抱えることを申し出たため、リシュリューはそれを受諾してロシアへ移った。

ロシア陸軍においてはリシュリューは大将の地位におかれたが、エカチェリーナ2世の後継者であるパーヴェル1世による不当な懲罰と彼が考えたことがあったあと、彼は自らの職権をあきらめた。ところが、パーヴェル1世が1801年に殺されると情勢は好転、親交を結んでいた新皇帝アレクサンドル1世が即位、それに伴いフランスに合法的に帰国することの出来ない違法亡命貴族のリストからリシュリューの名が消去された。これはリシュリューに関してはフランスを掌握したナポレオン・ボナパルトから安全を保障されなかったのだが、アレクサンドル1世治下の新たなロシア帝国政府の要請によって取り消しが受け入れられたからであった。そして1803年にアレクサンドル1世からオデッサの知事に任命された。

2年後の1805年にリシュリューはオスマン帝国から獲得したばかりでノヴォロシアと呼ばれた大きな帯状の土地の総督になった。そこにはヘルソン県、エカテリノスラフ(現在のドニプロペトロウシク)及びクリミア半島が含まれていた。11年にわたるリシュリューの統治において、オデッサは規模、重要性において大いに発展し、同時に人口においても帝国第3位となった。1828年に彼のために銅像がオデッサ市民によって建立され、これらはオデッサの階段として知られるようになり、頂点にリシュリュー像が飾られている。また、1806年から翌年まで露土戦争を指揮し、コーカサスの拡張にも関わった。

フランス帰国後

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ナポレオン失脚の1814年にリシュリューはフランスに帰国したが、ナポレオンがすぐにエルバ島から戻ってきたため、ルイ18世リール近くで同道、そこからロシア軍に再び参加するためにウィーンに戻った。アレクサンドル1世との知己でルイ18世とフランスの利益に最善の奉仕が出来るだろうという目論みからである。

リシュリューの文章は彼自身を王政復古の始まりにおいて重要な支援者であると指摘している。しかし、彼の没収された財産のあらかたが記憶の彼方に失われたにもかかわらず、自分と同じく帰国した亡命貴族(エミグレ)とは思想が異なっていた。彼らの集まりと陰謀から自身を長期間のロシアの亡命で距離をおいたからである。よりに具体的には、彼はフランス革命の成果に逆行する亡命貴族達の妄想を共有しなかったのである。

ロシア皇帝の個人的な友人として、リシュリューの対仏大同盟における影響力は大いに役に立ったが、この事実にかかわらず、シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴールから職掌の就任を申し出された際、長期間フランスにいなかったことと、その時の状況に無知であることを言い訳にしながら断っている。しかし、同時に新しい超王党派(ユルトラ)主導の代議院またと見出しがたい議会)の開会にともなうタレーランの辞職後、リシュリューはマチュー・ド・モンモランシーにたびたび促された上で首相の継承を決断している。

フランスが大変早く同盟軍の占領の負担から解放されたのは主にリシュリューの影響力による。これを達成するために、彼は1818年アーヘン会議に出席した。しかしそこにおいて彼は、もし革命問題が復活すれば、神聖同盟軍がフランス国内に介入することをはっきりと通知された。

同年12月、同僚に選挙法の改正で支援を拒否されたため首相を辞任したが、1820年2月13日に起きたルイ18世の甥で後継者のベリー公シャルル・フェルディナン・ダルトワ暗殺事件とエリー・ドゥカズの失脚後、2月20日に再度首相に就任した。しかし2度目の在任期はユルトラと自由主義者からの政治的攻撃によって支持されておらず、1821年12月14日に辞任、翌年の1822年5月17日に卒中で死んだ。55歳であった。リシュリュー公爵は甥のアルマン・フランソワ・オデ・ド・ラ・シャペル・ド・サンジャン・ド・ジュミラクに受け継がれた。

脚注

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  1. ^ Cynthia Cox, Talleyrand's Successor, London (1959) p.30
  2. ^ Antonia Fraser, Marie Antoinette, The Journey, New York (2001) p.296

参考文献

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  •   この記事にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Richelieu, Armand Emmanuel Sophie Septemanie du Plessis, Duc de". Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 23 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 302-303.
  • Cynthia Cox, Talleyrand's Successor, London (1959) ASIN B000HICU0S
  • Antonia Fraser, Marie Antoinette, The Journey, New York (2001) ASIN 038548948X
  • Great part of Richelieu's correspondence with Pozzo di Borgo, Capo d'Istria and others, with his journal of his travels in Germany and the Turkish campaign, and a notice by the duchesse de Richelieu, is published by the Imperial Historical Society of Russia, vol. 54.
  • There is an exhaustive study of his career by Léon de Crousaz-Crétet, Le Duc de Richelieu en Russie et en France (1897), with which compare an article by L(éon). Rioult de Neuville in the Revue des questions historiques (Oct. 1897)
  • See also R. de Cisternes, Le Duc de Richelieu, son action aux conférences d'Aix-la-Chapelle (1898), containing copies of documents.
先代
シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール
フランスの首相
1815年 - 1818年
次代
ドゥソル侯爵ジャン=ジョセフ・ポール・オーギュスタン
先代
エリー・ドゥカズ
フランスの首相
1820年 - 1821年
次代
ヴィレル伯爵ジャン=バティスト・ギヨーム・ジョセフ
前任
アントワーヌ=ヴァンサン・アルノール
アカデミー・フランセーズ
席次16

第9代:1816年 - 1822年
後任
ボン=ジョゼフ・ダシエ