シディ

モンゴル帝国の将軍

シディ(モンゴル語: Šidi, 生没年不詳)とは、13世紀後半にモンゴル帝国に仕えたジャライル部国王ムカリ家出身の領侯(ノヤン)。東アジア史上初めて軍団を率いて黒竜江下流域(ヌルガン)まで出兵し、ウェジギレミといった諸族を服属させたことで知られる。シデ(Šide)とも。

元史』などの漢文史料では碩徳(shídé)と表記される。『元史』には立伝されていないが『金華黄先生文集』巻25魯国公札剌爾公神道碑にその事蹟が記され、『新元史』には魯国公札剌爾公神道碑を元にした列伝が記されている。

概要 編集

シディの先祖はモンゴル帝国建国の功臣であるムカリで、シディはその曾孫のナヤン (ジャライル部)の息子として生まれた。ナヤンは聡明なことからモンケクビライ兄弟に活躍を期待されながらも病で早世した人物で、その後を継いだシディも明敏なことで知られていた。クビライの即位後、シディはケシクテイ(宿衛)に入って同知通政院事に任じられ、決裁の公正さで知られた。ある時、クビライが側近のアントン(ムカリ国王家現党首で、シディの従伯父に当たる)に「卿の族中から卿を継ぐ者を選ぶとしたら、誰になる?」と尋ねた所、アントンは「性行の純雅さ、智辨の明正さから、言うまでもなくシディでしょう」と答え、クビライもこの返答に同意したという[1]

クビライの即位直後、女真人の居住地域の更に東、黒竜江下流域においてウェジ(現在のウリチウデヘなどの祖先に当たる)・ギレミ(現在のニヴフの祖先に当たる)が内地で掠奪を行うことが問題となっていた。そこで臣下を派遣して現地までの駅伝路(ジャムチ)を整備することになったが、クビライがその人選に悩んでいたところ、周囲の者は「元勲の子孫にして思慮深いシディを用いるべきである」と推薦した。そこでクビライがシディを呼び出し出征の意思を尋ねた所、シディは自らが年少であることを気にしないで下さるならば、行かせていただきたいと返答し、これに大いに喜んだクビライは宴会を開きその出征を見送った[2]

出征したシディは険阻な道程を乗り越え、かつて金朝が黒竜江下流域の諸民族を治めるために設置したヌルガン城の地にまで進出し、ここに東征元帥府を設置した。東征元帥府に至る道は夏は船を使って黒竜江を行き来し、冬は凍結した河上を犬橇で進む長い道程であったが、シディは山川の地形に沿って道を整備し大元ウルス本土との往来を楽にしたという。また、シディは諸トゥメン(万人隊)を集めてウェジ・ギレミの首魁を討伐し、大元ウルスに降らせた[3]。これによって黒竜江下流域は大元ウルスの支配下に入ったが、このシディの出兵は後に樺太島でギレミ(ニヴフ)とクイ(アイヌ)との抗争にモンゴルが巻き込まれる遠因となった[4]。シディのヌルガン出兵の時期は明記されていないが、『元史』には中統4年(1263年)に女直・水達達(黒竜江下流域の諸民族の総称)から徴発した3000の兵を組織したとの記録があり[5]、この前後のことではないかと考えられている[6]

その後のシディの活動については記録が少ないが、ナヤン・カダアンの乱鎮圧戦に従軍し、また中央アジア方面に使者として派遣されて功績を挙げたことなどが記録されている[7]クビライの寿命があと僅かとなった至元30-31年(1293-1294年)頃、シディの家から「受天之命、既壽永昌」と刻まれた玉璽ハスボー・タムガ)が発見され、監察御史の楊桓がこれを解読して失われた伝国璽であると結論づけ[8]、御史中丞の崔彧ココジン・カトンに献上する[9]という事件が起こった。言うまでもなくこの時発見された「かつて歴代王朝で使われてきた伝国璽」なるものはシディらの捏造に他ならないことは、既に明代から指摘されている。この頃、クビライの死去を見越して御史大夫御史台の長)のウズ・テムルを中心とする一派がクビライの孫テムルをその後継者とすべく運動を行っており、御史台の官吏たる楊桓・崔彧が関わるこの一件も、ウズ・テムルらによって仕組まれたものであると見られている。また、伝国璽発見の場としてシディ家が選ばれたのは、シディの妻がコンギラト部の出身であり、ココジン・カトンとは親縁であったためと考えられている[10]

ジャライル部スグンチャク系国王ムカリ家 編集

脚注 編集

  1. ^ 『金華黄先生文集』巻25魯国公札剌爾公神道碑,「諱碩徳。世祖皇帝踐阼之初、自遼西召入宿衛。与語大悦顧謂近臣曰、碩徳通敏如此。乃燕有子矣。命典朝儀、宗藩戚里争頌弗決者、必使決之。咸服其公正。上嘗問右丞相魯国忠憲王曰、卿族中可継卿者為誰。対曰、性行純雅、智辨明正、無踰碩徳。上深然之」
  2. ^ 『金華黄先生文集』巻25魯国公札剌爾公神道碑,「[碩徳]言、遼陽女真之東、斡拙・吉烈滅二族之人数入寇内地。宜遣親臣設駅以通之。上難其人、僉言『碩徳元勲世冑、識慮深長可使也』。上恐其憚於行、召問之。対曰、『先臣当国家肇造之初不避、鋒刃万死一生以身徇国陛下不以臣年少、愚戇俾效駆策臣請行』。上喜賜御宴、対衣以遣之」
  3. ^ 『金華黄先生文集』巻25魯国公札剌爾公神道碑,「東征元帥府、道路険阻、崖石錯立。盛夏水活乃可行舟。冬則以犬駕杷行冰上。地無禾黍、以魚代食。乃為相山川形勢除道、以通往来人以為便。斡拙・吉烈滅僻居海島、不知礼儀、而鎮守之者撫御乖方因以致寇。乃檄諸万戸列壁近地拠其要衝、使諭之曰『朝廷為汝等遠人、不霑教化自作弗靖故、遣使来切責有司而存恤』」
  4. ^ 中村2008,47-48頁
  5. ^ 『元史』巻98志46兵志1,「[中統]四年……十一月、女直・水達達及乞烈賓地合僉鎮守軍、命亦里不花僉三千人、付塔匣来領之。並達魯花赤官之子及其餘近上戸内、亦令僉軍、聴亦里不花節制」
  6. ^ 大葉1998,127-128頁
  7. ^ 『元史』巻119列伝6乃燕伝,「碩徳、通敏有幹才。世祖即位、入宿衛、典朝儀、後同知通政院事。嘗言遼東斡拙・吉烈滅二種民数為寇、宜遣近臣諭之。帝方難其人、僉曰『惟碩徳元勲世冑、可使』。帝深然之、以問碩徳。対曰『先臣従太祖皇帝定天下、不辞険艱、以立勲業。陛下不以臣年少愚戇、願請行』。帝大喜、賜御衣、錫燕以行。碩徳至、集諸万戸陳兵衝要、詰其渠魁誅之。脅従者皆降。帝大悦、賞賚有差。後従征乃顔及使西域、屡建殊勲。卒、贈推忠宣恵寧遠功臣、諡忠敏、加贈資善大夫・嶺北等処行中書省右丞・上護軍、追封魯郡公」
  8. ^ 『元史』巻164列伝51楊桓伝,「至元三十一年、拝監察御史。有得玉璽於木華黎曾孫碩徳家者、桓辨識其文、曰『受天之命、既壽永昌』、乃頓首言曰『此歴代伝国璽也、亡之久矣。今宮車晏駕、皇太孫龍飛、而璽復出、天其彰瑞応於今日乎』。即為文述璽始末、奉上于徽仁裕聖皇后」
  9. ^ 『元史』巻173列伝60崔彧伝,「三十一年、成宗即位。先是、彧得玉璽于故臣札剌氏之家、其文曰『受命于天、既壽永昌』、即以上之徽仁裕聖皇后。至是、皇后手以授于成宗」
  10. ^ 吉野2009,43頁

参考文献 編集

  • 大葉昇一「クイ(骨嵬、蝦夷)・ギレミ(吉里迷)の抗争とオホーツク文化の終焉」『学苑』第701号、1998年
  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年
  • 堤一昭「元朝江南行台の成立」『東洋史研究』第54巻4号、1996年
  • 堤一昭「大元ウルス江南統治首脳の二家系」『大阪外国語大学論集』第22号、2000年
  • 中村和之「モンゴル時代の東征元帥府と明代の奴児干都司」『中世の北東アジアとアイヌ 奴児干永寧寺碑文とアイヌの北方世界』高志書院、2008年
  • 吉野正史「元朝にとってのナヤン・カダアンの乱:二つの乱における元朝軍の編成を手がかりとして」『史觀』第161冊、2009年
  • 新元史』巻120列伝17碩徳伝

関連項目 編集