アンリ・ファンタン=ラトゥール
アンリ・ジャン・テオドール・ファンタン=ラトゥール(Henri Jean Théodore Fantin-Latour, 1836年1月14日 - 1904年8月25日)は、フランスの画家、リトグラフの版画家。
アンリ・ファンタン=ラトゥール Henri Fantin-Latour | |
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生誕 |
1836年1月14日 フランス王国、グルノーブル |
死没 |
1904年8月25日 フランス共和国、Buré (Orne) |
生涯
編集ファンタン=ラトゥールはフランス、イゼール県のグルノーブルに生まれた。父親のテオドール・ファンタン=ラトゥール(Théodore Fantin-Latour:1805-1875)も画家であった。父親やオラース・ルコック・ド・ボワボードランに学んだ後、1854年からパリのエコール・デ・ボザールで学んだ。パリの美術館で名画を模写して修行し、同世代のエドガー・ドガやエドゥアール・マネ、ベルト・モリゾと知り合った。1859年にジェームズ・マクニール・ホイッスラーに招かれて、イギリスに旅しイギリスの画家たちとも知り合いを得た。1959年にギュスターヴ・クールベとも知り合い、2年後クールベのスタジオで働いた。1863年の「落選展」に作品を出展した画家の一人となった。
1862年にマネ、アルフォンス・ルグロ、ホイッスラー、ヨハン・ヨンキント、フェリックス・ブラックモンらとエッチング版画家協会(Société des Aquafortistes)を設立した。
1864年に、ロンドンのロイヤル・アカデミー・オブ・アーツの展覧会に出展した。イギリスではファンタン・ラトゥールの花を描いた作品は人気を得た。
印象派の画家と同世代であり、親しかったが、写実主義のスタイルで描いた。
1876年、画家仲間だったヴィクトリア・デュブールと結婚。以後、夏になるとオルヌ県ビュレ(Buré)にあった妻の家族の田舎の邸宅で過ごし、その場所でファンタン=ラトゥールは亡くなった。遺体はパリのモンパルナス墓地に埋葬された。
作品
編集ファンタン=ラトゥールの作品でよく知られているのは、静物画、花の絵、友人の画家・作家たちのグループ肖像画、クラシックの大作曲家たちの作品を描いた精巧なリトグラフ [1]などである。
ファンタン=ラトゥールをイギリスに紹介したのは、ジェームズ・マクニール・ホイッスラーだった。
ファンタン=ラトゥールの絵の1つは現在250万USドルする。
ギャラリー
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サンザシの花瓶、サクランボの鉢、日本のお椀、カップと皿のある静物画(1872年)
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義理の妹シャルロット・デュブールの肖像(1882年)
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ミューズ (リヒャルト・ワーグナー)版画作品
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白いバラの静物画
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刺繍をする人 版画作品
脚注
編集- ^ ロベルト・シューマンの同名の曲を描いた『楽園とペリ』(1884年)THE CLIEVELAND MUSEUM OF ART