クィントゥス・トゥッリウス・キケロ
クィントゥス・トゥッリウス・キケロ(ラテン語: Quintus Tullius Cicero, 紀元前102年 - 紀元前43年)は、共和政ローマ後期の軍人・政治家。マルクス・トゥッリウス・キケロの弟で、ガリア戦争ではガイウス・ユリウス・カエサルの属将の1人を務めた。
![]() クィントゥス・トゥッリウス・キケロ Q. Tullius M. f. M. n. Cicero | |
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出生 | 紀元前102年 |
死没 | 紀元前43年 |
出身階級 | プレブス |
氏族 | トゥッリウス氏族 |
官職 |
クァエストル(紀元前68年頃) アエディリス・プレビス(紀元前65年) プラエトル・ウルバヌス(紀元前62年) プロコンスル(アシア)(紀元前61年-58年) レガトゥス(ポンペイウス)(紀元前57年-56年) レガトゥス(カエサル)(紀元前54年-52年) レガトゥス(兄キケロ)(紀元前51年-50年) |
担当属州 | アシア |
配偶者 | ポンポニア |
生涯編集
兄マルクスと共に紀元前79年から紀元前77年までローマ、アテナイ、そしておそらくロドス島で学問を習得した。紀元前70年には兄の親友ティトゥス・ポンポニウス・アッティクスの妹ポンポニアと結婚したものの、夫婦仲は悪く、兄やアッティクスは仲裁に何度も入ったが、紀元前45年に離婚した。
恐らく紀元前68年頃にクァエストルを[1]、紀元前65年にはカエサルと同時期にアエディリス・プレビス(平民按察官)を[2]、紀元前62年にもカエサルと同時期に恐らくプラエトル・ウルバヌス(首都法務官)を務めた[3]。
紀元前61年からプロコンスルとしてアシア属州を担当した[4]。紀元前58年の5月に帰国した[5]。翌紀元前57年からはグナエウス・ポンペイウスの下でレガトゥス(副官)を務めた[6]。
紀元前58年、兄は第一回三頭政治側の護民官とも言われるプブリウス・クロディウス・プルケルと激しく対立し、ローマを追放された。追放の前に当時ガリア属州総督であったガイウス・ユリウス・カエサルは兄にガリア戦争の幕僚に加わるように要請したが、断わった兄は紀元前57年にローマへ帰還した。ガリアへはクィントゥスがレガトゥスとして紀元前54年より赴任した。
紀元前54年、エブロネス族のアンビオリクスによって、アドゥアトゥカの戦いでクィントゥス・ティトゥリウス・サビヌスらが率いるローマ軍団(第14軍団)が壊滅する事態に陥った。アンビオリクスの勝利に呼応したネルウィ族によって、ネルウィ族の地に1個軍団を率いて冬営を張っていたクィントゥスの陣は激しい攻撃を受けたものの、カエサル自ら率いた救援軍の到着まで凌ぎきった。紀元前51年からは兄と共にキリキアへ赴任した。
紀元前49年からのローマ内戦では兄に従って元老院派に組したものの、やがて離脱して中立を保った。紀元前44年3月にカエサルが暗殺された後、兄はオクタウィアヌスと手を結んでマルクス・アントニウスを追い落とそうとしたものの、オクタウィアヌスはアントニウス及びマルクス・アエミリウス・レピドゥスと第二回三頭政治を組んだため、逆に兄はアントニウスよりプロスクリプティオ(法の保護の対象外に置くリスト)に掲載され、クィントゥスも同じくリストに入った。クィントゥスは兄と共に、マケドニアに勢力を持っていたマルクス・ユニウス・ブルトゥスの許で逃れようとしたが、紀元前43年にアントニウス派の追っ手により殺害された。