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ゴリリッツ=タルノフ攻勢とは第一次世界大戦の東部戦線におけるドイツの小規模な攻勢である。当初は南のオーストリア・ハンガリー帝国方面への圧力を緩和させるための攻勢であったが、結果的にこの攻勢でロシア軍は全戦線で潰走状態に陥り、ロシア領まで撤退することになった。一連の作戦は1915年の攻勢に向いた季節のほとんどの期間続いた。

ゴリツィエ=タルヌフ攻勢
第一次世界大戦
EasternFront1915b.jpg
ゴリツィエ=タルヌフ攻勢とロシアの撤退
1915年5月2日から7月22日
場所ゴリツィエ、タルノフ(現在のポーランド)
結果 中央同盟国の勝利
衝突した勢力
ドイツ帝国の旗 ドイツ帝国
オーストリア=ハンガリー帝国の旗 オーストリア=ハンガリー帝国
ロシア帝国の旗 ロシア帝国
指揮官
ドイツ帝国の旗アウグスト・フォン・マッケンゼン ロシア帝国の旗 ラドゥコ・ドミトリエフ
部隊
ドイツ帝国の旗ドイツ第11軍
オーストリア=ハンガリー帝国の旗 オーストリア・ハンガリー第2軍
オーストリア=ハンガリー帝国の旗オーストリア・ハンガリー第3軍
オーストリア=ハンガリー帝国の旗 オーストリア・ハンガリー第4軍
ロシア帝国の旗ロシア第3軍
被害者数

ドイツ帝国:
合計87,000[1]

オーストリア・ハンガリー帝国:
不明[2]
412,000-550,000[3][4][5]
東部戦線 (第一次世界大戦)

背景編集

第一次世界大戦勃発後の最初の数ヶ月間の東部戦線で、ドイツ第8軍はロシアの2つの軍と相対したが、奇跡的な幸運に恵まれた。8月の終わりにドイツはロシア第2軍をタンネンベルクの戦いにて包囲殲滅し、さらにロシア第一軍を第一次マズーリ湖攻勢にて壊滅させた。ロシア第一軍はロシア国境まで撤退したが、要塞で防御を固める頃にはすでに軍の大半が壊滅している状態だった[6]

9月の終わり頃には、2つのロシア軍はマズーリ湖周辺の地域で200000人が戦死するか、捕虜となった。

ロシア軍は南のオーストリア・ハンガリー帝国方面での作戦には成功していた。オーストリア・ハンガリー帝国は動員を速やかに完了させ、8月の終わりにはガリツィア方面への攻勢を開始した。しかし9月の終わりにはロシアはその攻勢を退け、オーストリア・ハンガリー帝国との国境線まで前線を押し返し、プシュムィシルの要塞の守備隊を包囲した。

ドイツは新設された第9軍を加えシュレジエン方面へ進軍した。この時の戦いがヴィスワ川の戦いである。この時の攻勢は最初のうちは成功したが、やがて予備兵力を使い果たし、結局攻勢開始時の地点まで引き返す事になった。ドイツの撤退時に、橋と鉄道網を破壊し、シュレジエン方面へのロシアの追撃を防いだ。その後11月の初めに、ドイツ9軍は北に再び部隊を展開し、ロシアの右翼に攻撃し、ウッチの戦いが生じた。ドイツ軍はロシア軍を包囲することに失敗したが、戦いが終わるとロシア軍はワルシャワ方面に整然と撤退したため、ドイツはウッチを占領し、シュレジエン方面への脅威はなくなった。

経過編集

フランツ・コンラート・フォン・ヘッツェンドルフは冬の間、カルパティア山脈方面に進出したロシア軍を攻撃した。ロシア軍は両翼からの攻撃に苦しんだが、戦線を保つ事はできた[7]。この時までにオーストリア・ハンガリー帝国は全一次世界大戦中の損害の内の半分を被っていた。ヘッツェンドルフはさらなるドイツ軍の更なる増援を希望したが、ファルケンハインに拒否された。しかし1915年の4月には戦線が突破されたため、ドイツの救援無しではドイツ軍と分断されそうになった[8]。そこでヘッツェンドルフとファルケンハインは東部戦線南部に対して、共同で攻勢を行う事を計画した。この時計画された攻勢はクラクフから130km南西のゴリツィエからタルノフの間で行われる事を想定していた。もし突破に成功すればロシア軍は包囲される事を防ぐために、撤退する事が予想された。ドイツの諜報機関は西部戦線での攻勢が起きそうな兆候はないと判断していた。またドイツの各師団は再編成され、動員に伴い徴兵された2400名が増員され、新兵は熟練の兵士の下に配属された。こうして新たに14師団が予備兵力として確保できた。

この共同作戦はファルケンハインが、ドイツとオーストリアの軍を指揮する事になった。この軍にはヨーゼフ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ率いるオーストリア・ハンガリー第4軍が含まれていた、ドイツ軍は西部戦線から列車500両を用いて[9]8個師団を抽出し、新たに第11軍を編成した。ドイツ第11軍はアウグスト・フォン・マッケンゼンに率いられており、参謀はハンス・フォン・ゼークトが担当していた。マッケンゼンは皇帝の下に仕えた経験も、軍を率いた経験もあった。ドイツ第11軍はロシア第3軍と相対した。この時のロシア第3軍の陣営は18師団半と5騎兵師団半を有しており、ドミトリエフ将軍によって率いられていた。

マッケンゼンは優秀な少将によって率いられた列車砲を有していた。この列車砲は本来フランスとベルギーの要塞を粉砕することを意図して作られたものである。ドイツ軍は飛行船、電話網を有していたため、正確な直接砲撃のための観測が可能であった。なお直接砲撃は弾薬が不足している場合に有効であるが、この時ドイツ、オーストリアハンガリー軍は合計で3万発しか攻撃用の砲弾分の備蓄しか持っていなかった[10][11]。整備されていない道での機動力を上げるために、ドイツの各師団はオーストリア・ハンガリー帝国から200両の馬車と運転手が与えられた[12]

ファルケンハインはドイツ最高軍司令部をシュレジエンへと移し、オーストリア・ハンガリー帝国の最高司令部と1時間以内にアクセスできるようになった。スパイ工作を防ぐためにこの地から住民を追い出した。北のドイツ第9軍と10軍はリガ方面への牽制攻撃を行った。[13]4月22日ドイツ軍はイーペル周辺で初の毒ガスによる攻撃を開始したが西部戦線での連合国の注意をそらすための作戦であるとすぐに察知されてしまった。マッケンゼンは10個歩兵師団と1個騎兵師団を有しており、126000の兵と、457の野砲、159の重砲、96の迫撃砲を装備していた。一方相対したロシア軍は5個師団のみで、60000の兵と141の野砲と4つの重砲のみの装備であった、マッケンゼンは42kmほど敵陣を突破し、ロシア軍と相対したが、前線のロシア軍は戦いが始まると同時に重砲が爆発してしまう有様だった。[14]

ロシア軍の最高司令官であるニコライ・ニコラエヴィチはドイツ軍がロシア軍と相対したからといって攻撃の意図を持っているとは限らない事を学んでいた。5月1日中央同盟軍の重砲が絶え間ない銃撃を開始した。続けて午前6時には砲撃を開始し、午前9時には榴弾砲も加わった。この砲撃の特に恐ろしい点は爆発があった箇所から半径10m以内の兵を殺害できる点である。ロシア軍の防御はせいぜい排水溝よりましな塹壕しかなかったため[15]、容易に突破され、有刺鉄線も砲撃の爆破によって吹き飛ばされた。マッケンゼンは局地的な反発にも関わらず、全戦線において前進を命令した。そのため、毎日どの部隊も最小限の距離しか前進しなかった。ロシア軍が押し返されているときに、敗走している軍を束ねて反撃しても、ただ損害が増えるだけであった。

ドミトリエフは突破口に迅速に2個師団を送り込んだが、彼らが最高司令部に戦況を報告する前より早く完全に無力化されていた。ロシアから見た場合、2つの師団はどちらも地図上から消滅した。5月3日にニコライ・ニコラエヴィチは新たに3個師団を増援として送り、前線部隊の限定的な撤退に関与した[16]。ドイツ軍はワイロカ川という地形的な障害が立ちはだかったが、橋を確保することで渡河できた[17]。5月5日までに塹壕で作られた防衛線の3箇所を突破し、5月9日には全ての部隊が目標の地点に到着した。ニコライ・ニコラエヴィチは限定的な撤退を認めたが、更に後方まで撤退して防衛線を構築することは拒否した。ロシア軍の反撃は堤防沿いで行われたが、実行した兵士の装備は手榴弾と棍棒のみという部隊もあった[18]。オーストリア・ハンガリー帝国の第3軍と第4軍はカルパティア方面へと圧力をかけようとしたため、ロシア軍はその兆候を察知した時点で撤退を開始した。5月12日のプレスの会議でマッケンゼンはサン川方面への前進を継続し、東への橋頭堡を確保しようとした。攻勢を続けるために軍隊のきめ細かい補給が必要であった。負傷兵の救護や、大砲や弾薬やその他のあらゆる物資を前線に届ける必要があった。また前進するに従い、後方の鉄道網の修繕は必要だった。新たな攻撃は砲撃の雨を降らした後に実行された。

マッケンゼンの軍集団がサンまで前進したとき、ドイツの鉄道網から150km以上離れていた。これ以上進軍するためには占領した地域の鉄道が復旧する必要があった。5月16日にサンに橋頭堡を形成した。サンの東には44の要塞に守られたプシェムィシルがあった。プシェムィシルは2度の包囲の末1915年3月22日にロシア軍の手により陥落した。5月30日にドイツ11軍の大砲はこのプシェムィシルの要塞に対して、砲撃を開始した。莫大な数の迫撃砲はコンクリートを容易に粉砕した。6月1日に歩兵は3つの大きな要塞を占領し、さらにロシアの反撃は失敗した。2日後オーストリア・ハンガリー帝国軍はプシェムィシルへと凱旋し、市民の熱狂的な歓迎を受け、オーストリア・ハンガリー帝国の戦意を大いに向上させた。同日オーストリア第4軍と第7軍はドニエストル川へと向かっているロシア第11軍の側面を攻撃した。

ファルケンハインは消耗したドイツ第11軍を自分の手持ちの最大の戦力にするために、各種代替の人員や物資を補給した。ロシア軍もまた防衛のための戦力を増強していた。ドイツ軍は次の目標を更に100km東にあるリヴィウに定めた。6月13日の攻撃でロシア軍は恐慌状態に陥り後退し始め、6月21日にニコライ・ニコラエヴィチはガリツィアの放棄を命じた。6月22日にマッケンゼンのオーストリア・ハンガリー帝国軍は1日平均5.8km行軍し、合計310km進み、リヴィウに入城した。ガリツィアの油田地帯はドイツ海軍にとってとても重要で、この拠点を抑えたことで各種石油製造能力と480000トンの石油を奪取した[19]

ロシア第3軍は140000人の捕虜が敵に奪われ、戦闘力を失った。例として第3コーカサス軍団は4月地点では40000の部隊だったが、8000名にまで兵力が減少した。第3コーカサス軍団はサンでのオーストリア第1軍の戦いに投入され、6000人の捕虜と9つの野砲を奪ったが、5月19日までに1師団あたりの兵力は900名まで減少した。

結果編集

 
ゴルリッツ=タルヌフ攻勢の後のロシア人捕虜

ドイツ第11軍はヴィスワ川とブク川を守りながら北のブレスト・リトフスク方面へと進軍すべきだとゼークト将軍は提案した。[20]ヒンデンブルクとルーデンドルフは第10軍とニーマンの新しく創設された軍をヴィリニュス方面へと向かわせ、カウナスを奪取すべきだという提案に同意した。ヴィリニュスとブレストの間にいるドイツ軍はポーランドからロシアへつながる全ての主要な鉄道を切断しようとした。ポーランドにいたロシア軍は突出していたが、これは包囲殲滅のされる可能性を持っており、もしこの戦力が失われた場合、停戦条約を持ちかける事まで考慮しなければならなかった。フォルケンハインはポーランドの戦線での秩序だった攻撃の代わりに大胆な計画を採用する事を決めた。

ニコライ・ニコラエヴィチはドイツ軍の攻勢の圧力に押され、ガリシアとポーランドの突出部から逃れ、戦線を一直線にしようとし、その間に武器などの物資[21]を手に入れる時間を稼ごうとした。この大きな動きは1915年の大撤退として知られている。ワルシャワは8月5日にはドイツ第12軍の手に落ちることになり、8月の終わりにはポーランド全域がオーストリア・ハンガリー帝国とドイツの手に落ちることになった[22]

この戦いの勝者であるドイツは講和会議を開こうとロシアに呼びかけたが、ニコライ2世は参加することを拒否した。彼は連合国と結んだ条約に含まれる個別の停戦条約の禁止事項を忠実に守ろうとしていた。マッケンゼンは第一次世界大戦を通して、オーストリア軍とドイツ軍を率いて、セルビアと後にルーマニアを征服することになった。ニコライ2世はニコライ・ニコラエヴィチを解任し、自らを司令官に任命した。

参考文献編集

  • Foley, R. T. (2007) [2005]. German Strategy and the Path to Verdun: Erich von Falkenhayn and the Development of Attrition, 1870–1916 (pbk. ed.). Cambridge: CUP. ISBN 978-0-521-04436-3.
  • Stone, David (2015). The Russian Army in the Great War: The Eastern Front, 1914-1917. Lawrence: University Press of Kansas. ISBN 9780700620951.
  • Graydon J. Tunstall: Blood on the Snow: The Carpathian Winter War of 1915, University Press of Kansas, Lawrence, 2010.
  • Richard L. DiNardo: Breakthrough: The Gorlice-Tarnow Campaign, Praeger, Santa Barbara, 2010.

脚注編集

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  1. ^ Richard L. DiNardo,(2010), p.99
  2. ^ A Short History of the First World War. Oneworld Publications. 2014
  3. ^ Richard L. DiNardo,Breakthrough: The Gorlice-Tarnow Campaign, 1915, (2010), p.99
  4. ^ Wolfdieter Bihl, Der Erste Weltkrieg: 1914 - 1918 ; Chronik - Daten - Fakten, 2010, p. 112
  5. ^ Peter Simkins, Geoffrey Jukes, Michael Hickey, The First World War: The War to End All Wars, 2003, p. 212
  6. ^ Buttar, Prit (2014). Collision of Empires. The war on the Eastern Front in 1914. Oxford: Osprey. pp. 110–246.
  7. ^ Herwig, Holger L. (1997). The First World War, Germany and Austria-Hungary 1914-1918. London: Arnold. p. 136.
  8. ^ Foley, Robert T. (2005). German strategy and the path to Verdun : Erich von Falkenhayn and the development of attrition, 1870-1916. Cambridge University Press. p. 129.
  9. ^ DiNardo, Robert L. (2010). The Gorlice-Tarnow campaign, 1915. Praeger. p. 7.
  10. ^ DiNardo, 2010, p. 49.
  11. ^ DiNardo, 2010, pp. 139-140
  12. ^ Bittar, Prit (2015). Germany ascendant, The Eastern Front 1915. Oxford: Osprey. p. 173.
  13. ^ Foley, 2005, p. 133.
  14. ^ Golovine, Nicholas N. (1931). The Russian army in the World War. Oxford. p. 220.
  15. ^ Stone, Norman (1998) [1971]. The Eastern Front 1914-1917. London: Penguin. pp. 92, 135. ISBN 0140267255.
  16. ^ obinson, 2014, p. 233.
  17. ^ DiNardo, 2010, p. 62.
  18. ^ DiNardo, 2010, p. 75.
  19. ^ DiNardo, 2010, p. 99.
  20. ^ DiNardo, 2010, pp. 106-107.
  21. ^ Robinson, 2014, p. 240.
  22. ^ Stone, 1998 ,pp. 165-193.

関連事項編集

外部リンク編集