オロス (カンクリ部)

モンゴル帝国に仕えたカンクリ人将軍の一人

オロス(モンゴル語: Oros、? - 1313年)とは、モンゴル帝国に仕えたカンクリ人将軍の一人。『元史』などの漢文史料では斡羅思(wòluósī)と記される。

概要編集

オロスの曾祖父はカシバヤウト(哈失伯要,QašBayaγut?)という名前で、モンゴル帝国の最初期に帰附し、チンギス・カンの末子トゥルイの正室ソルコクタニ・ベキのアクタチ(宮牧官)を務めた人物であった。祖父のカイドゥはソルコクタニとトゥルイの長男モンケの南宋親征に従軍して陣没し、父のメンリ・テムルはモンケの弟クビライに使えてビチクチとなるなど、オロスの一族は代々トゥルイ王家に仕えてきた家系であった[1]

オロスは父同様、1282年(至元19年) にビチクチとなり、その2年後には監察御史となった。その後雲南王府に仕えるようになると、1289年(至元26年)に新設された八番羅甸宣慰司の長官に抜擢され、現地の反乱分子平定に功績を挙げた。2年後にはガインドゥ(建都)などの地を平定し、更にその翌年には八番順元等処宣慰使・都元帥に昇進した[2]

その後も羅羅思宣慰使を歴任しながら雲南地方に留まっていたが、1307年(大徳11年)にクルク・カーン(武宗カイシャン)が即位すると中央に召還され、資善大夫・中書左丞に抜擢された。オロスには展々資産邸宅の下賜を受けるよう打診があったが常に固辞し、再び四川行省平章政事として四川に赴任した。翌1308年(至大2年)には再び中央に召還されたものの、病気のため既に起き上がることができず、1313年(皇慶2年)に56歳にして亡くなった[3]

オロスの死後は息子のボロト・ブカ(博羅普化)、孫のチャガン・ブカらが地位を継承していった[4]

脚注編集

  1. ^ 『元史』巻134列伝21斡羅思伝,「斡羅思、康里氏。曾祖哈失伯要、国初款附、為荘聖太后宮牧官。祖海都、従憲宗征釣魚山、歿于陣。父明里帖木児、世祖時為必闍赤、後為太府少監」
  2. ^ 『元史』巻134列伝21斡羅思伝,「斡羅思、至元十九年為内府必闍赤。二十一年、拜監察御史。遷雲南行省理問、領雲南王府事。後以忤桑哥被譖、籍其家、唯金玉帯各一・黄金五十両、皆上所賜者。乃以公用係官孳畜、加之罪、帝曰『口腹之事、其寝之』。二十六年、置八番羅甸宣慰司、進嘉議大夫・宣慰使。時諸蛮叛服不常、斡羅思平之、乃立安撫等司以守焉。二十八年、平楊都要等。九月、進中奉大夫、錫虎符。明年、為八番順元等処宣慰使・都元帥、賜三珠虎符」
  3. ^ 『元史』巻134列伝21斡羅思伝,「大徳六年、授通奉大夫・羅羅思宣慰使、兼管軍万戸。進正奉大夫。武宗立、召還、授資善大夫・中書左丞、領武衛親軍都指揮使、大都屯田府事。尋進栄禄大夫・中書右丞、兼翰林国史承旨、仍領武衛屯田。屡奉旨賜貲産第宅、固辞。遷四川行省平章政事。至大二年、召還、以瘴癘臥病不起。皇慶二年卒、年五十有六。贈光禄大夫・益国公」
  4. ^ 『元史』巻134列伝21斡羅思伝,「子博羅普化、初直宿衛、為速古児赤。至大元年、為翰林侍講学士、以父疾帰侍。延祐四年、復入侍為速古児赤札撒孫。至治元年、為速古児赤五十人之長、兼領皇后宮宝児赤。二年、襲授河南府同知。子察罕不花、領其所掌宿衛。天暦元年、見文宗于汴、入直宿衛、為温都赤。拜監察御史、継遷御史台経歴・中書右司郎中。授中憲大夫・隆禧総管府副達魯花赤」

参考文献編集

  • 元史』巻134列伝21斡羅思伝