ウネ・テムル(モンゴル語: Ūne temür,中国語: 遼王兀研帖木児,? - ?)とは、チンギス・カンの弟テムゲ・オッチギンの子孫で、15世紀中頃に活躍したモンゴル帝国の皇族。ウリヤンハイ三衛の一つ泰寧衛を統べ、「遼王(劉王)」と称してマルコルギス・ハーンモーラン・ハーンに仕えていた。漢字表記は兀研帖木児など。

概要 編集

ウネ・テムルの出自については不明な点が多いが、「劉王(遼王の誤り)」と称していることから元末明初に活躍した遼王アジャシュリの子孫であると考えられている。正統年間から景泰年間にかけて、泰寧衛はウネ・テムルの兄ゲゲン・テムルが総べていたが、ゲゲン・テムルの死を契機として史料上に現れるようになる。

天順4年(1460年)、ゲゲン・テムルが亡くなるとウネ・テムルは兄に代わって三衛を統治しようとしたが、三衛の頭目たちはウネ・テムルによる支配を認めなかったため、頭目たちの要請によって明朝朝廷が直々にゲゲン・テムルの地位はその息子トクトア・ボラトが継ぐよう三衛に通達した[1]

その後、天順7年(1463年)になるとウネ・テムルはマルコルギス・ハーンの側近として登場し、連名で明朝に使者を派遣した[2][3]。同じ頃、ボライ太師に明朝侵攻を手伝うよう要請されたのを断っており、明朝に賞賛されている[4]

成化13年(1477年)を最後としてウネ・テムルに関する情報は明実録にあらわれなくなり、この頃亡くなったものとみられる。後代に編纂された『万暦武功録』によると、ウネ・テムルの子孫は後に断絶してしまったという[5]

オッチギン王家 編集

脚注 編集

  1. ^ 『明英宗実録』天順四年五月己亥命故泰寧衛左都督革干帖木児子脱脱孛羅襲為都督僉事、仍旧管束三衛。初革干帖木児死、其弟兀研帖木児欲代総其衆、三衛頭目不服、朶顔衛都督朶羅干遣使奏保脱脱孛羅代父職、管理三衛、上従之、故有是命」
  2. ^ 『明英宗実録』天順七年五月癸丑「泰寧衛故都督革干帖木児弟兀研帖木児遣指揮答卜乃等、迤北馬可古児吉思王子遣頭目阿哈剌忽平章伯忽等、来朝貢馬。賜宴并綵幣表裏金織紵絲襲衣等物、仍命答卜乃等、齎勅并綵幣表裏帰賜兀研帖木児等」
  3. ^ 『明英宗実録』天順七年六月丁亥「迤北馬可古児馬可古児吉思王・満剌楚王・孛羅乃西王・右都督兀研帖木児等、頭目哈答不花等各遣頭目阿老出等二百人、来朝貢馬。賜宴并綵幣表裏紵絲襲衣、有差。仍命阿老出等、齎勅并綵幣表裏、各帰賜馬可古児吉思王等」
  4. ^ 『明英宗実録』天順七年六月甲戌「勅諭泰寧衛兀研帖木児劉王曰、昔我太宗皇帝主宰天下、念爾前人野処無依、特設衛分授以官職、俾率部属任意牧放。爾前人亦能歳時朝貢無有二心近年也先逼脇。爾三衛為悪也先敗滅爾等、改過復来朝貢朝廷。弘天地之量恩待如初。今孛来又誘爾等同来犯辺、爾等乃能堅志不従、遣使奏報、足見敬順天道、忠事朝廷之心。朕甚嘉悦、今後宜長久不改此心、自然永遠享福。使回、特賜綵幣表裏、用答爾誠至可收領」
  5. ^ 『万暦武功録』委正列伝「首長阿納失里、豈不親元遼王。高皇帝置三衛、独予泰寧指揮使、率有味矣。以今所聞、左都督兀研帖木児再伝而絶。今之襲者只児挨、乃右都督革干帖木児孫也」(Buyandelger1998)

参考文献 編集

  • 和田清『東亜史研究(蒙古篇)』東洋文庫、1959年
  • Buyandelger「往流・阿巴噶・阿魯蒙古 — 元代東道諸王後裔部衆的統称・万戸名・王号」『内蒙古大学学報』第4期、1998年