シカゴ山中商会
シカゴ山中商会(シカゴやまなかしょうかい、Yamanaka & Co. Inc., Chicago)は、アメリカ合衆国シカゴに存在した大阪市の美術商山中商会の支店。アメリカではニューヨーク山中商会、ボストン山中商会に次いで3店目。
種類 | 株式会社 |
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本社所在地 |
アメリカ合衆国 イリノイ州シカゴ市ノース・ミシガン・アベニュー846番地 |
設立 | 1936年 |
業種 | 小売業 |
事業内容 | 古美術の販売 |
代表者 | 下間豊吉(1928年 - 1941年) |
発行済株式総数 | 400株(1942年)[1] |
総資産 | 84,359ドル(接収時)[2] |
主要株主 | 山中商会 |
歴史
編集山中商会最盛期の1928年、ノース・ミシガン・アベニュー846番地に開店した[3]。同地はマグニフィセント・マイルと呼ばれる高級ブティック街で、同じビルには高級百貨店サックス・フィフス・アベニューも入居していた[3]。
閉店の経緯
編集1941年夏、日米関係の悪化に伴い、店長下間豊吉が大阪本社での重役会議出席のため帰国したところ[5]、7月21日日本の仏印進駐を受けて在米日本資産凍結令が出され、日本への資産の移動、商品の仕入れ等が不可能となった[6]。下間豊吉もアメリカに戻れなくなり、永井寿三が店長に代わった[5]。
8月12日大阪本社では、ボストン、シカゴ店をニューヨーク店に一本化することが決議され、アメリカ側で対応を検討中[7]、12月7日真珠湾攻撃が勃発し、即日財務省の管理下に置かれ閉店した[8]。1942年2月立ち退きセールを行うと人が殺到し、1週間の売上が17,500ドルに達したという[9]。
6月16日敵国資産管理人局の支配に移り、同局からチャールズ・R・ギルが派遣され、後にロバート・S・ネイヤーが代わった[10]。資産の清算後、1944年3月末閉店し[11]、残りの在庫の内価値の高いものはニューヨーク店に送られ、残りはメイシーズ百貨店に渡った[11]。
1945年7月16日法人の解散届が提出されたが、固定資産税の訴訟のため受理されず、1946年以降に受領されたと思われる[12]。
戦後、シカゴでは永井寿三が個人で美術商を続けた[13]。