エンケ・テムル(モンゴル語: Engke Temür,中国語: 安克帖木児,? - 1391年)とは、チンギス・カンの第二子チャガタイの子孫で、哈密衛ハミル)の統治者。『明実録』などの漢字表記は安克帖木児、『高貴系譜』などのペルシア語表記はانکه تیمور(Anka tīmūr)

概要編集

ティムール朝で編纂された『高貴系譜』によると、エンケ・テムルは豳王チュベイの息子威武西寧王イリクチの孫で、元末明初に活躍したグナシリの弟であったという。イリクチ系威武西寧王家はチュベイの子孫の中では庶流であったが、嫡流たるノム・クリ家が洪武24年(1391年)の明軍によるハミル攻撃によって断絶したため、これ以後イリクチ家のグナシリがハミルを統治するようになった。ハミルを治めるグナシリ「哈梅里(ハミル)王」として何度か洪武帝に使者を派遣している[1]

靖難の変を経て即位した永楽帝は洪武35年(=建文4年、1402年)に周辺諸国に使者を派遣して即位を通知し、ハミルにはイブラヒム(亦卜剌金)を派遣していた。この頃、ハミルではグナシリから弟のエンケ・テムルに代替わりしており、エンケ・テムルは永楽帝の使者派遣に応えて永楽元年(1403年)マフムード・シャー(馬哈木沙)・クンドゥス(渾都思)らを派遣して馬を献上した[2][3]。これに対して永楽帝は金織・文綺等の物を賜り、礼部からは銀百両がエンケ・テムルへの返礼として供出された[4]

翌永楽2年(1404年)、エンケ・テムルは再び明朝に使者を派遣した。エンケ・テムルはこの時「兄グナシリは大元ウルスハーンから威武王、後には粛王に封ぜられており、今私は兄の地位を地位と『粛王』の称号を受け継いだ。今回明朝に服属したので、私に『粛王』に見合う王爵を授け改めて封じて欲しい」と永楽帝に伝えてきた。礼部尚書李至剛らはグナシリの要求に応えるのが良いのではないかと上奏したが、永楽帝はエンケ・テムルが元朝の封じた王位を使い続けることを許さず、新たに「忠順王」という称号を授けることとした[5]。これ以後、哈密衛の君主は代々「忠順王」を称することとなる。この年の年末、エンケ・テムルはこの対応に感謝の意を示す使者を派遣した[6]

エンケ・テムルが永楽帝に服属した頃、北方モンゴリアでは太師マルハザ、太保アルクタイらがオゴデイ家のオルク・テムル(鬼力赤)を擁立し、モンゴルを復興させた。オルク・テムル・ハーンはウリヤンハイ三衛テムゲ・オッチギンの末裔)やハミ衛(チャガタイの末裔)がモンゴル帝国の皇族の末裔でありながら明朝に服属することを不快に思い、彼等を服属させんと動向を窺っていた[7]

永楽3年(1405年)、エンケ・テムルはハミルへの進出を窺うオルク・テムル・ハーンによって毒殺されてしまった。これを受けて、ハミルの隣国モグーリスタン・ハン国シャムイ・ジャハーンは報復としてオルク・テムルを攻めている。永楽帝はエンケ・テムルの死を聞くと、それまで自らのケシクで養育していたトクト(エンケ・テムルの兄グナシリの息子)をハミルに送り込み、忠順王として即位させた。しかしトクトの後はエンケ・テムルの息子メンリ・テムルが哈密衛君主となっており、これ以後哈密衛はグナシリ系の王家とエンケ・テムル系の王家が並立するようになった[8][9]

イリクチ系威武西寧王家編集

  1. 威武西寧王イリクチ(Iliqči,威武西寧王亦里黒赤/Yīliqjīییلقجی)
  2. 威武西寧王ブヤン・クリ(Buyan Quli,Buyān qulīبیان قلی)
  3. 威武西寧王グナシリ(Γunaširi,威武西寧王兀納失里/Kūnāshīrīکوناشیری)
  4. 粛王エンケ・テムル(Engke Temür,粛王安克帖木児/Anka tīmūrانکه تیمور)

哈密衛君主編集

  1. 哈梅里王グナシリ(Unaširi,兀納失里/Kūnāshīrīکوناشیری):在位1380年-1393年
  2. 忠順王エンケ・テムル(Engke Temür,安克帖木児/Anka tīmūrانکه تیمور):在位1393年-1405年
  3. 忠順王トクト(Toqto,脱脱):1405年3月-1411年3月
  4. 忠順王/忠義王メンリ・テムル(Mengli Temür,免力帖木児/Anka tīmūrانکه تیمور):在位1411年3月—1425年12月
  5. 忠順王ブダシリ(Budaširi,卜答失里):1425年12月—1439年12月
  6. 忠義王トゴン・テムルToγon Temür,脱歓帖木児):1427年9月—1437年11月
  7. 忠義王トクトア・テムル(Toqto Temür,脱脱塔木児):1437年11月—1439年
  8. 忠順王ハリール・スルタン(Khalīl sulṭān,哈力鎖魯檀):1439年12月—1457年8月
  9. 忠順王ブレゲ(Bürege,卜列革):1457年9月—1460年3月
  10. 忠順王バグ・テムルBaγ Temür,把塔木児):1466年—1472年11月
  11. 忠順王ハンシン(Qanšin,罕慎):1472年11月—1488年
  12. 忠順王エンケ・ボラト(Engke Bolad,奄克孛剌):1488年—1497年12月
  13. 忠順王シャンバ(Šamba,陝巴):1492年2月—1493年4月、1497年12月—1505年10月
  14. 忠順王バヤジット(Beyazıt,拝牙即):1505年10月—1513年8月

脚注編集

  1. ^ 『明史』巻329哈密衛伝は「洪武中、太祖既定畏兀児地、置安定等衛、漸逼哈密。安克帖木児懼、将納款(洪武年間、洪武帝はウイグルの地を平定して安定等の衛所を設置し、ハミルに迫っていた。エンケ・テムルはこれを懼れて明朝に降附せんとしていた)」と記すが、これは「哈梅里khamil」と「哈密khami」を別物であると誤解した『明史』の編集者による創作で、史実とは異なる(永元1963,3-4頁)
  2. ^ 『明太宗実録』永楽元年十月甲子「勅甘粛総兵官左都督宋晟曰、知哈密安克帖木児遣人貢馬、爾已差人送京。其頭目所貢者、可選善馬送来、餘皆以給軍士……」
  3. ^ 『明太宗実録』永楽元年十一月甲午「哈密安克帖木児遣使臣馬哈木沙・渾都思等来朝、貢馬百九十匹。先是、上遣使臣亦卜剌金等、齎詔往哈密撫諭、且許其以馬入中国市易。至是、来朝貢馬。其市易馬四千七百四十餘匹……」
  4. ^ 『明太宗実録』永楽元年閏十一月壬戌「賜哈密安克帖木児使臣馬哈木沙・渾都思等、金織文綺衣各一襲鈔各百錠及紵絲表裏等物。仍命礼部賜安克帖木児銀百両紵絲十表裏」
  5. ^ 『明太宗実録』永楽二年六月甲午「封哈密安克帖木児為忠順王。時安克帖木児遣使来朝、表請賜爵。上命礼部尚書李至剛、会太子太傅成国公朱能等議。至剛等議奏。『安克帖木児兄忽納失里。元封威武王、改封粛王。忽納失里卒、安克帖木児継為粛王。今既内属、宜仍王爵而改封之』。上曰、『前代王爵不足再論、今但取其能帰心朝廷、而封之。使守其地、綏撫其民可也』。遂封為忠順王。遣指揮使霍阿魯禿等齎勅封之、並賜之綵幣」
  6. ^ 『明太宗実録』永楽二年 十一月己亥朔「哈密忠順王安克帖木児遣兀魯思等貢馬謝恩命賜鈔及襲衣綺帛」
  7. ^ 『明太宗実録』永楽三年正月乙巳「韃靼掃胡児与其弟荅剌赤八速台・迭児必失等来帰。掃胡児阿魯台部属也。言、鬼力赤鬥、兀良哈・哈密内属朝廷、遂相猜防、数遣人、南来窺伺。上曰、狡虜情状固亦如、是謹吾辺備虜何能為……」
  8. ^ 『明太宗実録』永楽三年三月己亥「哈密頭目遣使奏忠順王安克帖木児卒。命礼部遣官賜祭詔以脱脱襲封忠順王、送還哈密……」
  9. ^ 『明太宗実録』永楽三年四月庚辰「遣使以綵幣賜別失八里王沙迷査干。時哈密忠順王安克帖木児為鬼力赤毒死、沙迷査干率兵討鬼力赤之罪。上聞而嘉之、故賜之仍賜勅令与嗣忠順王脱脱惇睦」

参考文献編集

  • 赤坂恒明「バイダル裔系譜情報とカラホト漢文文書」『西南アジア研究』66号、2007年
  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年
  • 永元壽典「明初の哈密王家について : 成祖のコムル経営」 『東洋史研究』第22巻、1963年
  • 松村潤「明代哈密王家の起原」『東洋学報』39巻4号、1957年
  • 和田清『東亜史研究(蒙古篇)』東洋文庫、1959年