アンドリュー・ハンディサイド

アンドリュー・ハンディサイド: Andrew Handyside and Company)は、19世紀にイギリスダービーに存在した鉄鋼関連の企業である。以下、この企業についての記述ではハンディサイドと称する。

企業が存在したダービーのFriar Gateにある鉄道橋。
ノッティンガム駅英語版にあるハンディサイドの銘板。
1846年頃ダービー植物園英語版用に製作された花器のひとつ。ダービー博物館・美術館で展示されている。

歴史 編集

創業者 編集

創業者はアンドリュー・ハンディサイド(以下アンドリューと称する)である。アンドリューは 1805年スコットランドエディンバラで生まれ、長じて叔父のチャールズ・ベアード英語版ロシアサンクトペテルブルクで展開するエンジニアリング事業に学んだ。1848年、ダービーにあるブリタニア・ファウンドリーに移り、その業務を引き継いだ。

ブリタニア・ファウンドリー 編集

ブリタニア・ファウンドリーが設立されたのは1818年で、創業者はウェザーヘッドとグローバーという2名の人物であった。同社は装飾用鋳物を製造しており、その製品は高い評価を得ていた。その背景には、熟練工の高度な技術と、鋳造で使用する砂の質が高いことがあった。1840年頃にはオーナーの交代があり、 鉄道に関する製品の製造をはじめた。初期の顧客にはミッドランド鉄道ダービー工場英語版があり、蒸気機関車シリンダーブロックなどの鋳物を供給していた。

アンドリュー・ハンディサイド・アンド・カンパニーへ 編集

1847年、会社名をアンドリュー・ハンディサイド・アンド・カンパニーと改称した。鋳物の装飾品は流行遅れになっていたが、鋳鉄そのものへの需要は、が登場するまでの間、鋳鉄鉄骨等、産業において高まるばかりであった。アンドリューは素材の強度を上げる研究に集中し、1平方インチ(6.45平方センチメートル)あたりの引っ張り強度の基準である17トンをはるかに上回る20トンから23トンのテストに成功した。1854年にはロンドン郊外のウーリッジでのことであった。アンドリューはまた、芸術的感覚も失わずにいた。

彼の発想は、庭に配置する装飾的置物から鉄道用橋梁に及んだ。新たに設置された街路のガス灯の支柱(いまなおダービーのワードウィックに現存)、最初の近代的な郵便局ポスト、約2000種類に及ぶ窓枠を製造した。製鋼法を編み出したヘンリー・ベッセマーには、温室用のドームを供給した。1840年から1846年の間には400の橋梁を製造し、ロンドン・ブライトン・アンド・サウス・コースト鉄道に収めた。

事業の拡大 編集

ハンディサイドの工場では圧延機、ハンマー、鍛造用機械、プレス機械を自社で使用するために製造していたが、のちには他の企業や新たな製鉄所にも供給した。

19世紀半ばには、アーチ構造物の建造を開始した。1854年には駅のホーム部分における列車用上屋を建造した。 ブラッドフォード・アドルファス通り駅英語版ミドルズブラ駅英語版セント・イノック駅 などがその例である[1]

1870年にはハンディサイド製のプレハブ工法の建造物[2]は世界各国に輸出された。1871年、ノッティンガムのトレント橋英語版を建設。翌1872年にはロンドンの吊り橋アルバート橋英語版を建設。ほか、ロシア、日本アフリカ南アフリカ南アメリカカナダインドなどでも橋梁や建築物の製造に携わった。それら建築物の多くは、いまなお使用されている。

1874年、ビル、プラント、機械装置に対する減価償却を損益に反して支払わねばならなくなり、不幸にも税調査官は同意しなかった。ハンディサイドは控訴では勝訴したが、のちに財務裁判所英語版において敗訴した。

1877年グレート・ノーザン鉄道の路線がダービーまで延長された。その際、ダーウェント峡谷を東からまたぐ長大な高架橋が架設された。その高架橋は裕福な土地であるフライアゲートを含むダービーの北部を横断していた。住人感情を和らげるべく、架道橋は優美な外観とされた。当初は罵倒されたが、現在は市民に賞賛されており、近代的なバイパスへの付け替えへの抵抗が継続されているほどである。ハンディサイドはまた、ダーウェント川をまたぐ橋梁も製作した。その橋は、機関車6両が渡るテストも行った。

同年、チェシャー鉄道委員会英語版は新たな路線を開業し、ハンディサイドはマンチェスター中央駅英語版リバプール中央駅英語版の建築を担当した。その他、ハンディサイドによる建築物としては、ベリーにある、1881年 に木製のものから架け替えられたラテンストール英語版線のアウトワード橋英語版がある。この路線は1966年に廃止されたが、ネイチャー・トレール用の通路として橋は現存している。

ハンディサイドが手がけた最大の建築は、ロンドンのオリンピア(ナショナル・アグリカルチュアル・ホール)である。1886年に完成したこのホールは、1支間でカバーされたホールとしてはイギリス最大のものと言われている。

 
左右に流れるのがマンチェスター運河英語版。左の橋がバートン旋回水路橋ブリッジウォーター運河英語版をつなぐ。、右はバートン道路回転橋英語版

1893年、ハンディサイドはバートン旋回水路橋を含むマンチェスター運河英語版の建築物を担当した。現地に運ぶ前には、周到にも裏庭で組立とテストを行った。

アンドリューの死と企業の終焉 編集

1887年、アンドリューが死去。ハンディサイドは19世紀前半まで存在したが、20世紀前半の閉鎖までに徐々に規模を縮小した。鋳造所の敷地は宅地化された。現在はハンディサイド通りという通りに名称を遺している。

日本に現存する橋の例 編集

 
長岡市越路河川公園に保存されている旧越路橋。

脚注 編集

  1. ^ ここに例示した各駅の英語版の項目を参照すると、開業年がずっと後年のものがある。これらの整合性については、初版執筆者の知識不足ゆえ訳出が誤っている可能性があるため、当該項目を参照の上、各自で判断されたい。
  2. ^ 英語版はprefabricated market hallsとあるが、文章のつながりから建造物と訳した。

関連項目 編集

参考文献 編集

  • Cooper, B., (1983) Transformation of a Valley: The Derbyshire Derwent Heinemann, republished 1991 Cromford: Scarthin Books
  • Robert Thorne, ‘Handyside, Andrew (1805–1887)’, Oxford Dictionary of National Biography, Oxford University Press, Sept 2004; online edn, Jan 2008 link

外部リンク 編集

すべて英語のサイトである。