カラ・イカチ・ブイルク

カラ・イカチ・ブイルクモンゴル語: Qara yiqači buyiruq、? - 1251年)は、モンゴル帝国に仕えたウイグル人の一人。『元史』における漢字表記は哈剌亦哈赤北魯(hālàyìhāchìbĕilŭ)。

概要編集

13世紀初頭、カラ・イカチ・ブイルクは天山ウイグル王国に仕えていたが、東方でモンゴル帝国が勃興すると天山ウイグル王国は国を挙げてこれに帰順し、カラ・イカチ・ブイルクもチンギス・カンに仕えるようになった。カラ・イカチ・ブイルクはチンギス・カンの中央アジア遠征に従軍し、その子孫も代々モンゴル帝国に仕えるようになった[1]

子孫編集

カラ・イカチ・ブイルクの息子が月朶失野訥で、その息子が乞赤宋忽児であった。乞赤宋忽児には塔塔児、忽棧、火児思蛮、月児思蛮という4人の息子がおり、それぞれ第5代皇帝クビライに仕えた[2]

脚注編集

  1. ^ 『元史』巻124列伝11哈剌亦哈赤北魯伝,「哈剌亦哈赤北魯、畏兀人也。性聡敏、習事。国王月仙帖木児亦都護聞其名、自唆里迷国徴為断事官。月仙帖木児卒、子巴而朮阿而忒亦都護年幼、西遼主鞠児可汗遣使拠其国、且召哈剌亦哈赤北魯、至則以為諸子師。巴而朮阿而忒聞太祖明聖、乃殺西遼使、更遣阿隣帖木児都督等四人使西遼。阿隣帖木児都督者、哈剌亦哈赤北魯婿也。具語以其故、於是与其子月朶失野訥馳帰太祖、一見大悦、即令諸皇子受学焉。仍令月朶失野訥以質子入宿衛。従帝西征。至別失八里東独山、是城空無人、帝問『此何城也』。対曰『独山城。往歳大饑、民皆流移之它所。然此地当北来要衝、宜耕種以為備。臣昔在唆里迷国時、有戸六十、願移居此』。帝曰『善』。遣月朶失野訥佩金符往取之、父子皆留居焉。後六年、太祖西征還、見田野墾辟、民物繁庶、大悦。問哈剌亦哈赤北魯、則已死矣。乃賜月朶失野訥都督印章、兼独山城達魯花赤。月朶失野訥卒、子乞赤宋忽児、在太宗時襲爵、賜号答剌罕」
  2. ^ 『元史』巻124列伝11哈剌亦哈赤北魯伝,「子四人曰塔塔児、曰忽棧、曰火児思蛮、曰月児思蛮。世祖命火児思蛮従雪雪的斤鎮雲南。月児思蛮事憲宗、襲父爵、兼領僧人。後因軍帥札忽児台拠別失八里、尽室徙居平涼。与其子阿的迷失帖木児入覲、世祖詔入宿衛為必闍赤、命従安西王忙哥剌出鎮六盤。安西王薨、其子阿難答嗣。成宗即位、遣使入朝、因奏『阿的迷失帖木児父子、本先帝旧臣、来事先王、服勤二十餘年矣。若終老王府、非所以尽其才也、願以帰陛下用之』。成宗可其奏、授阿的迷失帖木児汝州達魯花赤、積官秘書太監。卒。子阿隣帖木児。阿隣帖木児、善国書、多聞識、歴事累朝、由翰林待制累遷栄禄大夫・翰林学士承旨。英宗時、以旧学日侍左右、陳説祖宗以来及古先哲王嘉言善行。翻訳諸経、紀録故実、総治諸王・駙馬・番国朝会之事。天暦初、北迎明宗入正大統、一見歓甚、顧左右曰『此朕師也』。天暦三年、進光禄大夫・知経筵事。子曰沙剌班、曰禿忽魯、曰六十、曰咱納禄。沙剌班、累拜中書平章政事・大司徒・宣政院使」

参考文献編集

  • 元史』巻124列伝11哈剌亦哈赤北魯伝