オルク・テムル (高昌王)
オルク・テムル(Ürük temür、? - 至正13年6月14日(1353年7月14日))は、14世紀中に活躍した大元ウルスのウイグル人。かつて天山ウイグル王国を支配したイディクート(亦都護)の末裔にあたる。
概要
編集14世紀半ば、天山ウイグル王家(高昌王家)の嫡流たるテムル・ブカとタイピヌ・テギンの兄弟は、時の権臣バヤンの謀略によって失脚・処刑されてしまった[1][2][3]。
その後、イディクート(亦都護)/高昌王として登場するのがオルク・テムル(月魯帖木児)という人物だが、オルク・テムルの出自については全く記録がない[3]。ただし、その活躍年代から銭大昕の『元史氏族表』や屠寄の『蒙兀児史記』などはテムル・ブカ〜タイピヌ・テギン兄弟と同世代ではないかとする[4]。
同じ頃、河南地方では韓山童が蜂起し、紅巾の乱が急速に広まりつつあった。そこで、至正12年(1352年)にオルク・テムルはウイグル兵(畏吾児軍馬)を率いて河南方面に出兵し、アラトナシリやラオジャンとともに襄陽・南陽・鄧州の賊を討伐した[5]。
その後もオルク・テムルは河南地方に駐屯していたが、翌至正13年(1353年)6月に南陽の軍中で亡くなり、息子のサンガ(桑哥)がイディクート(亦都護)/高昌王位を継承した[6]。
子孫
編集先述したように、オルク・テムルにはサンガ(桑哥)という息子があり、地位を継承したとされる。サンガ以外の血族については、全く記録がない[3]。
天山ウイグル王家
編集- ヨスン・テムル(Üsen temür >月仙帖木児/yuèxiān tièmùér)
- バルチュク・アルト・テギン(Barǰuq art tigin >巴而朮阿而忒的斤/bāérzhú āértè dejīn,بارجق/bārjūq)
- キシュマイン(Kišmain >کیشماین/kīshmāīn)
- サランディ・テギン(Salandi tigin >سالندی/sālandī)
- オグルンチ・テギン(Ögrünč tigin >玉古倫赤的斤/yùgǔlúnchì dejīn,اوکنج/ūknchī)
- マムラク・テギン(Mamuraq tigin >馬木剌的斤/mǎmùlà dejīn)
- コチカル・テギン(Qočqar tigin >火赤哈児的斤/huǒchìhāér dejīn)
- ネウリン・テギン(Neülin tigin >紐林的斤/niǔlín dejīn)
- キプチャクタイ(Qipčaqtai >欽察台/qīnchátái)
- イル・イグミシュ・ベキ(Il yïγmïš begi >也立亦黒迷失別吉/yělì yìhēimíshī biéjí)
- ソソク・テギン(Sösök tigin >雪雪的斤/xuěxuě dejīn)
- ドルジ・テギン(Dorǰi tigin >朶児的斤/duǒér dejīn)
- バヤン・ブカ・テギン(Bayan buqa tigin >伯顔不花的斤/bǎiyán bùhuā dejīn)
- ドルジ・テギン(Dorǰi tigin >朶児的斤/duǒér dejīn)
- コチカル・テギン(Qočqar tigin >火赤哈児的斤/huǒchìhāér dejīn)
- マムラク・テギン(Mamuraq tigin >馬木剌的斤/mǎmùlà dejīn)
- バルチュク・アルト・テギン(Barǰuq art tigin >巴而朮阿而忒的斤/bāérzhú āértè dejīn,بارجق/bārjūq)
脚注
編集参考文献
編集- 安部健夫『西ウイグル国史の研究』中村印刷出版部、1955年
- 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年
- 劉迎勝・Kahar Barat「亦都護高昌王世勲碑回鶻文碑文之校勘与研究」『元史及北方民族史研究集刊』8、1984年
- 『元史』巻122列伝9
- 『新元史』巻109列伝13
- 『蒙兀児史記』巻36列伝18
- 『庚申外史』巻上
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