カール・ルートヴィヒ・ハプスブルク=ロートリンゲン

カール・ルートヴィヒ・ハプスブルク=ロートリンゲンドイツ語: Carl Ludwig Habsburg-Lothringen, 1918年3月10日 - 2007年12月11日)は、ベルギーカナダの実業家。オーストリア=ハンガリー帝国の旧統治者家門ハプスブルク=ロートリンゲン家の一員。最後のオーストリア皇帝福者カール1世の四男。

カール・ルートヴィヒ
Carl Ludwig
ハプスブルク=ロートリンゲン家
続柄 カール1世第4皇子

全名
身位 大公→帝政廃止
敬称 殿下→帝政廃止
出生 (1918-03-10) 1918年3月10日
オーストリア=ハンガリー帝国の旗 オーストリア=ハンガリー帝国バーデン・バイ・ウィーン
死去 (2007-12-11) 2007年12月11日(89歳没)
ベルギーの旗 ベルギーブリュッセル
埋葬 2008年1月12日
 オーストリアウィーンカプツィーナー納骨堂
配偶者 ヨランド・ド・リーニュ
子女
父親 カール1世
母親 ツィタ・フォン・ブルボン=パルマ
宗教 キリスト教カトリック教会
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生涯

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皇帝カール1世とその妻でパルマ公ロベルト1世の娘であるツィタ皇后の間の第5子、四男として帝政崩壊の半年前に生まれ、誕生時には101発の祝砲が鳴らされた。

両親の亡命先のマデイラ島で幼少期を過ごし、1930年代には長兄で家長のオットーの援助でベルギールーヴェン・カトリック大学で学んでいる。1940年にナチス・ドイツ軍の侵攻に伴い、家族とともに北米へ避難し、母や未成年の弟妹たちと一緒にカナダのケベックに落ち着いた[注釈 1][1]。この間、彼はラヴァル大学で学びました[2]

1943年にアメリカ軍に入隊し、フランクリン・ルーズヴェルト大統領の命令で、中立国ポルトガルにおいてハンガリーと秘密裏に和平交渉を行ったが、失敗に終わった。1944年にはノルマンディー上陸作戦にも参加し、1947年には陸軍少佐に昇進した。その後、ベルギー企業のアメリカ支社に入社し、ニューヨークワシントンで働いた[3]

1950年1月17日にベルギーのエノー州ブロイユ英語版で、リーニュ公ウジェーヌ2世英語版の娘ヨランド英語版(1923年 - )と結婚し、間に4人の子供をもうけた。1958年に妻子とともにヨーロッパに戻り、ブリュッセルソシエテ・ジェネラル・ド・ベルジック英語版社に勤務した。のちに同社のカナダにおける子会社ジェンスター(Genstar)社を創設し、1986年に退職するまでジェンスター社の取締役を務めた。カール・ルートヴィヒはジェンスターに様々な部門を創設して会社規模を大きくし、退職するまでに同社の社員を2000人以上に増やした[3][4]

カール・ルートヴィヒはすぐ上の兄フェリックスとともに、1919年に制定されたハプスブルク法によってオーストリア共和国政府に没収されたハプスブルク家の資産の一部を返還するよう求めていた。この資産の一部とは、1935年から1936年にかけ、ハプスブルク家と共和国政府が一時的に和解した際にハプスブルク家側に弁済されたものであるが、1938年のアンシュルスに際してナチ党政府に没収され、それ以来ハプスブルク側に返還されていない[3]

長兄オットーと違い、カール・ルートヴィヒはオーストリア市民権の取得と引き換えに共和国政府の求める帝位請求権放棄とハプスブルク家の成員たる身分の放棄の宣言をしようとはしなかったため、オーストリア政府に入国を禁じられていた[5]。しかし1996年3月26日に、オーストリア政府の譲歩により、帝位請求権放棄に言及しない形で共和国政府に忠誠を誓うことを兄フェリックスと一緒に宣言し[6]、同年4月16日にオーストリア議会も彼ら兄弟に対するパスポートと入国許可証の付与を承認した[7]

2007年12月11日に死去し、翌2008年1月12日に皇帝一族の眠るウィーンカプツィーナー納骨堂の、母ツィタ皇后の棺の傍に埋葬された。

子女

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脚注

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注釈

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  1. ^ 北米に移住した際、「カール」の綴りを「Karl」から「Carl」に変えている。

出典

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  1. ^ NEWS-Serie Teil 3: Österreichs Stunde Null. Am 12.11.1918 startete der neue Kleinstaat. In: News, 28. März 2008 (unter Berufung auf mehrere angeführte Quellen, unter ihnen auch Wikipedia). Abgerufen am 19. September 2010.
  2. ^ Bernier Arcand, Philippe (2022). “Les Bourbon-Parme dans les institutions d’enseignement du Québec” (フランス語). Histoire Québec 28 (1): 24–28. ISSN 1201-4710. https://www.erudit.org/en/journals/hq/1900-v1-n1-hq07421/100332ac/abstract/. 
  3. ^ a b c Carl Ludwig Habsburg-Lothringen ist tot. In: Kurier/APA, 15. Dezember 2007. Abgerufen am 19. September 2010.
  4. ^ Portrait: Carl Ludwig Habsburg-Lothringen. In: Wiener Zeitung, Printausgabe, 15. Dezember 2007. Abgerufen am 19. September 2010.
  5. ^ Eine (fast) normale Familie: Die Habsburger. In: 3sat-Dokumentation, August 2010. Abgerufen am 19. September 2010.
  6. ^ Gedye, Robin (1996年4月15日). “Austria to end law barring Habsburgs from family home”. London: Daily Telegraph. オリジナルの2003年9月27日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20030927174103/http://www.telegraph.co.uk/htmlContent.jhtml?html=/archive/1996/04/15/waust15.html 2008年2月15日閲覧。 
  7. ^ Hauptausschuss: Verzichtserklärungen des Hauses Habsburgs ausreichend. Nationalratspräsident Fischer begrüsst einstimmige Entscheidung. In: Parlamentskorrespondenz vom 16. April 1996, Nr. 196, auf der Website des Österreichischen Parlaments. Abgerufen am 19. September 2010.

外部リンク

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