アハサー地方(アラビア語: الأحساء‎, ALA-LC: al-ʼAḥsāʼ, 湾岸地方の方言では al-ʼAhasāʼ)は、サウジアラビア東部州最大のオアシス地帯である[1]。東はペルシア湾に面し、南はルブウアルハーリー砂漠、西はダハナー砂漠英語版、北はクエートに囲まれた面積11万7,000平方キロメートルに及ぶ広大な地域である[1]。1952年まで当地には、ペルシャ湾から内陸に60km程行った地点に存在する町フフーフを州都とするアハサー州が置かれていたが、これに周辺の辺境地域を加えて東部州が成立した[1]ハージャルとも呼ばれる。英語圏には al-Hasa の綴りで知られる。

Al-Hasa
Al-Hasa
アハサー
サウジアラビアにおけるアハサー(フフーフ)の位置
フフーフの東16kmに位置するカラ山

アハサー地方は、歴史的にはアル=バハライン英語版アラビア語版アラビア語: البحرين‎, ALA-LC: al-Baḥrayn)の一部として知られている。なお、「アル=バハライン」が指す地理的空間は、オマーンとの国境地帯やアウワール島(現在のバーレーン国を構成する島)もその中に含む、アラビア半島の東海岸部の広大な地域であった。オアシス地帯であったアハサー地方は、このアル=バハラインの中心地として栄え、当該地域では珍しく農業が可能な条件に恵まれたことから、多くの人口を養ってきた。

気候

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フフーフ(1985–2010)の気候
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
最高気温記録 °C°F 32.7
(90.9)
37.8
(100)
41.2
(106.2)
45.0
(113)
49.0
(120.2)
50.6
(123.1)
50.8
(123.4)
49.7
(121.5)
48.0
(118.4)
45.6
(114.1)
45.8
(114.4)
32.5
(90.5)
50.8
(123.4)
平均最高気温 °C°F 21.2
(70.2)
24.2
(75.6)
28.9
(84)
35.1
(95.2)
41.5
(106.7)
44.4
(111.9)
45.7
(114.3)
45.4
(113.7)
42.3
(108.1)
37.6
(99.7)
29.9
(85.8)
23.4
(74.1)
35.0
(95)
日平均気温 °C°F 14.7
(58.5)
17.2
(63)
21.5
(70.7)
27.2
(81)
33.3
(91.9)
36.3
(97.3)
37.8
(100)
37.2
(99)
33.8
(92.8)
29.2
(84.6)
22.4
(72.3)
16.6
(61.9)
27.3
(81.1)
平均最低気温 °C°F 8.5
(47.3)
10.6
(51.1)
14.3
(57.7)
19.6
(67.3)
24.9
(76.8)
27.6
(81.7)
29.4
(84.9)
28.9
(84)
25.3
(77.5)
21.1
(70)
15.6
(60.1)
10.5
(50.9)
19.7
(67.5)
最低気温記録 °C°F −2.3
(27.9)
1.0
(33.8)
0.7
(33.3)
7.3
(45.1)
17.0
(62.6)
18.3
(64.9)
19.8
(67.6)
19.7
(67.5)
17.3
(63.1)
13.0
(55.4)
5.8
(42.4)
0.8
(33.4)
−2.3
(27.9)
雨量 mm (inch) 15.0
(0.591)
11.6
(0.457)
16.2
(0.638)
10.7
(0.421)
2.1
(0.083)
0.0
(0)
0.0
(0)
0.9
(0.035)
0.0
(0)
0.6
(0.024)
5.1
(0.201)
21.1
(0.831)
83.3
(3.28)
平均降水日数 8.7 5.8 9.1 7.3 2.0 0.0 0.1 0.2 0.0 0.3 3.1 7.2 43.8
湿度 55 49 44 38 27 22 23 30 33 39 47 56 39
出典:Jeddah Regional Climate Center[2]

歴史

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この地域は乾燥地に囲まれた中で水が豊富に得られるため、有史以前より人が居住していた[3]。当時から天然水が湧き出るオアシスであり、農業が行われていた。その中でも特にナツメヤシが栽培されていた。

初期の歴史は東アラビアと大差が見られない。899年にカルマト派の指導者であるアブー・ターヒル・アル=ジャンナービー英語版の支配下に入り[4]アッバース朝からの独立を宣言した。この時の首都であるアル=ムウミニーヤは現在のフフーフ近郊に位置していた。1000年前後にアル=ハサーは世界9位と見積もられる人口を擁していたとされ、その人口は10万人とされている[5]。1077年に、ウユーニー朝英語版によって征服された。その後ウスフール朝英語版の支配下に入り、ジャブル首長国に支配は受け継がれた。ジャブル首長国はこの近隣の地域を出自に持つ王朝で、ウユーニー朝末期にホルムズに奪われたバーレーン島を取り返す程成長した[6]

1521年、ポルトガル王国がアワル諸島(今日のバーレーン)をジャブル首長国のミクリン・イブン・ザーミル英語版から奪い取り、ジャブル首長国は衰退した[7]。ジャブル首長国はその状況下でオスマン帝国ムンタフィク族の連合から自らの領地を守らなければならなかった。しかし1550年にアハサー地方と隣接するカティーフスレイマン1世によって征服され、オスマン帝国の支配下に入った[8]。行政区画としてはエヤーレティ・ラフサー英語版となったが、ポルトガルの属国にされた事も多かった。

1600年代に入るとオスマン帝国は勢いを逸し、他方でポルトガルもイギリス帝国サファヴィー朝によって1622年にホルムズから追放され[6]、1670年にオスマン帝国はアハサー地方から撤退[8]バヌー・ハーリドアラビア語版部族の支配下に入った。

1790年にバニー・ハーリド部族はワッハーブ派サウード家との戦争に敗れ[6]、1795年にアハサー地方とカティーフは第一次サウード王国に編入されたが、1818年にムハンマド・アリーの侵入によって再びオスマン帝国領となった。その後再びバヌー・ハーリド部族がこの地を奪還したものの、1830年に第二次サウード王国に編入された。

1871年に三度オスマン帝国に編入され[8]、アハサー地方はナジュド県英語版の一部となり、ナジュド県の県庁はフフーフに置かれた。ナジュド県は当初バグダード州英語版に含まれる県であったが、1875年にバスラ州英語版に所属が変更された。1913年にアブドゥルアズィーズ・イブン・サウードナジュド王国(後のサウジアラビア)の一部としてアハサー地方とカティーフを合併した[9]ナジュド及びハッサ王国)。

1922年12月2日にイギリスのパーシー・コックスオカイル議定書でクウェートとの国境を策定[10]。これに先立ってジョン・モアはクウェート、ナジュド双方の首長に会っている。この結果、この地域はナジュドに属すと画定され、現在に至っている。

経済

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ナツメヤシで埋まるオアシス

古来からアラビア半島では珍しくコメ赤米)の栽培が出来る地域であった[11][12]

1938年にダンマームの近くで石油層が発見されると[13][14]、急速に現代化が進んだ。1960年代には1百万バレル (160,000 m3)に及ぶ石油が毎日生産されていた。今日でも伝統的な石油の産地として世界一となっている。

またナツメヤシでも有名である。このオアシスには3000万本とも言われるナツメヤシが植えられており、毎年10万トン以上の生産が為されている。

観光

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アハサー地方には天然の泉が60から70程度存在している。

その他、古代から人が居住していたため、歴史的な遺跡も点在している。

世界遺産

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  アハサー・オアシス、進化する文化的景観
サウジアラビア
画像募集中
英名 Al-Ahsa Oasis, an Evolving Cultural Landscape
仏名 Oasis d’Al-Ahsa, un paysage culturel en évolution
面積 8,544 ha
(緩衝地域 21,556 ha)
登録区分 文化遺産
登録基準 (3), (4), (5)
登録年 2018年
公式サイト 世界遺産センター(英語)
地図
 
 
使用方法表示

この世界遺産となる文化的景観庭園運河井戸、農業用排水の湖(アル=アスファル湖英語版)、山、洞窟村落モスクなどの水管理システムと歴史的建造物を内包する。特に250万本のナツメヤシが生い茂るオアシスの風景が圧巻的である[12]

登録基準

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この世界遺産は世界遺産登録基準のうち、以下の条件を満たし、登録された(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。

  • (3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。
  • (4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。
  • (5) ある文化(または複数の文化)を代表する伝統的集落、あるいは陸上ないし海上利用の際立った例。もしくは特に不可逆的な変化の中で存続が危ぶまれている人と環境の関わりあいの際立った例。

脚注

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  1. ^ a b c 『世界地名大事典3(中東・アフリカ)』p.41
  2. ^ Climate Data for Saudi Arabia”. Jeddah Regional Climate Center. January 26, 2016閲覧。
  3. ^ http://www.hcci.org.sa/English/AlAhsa/Pages/AboutAlahsa.aspx
  4. ^ Wheatley, Paul (2001). The places where men pray together: cities in Islamic lands, seventh through the tenth centuries. Chicago: University of Chicago Press. p. 129. ISBN 0-226-89428-2. https://books.google.com/books?id=h0ANg137kEMC&pg=PA129&dq=al-hasa+al-Jannabi&lr=&as_brr=3&ei=Z0NoSNqbNpPSjgGFwbW-Dw&sig=ACfU3U20AUwfbHBFz1pQJRKhKU37onBKjA 
  5. ^ Al Hasa population soared to 100,000 by circa 1000
  6. ^ a b c East Province No.3”. 4 May 2016閲覧。
  7. ^ Al-Juhany, Uwidah Metaireek (2002). Najd before the Salafi reform movement: social, political and religious conditions during the three centuries preceding the rise of the Saudi state. London: Ithaca Press. p. 53. ISBN 0-86372-401-9. https://books.google.com/books?id=MzN1Mo8_bd4C&pg=PA53&dq=1521+Awal+portegese&lr=&as_brr=3&ei=nMlnSPGOMJSCjwHw6rX-BQ&sig=ACfU3U3mjovC2GTKf3AYcJyVVudqoib4dA 
  8. ^ a b c Long, David (2005). Culture and Customs of Saudi Arabia (Culture and Customs of the Middle East). Westport, Conn: Greenwood Press. p. xiv, p8. ISBN 0-313-32021-7. https://books.google.com/books?id=VKisHwiTxJQC&pg=PR14&dq=Al-Hasa&lr=&as_brr=3&ei=TH1nSMaFJ5SCjwHw6rX-BQ&sig=ACfU3U28Gti31PK9ZswE9JfChNzTo5jfHg 
  9. ^ World and its peoples. London: Marshall Cavendish. (2006). p. 29. ISBN 0-7614-7571-0. https://books.google.com/books?id=j894miuOqc4C&pg=PA28&dq=Al-Hasa+ottomans&lr=&as_brr=3&ei=2X1nSIuKD4egiwH8kMCGBg&sig=ACfU3U1k6RLNXLf1VZgzM-q8xBoq43h16Q#PPA29,M1 
  10. ^ Finnie, David (1992-12-31). Shifting Lines in the Sand. I B Tauris. p. 60. ISBN 1-85043-570-7. https://books.google.com/books?id=OZrnZpS84xoC&pg=PA60&vq=december+2,+1922&dq=1922+Percy++Cox&lr=&as_brr=3&source=gbs_search_s&sig=ACfU3U1E6dAs33YU2iib38PajYJaYYp87Q 
  11. ^ Prothero, G.W. (1920). Arabia. London: H.M. Stationery Office. p. 85. http://www.wdl.org/en/item/11767/view/1/85/ 
  12. ^ a b Al-Ahsa Oasis, an Evolving Cultural Landscape” (英語). UNESCO World Heritage Centre. 2023年5月14日閲覧。
  13. ^ Citino, Nathan J. (2002). From Arab nationalism to OPEC: Eisenhower, King Saʻūd, and the making of U. S.-Saudi relations. Bloomington: Indiana University Press. p. xviii. ISBN 0-253-34095-0. https://books.google.com/books?id=iHfVWjHAjCoC&pg=RA1-PR18-IA1&dq=Dammam+petroleum&lr=&as_brr=3&ei=FqloSL-tKYjWjgHG06GOBg&sig=ACfU3U1zJaTaJhvZwGUychU3K8PXweBDCA 
  14. ^ Farsy, Fouad (1986). Saudi Arabia: a case study in development. London: KPI. p. 44. ISBN 0-7103-0128-6. https://books.google.com/books?id=pR0OAAAAQAAJ&pg=PA44&dq=Dammam+petroleum&lr=&as_brr=3&ei=FqloSL-tKYjWjgHG06GOBg&sig=ACfU3U3QQn5lnambZAKNtdfxQg0NzNyzyQ#PPA44,M1 

参考文献

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外部リンク

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座標: 北緯25度25分46秒 東経49度37分19秒 / 北緯25.42944度 東経49.62194度 / 25.42944; 49.62194