イエス・キリストのたとえ話

イエス・キリストのたとえ話(イエス・キリストのたとえばなし)とは、新約聖書の四つの福音書に見られる、イエス・キリストによる (たとえ) を用いた教え。

放蕩息子の帰還グエルチーノ

概要

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イエスのたとえ話を解釈するにあたり、イエスが取った教え方の多くがたとえ話であったこと、そしてその教えの多くが神の国についてのものであったということが、広く受入れられている。たとえ話は概念や規則と異なり、人々の記憶の中に刻まれる物語であり、有効な教育手段となっている。また、たとえ話はその筋書きによって、人生の模範・モデルを提供するものとなる[1]

イエスのたとえはシンプルでありながら、印象深く忘れ難いイメージとメッセージ性を持っており、単純でありながら、その主要な教えとなっている[2][3]。イエス・キリストのたとえ話は西洋におけるたとえ話の原型となり、聖書を読んだことのない人でも、そのたとえ話を知っている事がある[4]

さらに信仰の立場から言えば、寓話とたとえ話の相違は、寓話は寓話全体に意味があるのに対し、たとえ話には中心的真理が一つであることである[5]

これらのたとえ話にはイエスの時代に生きた取税人、羊飼い、農夫、漁師、日雇い労働者、裁判官、主人、婦人、父親、息子、管理人、しもべ、王、金持ち、物乞い、やもめなど様々な階級の人々が登場する。イエスはこれらの人々を登場させて当時の社会生活の中から、日常生活の様々な出来事を取り上げて神の国の奥義を教えている[6]

主なイエスの比喩とたとえ話

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ここではたとえ話に加えて、イエスが語ったことばに含まれる物語性のない比喩も合わせて取り上げる。

新しい教えと人間の再生に関するたとえ

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正しい教えと正しくない教えの見分け方に関するたとえ

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イエスの足に香油を塗る女 (作者不明)

着るもの、食べるものに思い煩ってはいけないことのたとえ

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自分を省みずに他人ばかりを責めてはいけないことのたとえ

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罪の赦しに関するたとえ

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理解することよりも実践が大事であることのたとえ

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疑うことなく神に救済を求め続けることが大事であることのたとえ

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隣人愛と永遠の命に関するたとえ

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自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされることのたとえ

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神の国に関するたとえ

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種を蒔く人 (ジェームズ・ティソ
James Tissot, Brooklyn Museum

弟子の覚悟に関するたとえ

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罪人への神のあわれみに関するたとえ

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最後の審判に関するたとえ

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イエスがたとえ話を用いる理由

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イエス・キリストは譬(たとえ)で話す理由については以下のように述べて、理解できる人と理解できない人がいる事を示した。

それから、弟子たちがイエスに近寄ってきて言った、「なぜ、彼らに譬でお話しになるのですか」。

そこでイエスは答えて言われた、「あなたがたには、天国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていない。 おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。 だから、彼らには譬で語るのである。それは彼らが、見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないからである。

こうしてイザヤの言った預言が、彼らの上に成就したのである。『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍くなり、その耳は聞えにくく、その目は閉じている。それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである』。しかし、あなたがたの目は見ており、耳は聞いているから、さいわいである。 — マタイによる福音書13章10節から16節(口語訳)
弟子たちは、この譬はどういう意味でしょうか、とイエスに質問した。 そこで言われた、「あなたがたには、神の国の奥義を知ることが許されているが、ほかの人たちには、見ても見えず、聞いても悟られないために、譬で話すのである。 — ルカによる福音書8章9節から10節(口語訳)
  • イエスは、神の国について人々の聞く能力に応じてわかりやすく教えることを目的としてたとえ話を用いている[14]
  • イエスのたとえ話は光と影、啓示と秘密、恵みと裁きの意味を同時に含んでいる。律法学者やファリサイ派の人々からイエスの伝道活動を妨げられることが予想された。そのためイエスは彼らの前では、たとえ話の奥義を語ることを好まず、こっそりと弟子たちだけにその意味することを解説した。[15]
  • 恵みと裁きが同時に現われることは「持っている人は更に与えられ、持っていない人は、持っていると思っているものまでも、取り上げられるであろう」<ルカ 8:18>ということばで語られている。
  • マタイによる福音書<21:33>でイエスはたとえ話を用いて当時の祭司長たちやパリサイ人たちに自分たちの裁きについて自分の口から言わせている[16]

脚注

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注釈

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  1. ^ 古い自分を捨て、新しい自分に生まれ変わること[7]
  2. ^ 新改訳聖書とフランシスコ会訳注『新約聖書』では「野のゆり」と訳されている[8]
  3. ^ やもめ(独身者)は、かばってくれる人もない弱者の代表[9]
  4. ^ たとえ小さく弱くても人はみな生きる使命がある[11]
  5. ^ 人は何度でも繰り返し立ち直って、神の恵みにふさわしい実を実らせる生活を生きていくことができる。ここに、このたとえ話が我々に与える希望がある[12]
  6. ^ 強い者も弱い者も、みな平等に生かされている[13]

出典

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  1. ^ 『キリスト教神学事典』(432頁〜433頁)
  2. ^ Friedrich Gustav Lisco 1850 The Parables of Jesus Daniels and Smith Publishers, Philadelphia pages 9-11
  3. ^ Ashton Oxenden, 1864 The parables of our Lord William Macintosh Publishers, London, page 6
  4. ^ William Barclay, 1999 The Parables of Jesus ISBN 066425828X page 9
  5. ^ 尾山令仁『聖書の権威』羊群社
  6. ^ 場崎 洋(2011)p.20
  7. ^ 船本弘毅(2002)p.192
  8. ^ フランシスコ会訳注『新約聖書』25頁。
  9. ^ フランシスコ会訳注『新約聖書』259頁。
  10. ^ 『新約聖書譬喩略解』p.210
  11. ^ 船本弘毅(2002)p.183
  12. ^ 加藤常昭(2001)p.135
  13. ^ 船本弘毅(2002)p.187
  14. ^ 場崎 洋(2011)p18
  15. ^ 場崎 洋(2011)p19
  16. ^ マタイ傳福音書(文語訳)#21:33-46

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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