エスペロ (Espero) はイタリア海軍駆逐艦トゥルビーネ級

エスペロ(タラント、1935年9月12日)

艦歴

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1925年4月29日起工。1927年8月31日進水。1928年4月30日就役。

駆逐艦「オストロ」、「ゼフィーロ」、「ボレア」とともにラ・スペツィアを基地とするI Destroyer Flotillaの1st Squadronに所属[1]

第一次上海事変後、イタリアは艦艇2隻とSan Marco Battalionの派遣を決定。「エスペロ」と重巡洋艦「トレント」が派遣されることになり、2隻はDomenico Cavagnari提督に率いられて1932年2月5日にジェノバから出発した。[2]「トレント」は3月4日に上海に到着したが、「エスペロ」は悪天候でサイゴンに退避したため到着が3日遅れた。日中間で停戦が成立すると「トレント」は1932年5月14日に上海を離れイタリアへの帰途に着いたが、「エスペロ」はその後も1年間極東にとどまった。[3]

1934年、「エスペロ」は「オストロ」、「ゼフィーロ」、「ボレア」とともに2nd Naval Divisionの4th Destroyer Squadronを編成した[4]

イタリアの第二次世界大戦参戦時には2nd Destroyer Squadronに所属。

沈没

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1940年6月27日、「エスペロ」とオストロゼフィーロタラントから出撃し、北アフリカへ対空砲10門、弾薬120トン、人員162名を輸送する任務についた[5]。6月28日、ザキントス島の西でサンダーランド飛行艇に発見され、船団の援護のために出撃していたイギリス第7巡洋艦戦隊(軽巡洋艦「オライオン」、「ネプチューン」、「シドニー」、「リヴァプール」、「グラスゴー」)がイタリア駆逐艦の攻撃に向かった[6]。同日、マタパン岬西南西沖でイタリア駆逐艦はイギリス第7巡洋艦戦隊に捕捉された[7]。イタリア駆逐艦は逃走するも、その艦齢や積荷を積んでいることなどから次第に追いつかれ[8]、また「エスペロ」は不具合のためボイラー1基が使えず高速が出せなかった[7]。部隊を率いる「エスペロ」座上のエンリコ・バローニ大佐は「エスペロ」が反撃を行う間に他に2艦は逃走するよう命じ、「エスペロ」は交戦後沈没した[9]。「シドニー」によって225名中47名が救助されたが[10]アレクサンドリアへ向かう途中で3名が死亡した[11]。また、6名がボートで漂流した後に潜水艦「トパツィオ」に救助された[10]。バローニは戦死した[8]。戦闘中、「エスペロ」は「リヴァプール」に4.7インチ砲1発を命中させている[7]。「オストロ」と「ゼフィーロ」は逃走に成功した[10]

脚注

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  1. ^ Pier Paolo Ramoino. “La Regia Marina Tra le due Guerre Mondiali”. p. 74. 2017年12月18日閲覧。
  2. ^ Trento and Espero trip to Shanghai in 1932”. 2018年3月22日閲覧。
  3. ^ Trento and Espero route to Shanghai in 1932”. 2018年3月22日閲覧。
  4. ^ Pier Paolo Ramoino. “La Regia Marina Tra le due Guerre Mondiali”. p. 84. 2017年12月18日閲覧。
  5. ^ Struggle for the Middle Sea, p.32
  6. ^ Struggle for the Middle Sea, pp.32-33
  7. ^ a b c Struggle for the Middle Sea, p.33
  8. ^ a b The Naval War in the Mediterranean 1940–1943, p.63
  9. ^ Struggle for the Middle Sea, pp.33-34
  10. ^ a b c Struggle for the Middle Sea, p.34
  11. ^ Royal Australian Navy, 1939–1942, p.165

参考文献

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