コロンボ・レースコース

コロンボ・レースコース英語: Colombo Racecourse)は、スリランカの都市コロンボシナモン・ガーデンズ地区にかつて存在した競馬場第二次世界大戦中は臨時の飛行場として使用されていた[1]。2012年にコロンボ・レースコース・スポーツ・コンプレックスとしてリニューアルされ、スリランカ初の国際ラグビー競技施設兼複合商業施設となった。

コロンボ・レースコース
施設情報
所在地 コロンボシナモン・ガーデンズ
位置 北緯6度55分37.4844秒 東経79度51分40.4748秒 / 北緯6.927079000度 東経79.861243000度 / 6.927079000; 79.861243000
建設期間 1893年
修繕 2011年
グラウンド グラスマスター
使用チーム、大会
収容人員
40000

2014年には大規模改修が行われ、ナイター照明の導入やショッピング施設つきの観客席が設置された。

沿革 編集

競馬場時代 編集

1893年ゴール・フェイス・グリーンから現在の場所に移転し、6月22日に正式に開業した[2]1922年には賭率表示機が導入された。コロンボ・ターフ・クラブが拠点としており、観客席(グランド・スタンド)とクラブハウスをグラウンド横に設置していた。

飛行場としての利用 編集

 
コロンボ・レースコースから離陸する英国空軍の爆撃機(太平洋戦争中)

1941年、太平洋戦争が勃発した。イギリス海軍は42年のシンガポールの戦いに敗れたのち、スリランカのコロンボとトリンコマリーに拠点を置いた。セイロン司令官に任命されたジョフリー・レイトン提督は、空軍少将ジョン・ダルビアックと共にセイロンでコロンボ・レースコースに飛行場を建設することを命じた。当時の農業土地大臣(後の初代セイロン首相D・S・セーナーナーヤカが建設の責任者となり、この土地に滑走路1本と作戦司令部、兵舎を建設し、隣接するロイヤル・カレッジ・コロンボの敷地内に軍病院を新設した

レースコース飛行場には2飛行中隊が駐留した。ホーカー ハリケーンで構成された第258飛行中隊とブリストル ブレニムで構成された第11飛行中隊である[2]1942年4月5日コロンボ空襲ではラトゥマラナ空港が攻撃されたが、レースコース飛行場の存在はまだ知られていなかったために破壊を免れた。これにより、その後の第11飛行中隊ハリケーン部隊による反撃が可能となった。

さらに英国海軍は艦隊航空隊を組織し、第882艦隊航空隊が駐留した。

衰退期 編集

太平洋戦争終結により飛行場は変換され、レースコースでは再び競馬が行われるようになった。しかし、1956年の賭博禁止法によりコロンボでは競馬ができなくなり、レースコースは大きな影響を受けた。コロンボ・レースコースはその広大な土地を政府に分割され、グランド・スタンドはコロンボ大学の校舎として一時的に使用され、北側の土地には公文書局が設置された。

そして観客席とコロンボ・ターフ・クラブ・ビルは長い間忘れ去れられるようになった。スリランカ陸軍はこの地を臨時の駐屯地と使用し、空軍もまたヘリパッドとして利用した。

リニューアル工事 編集

 
コロンボ・レースコース

ゴタバヤ・ラジャパクサが防衛大臣兼都市開発大臣だった時、彼はこの植民地時代の建造物のリニューアルを発案した[2]

2011年、都市開発局が観客席とコロンボ・ターフ・クラブ・ビルのリニューアル工事を開始した。また、グラウンド部分はラグビー場として利用されることとなった。

脚注 編集

  1. ^ Modernized Colombo Racecourse open for public Archived 25 October 2012 at the Wayback Machine.
  2. ^ a b c The Colombo Racecourse: A New Beginning Without Horses”. www.serendib.btoptions.lk (2012年12月). 2020年12月8日閲覧。

外部リンク 編集