アヴォワーズ・ド・ノルマンディー
アヴォワーズ・ド・ノルマンディー(フランス語:Havoise de Normandie, 980年ごろ - 1034年2月21日)は、ブルターニュ公ジョフロワ1世妃、また、1008年から1026年まで息子アラン3世の摂政をつとめた[a]。
アヴォワーズ・ド・ノルマンディー Havoise de Normandie | |
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出生 |
980年ごろ |
死去 |
1034年2月21日 |
配偶者 | ブルターニュ公ジョフロワ1世 |
子女 |
アラン3世 エヴェヌス ウード(エオン1世) アデール |
家名 | ノルマンディー家 |
父親 | ノルマンディー公リシャール1世 |
母親 | グンノール |
宗教 | キリスト教カトリック教会 |
生涯
編集アヴォワーズはノルマンディー公リシャール1世と妃グンノールの娘で、兄弟にリシャール2世やルーアン大司教ロベールがいる[1]。
アヴォワーズと2人の姉妹は、結婚により重要な同盟関係を築いた[2]。エマは、最初にエゼルレッド2世と、2度目にクヌート1世と結婚し、2度イングランド王妃となった[2]。また、マティルドはブロワ伯ウード2世と結婚した[2]。そしてアヴォワーズは996年に行われた重要な二重結婚の花嫁の1人で、アヴォワーズはブルターニュ公ジョフロワ1世と、少し後に兄リシャール2世はジョフロワ1世の妹ジュディットと結婚した[3]。このノルマンディーとブルターニュの間の二重の同盟は、おそらく両方の家族を保護するために決められたものであり、ブルターニュに対しては思惑通り役に立った[3]。
1008年、ジョフロワ1世がアラン3世とウードの幼い2人の息子を残して死去し、リシャールは2人が若年の間、2人の後見をつとめ、ブルターニュの統治に重要な役割を果たした[3]。
アヴォワーズもアラン3世が若年の間、摂政となった[4]。1010年、摂政アヴォワーズと幼いアラン3世は、ノルマンディーからブルターニュに広がった農民の反乱に見舞われた。 アランは母親に励まされ、貴族たちを率いて反乱を鎮圧させることができた[5]。
子女
編集注釈
編集- ^ アヴォワーズの夫レンヌ伯ジョフロワは992年にブルターニュ公となったと推測される。しかしこのときブルターニュ公の称号はフランス王には認められず、1213年まで正式に認められなかった(The New international Encyclopædia, Volume 3 (1918), p. 789.)。
脚注
編集- ^ Schwennicke 1984, Tafel 79.
- ^ a b c Crouch 2007, p. 27.
- ^ a b c Douglas 1964, p. 29.
- ^ Palgrave 1864, p. 168.
- ^ Palgrave 1864, pp. 168–169.
- ^ Cokayne 1945, p. 779.
- ^ a b c Schwennicke 1984, Tafel 75.
- ^ Cokayne 1945, p. 780.
参考文献
編集- Schwennicke, Detlev (1984). Europäische Stammtafeln: Stammtafeln zur Geschichte der Europäischen Staaten. Neue Folge. Band II. Marburg, Germany: J. A. Stargardt
- Crouch, David (2007). The Normans; The History of a Dynasty. London: Hambledon Continuum
- Douglas, David C. (1964). William the Conqueror. Berkeley: University of California Press
- Palgrave, Francis (1864). The History of Normandy and of England. Vol. III. London: Macmillan & Co.
- Cokayne, George Edward (1945). H. A. Doubleday; Geoffrey H. White; Howard de Walden. ed. The Complete Peerage; or, A History of the House of Lords and all its Members from the Earliest Times. Vol. X. London: The St. Catherine Press, Ltd.