楊 桓(よう こう、1234年 - 1299年)は、大元ウルスに仕えた漢人官僚の一人。

生涯 編集

楊桓は兗州の出身で、幼い頃から『論語』などの書に精通していたという。中統4年(1263年)には済州教授に任ぜられた後、済寧路教授に召し出されて太史院校書郎に任ぜられた。この時命を受けて撰文した儀表銘・暦日が典雅に溢れた名文であったため、楮幣1500緡が下賜されることになったが、楊桓はこれを辞退したと伝えられる[1]。その後、秘書監丞を経て、監察御史の地位に移った。

モンゴル帝国を含む遊牧国家ではカアン(君主)が生前に後継者を指名するという慣習が存在せず、クリルタイ(一族会議)の選出によって次期君主を決めるという制度が定められていた。クビライの後継者としては嫡孫のカマラテムルが最有力視されており、皇太子に封ぜられていたテムルが有利であったとはいえ、どちらが次期君主となるかは不明確であった。そんな最中、至元31年(1294年)にジャライル国王家シディの家から「受天之命、既壽永昌」と刻まれた玉璽(ハスボー・タムガ)が発見され、監察御史の楊桓がこれを解読して失われた伝国璽であると結論づけ[2]、御史中丞の崔彧がココジン・カトンに献上されることになった[3]。ココジン・カトンは諸大臣の要請に従ってこれをテムルに授け、その後果たしてテムルはクリルタイで新たなカアンに選出されたという[4]。長年失われてきた伝国璽が次期皇帝選出の時期に突如として発見されたというのは不自然極まりなく、早くも明代の沈徳符が『万暦野獲編』において偽作であると論じている[5]。楊桓・崔彧の属する御史台の長官(御史大夫)ウズ・テムルはクリルタイで最も強硬にテムルを支持した張本人であり、1294年の「伝国璽の発見」はウズ・テムル一派によるテムル即位への布石であったと考えられている[6]

元貞元年(1295年)、オルジェイトゥ・カアン(成宗テムル)が即位した後には、21カ条の上疏を行ったという。それからほどなく、秘書少監に任じられて大一統志の編纂に携わったが、弟の楊楷に地位を譲って郷里の兗州に帰った。大徳3年(1299年)、国子司業に任命されて中央に召喚されたが、朝廷に赴く前に66歳にして亡くなった[7]

楊桓の人となりは寬厚で、親に孝を尽くし、博覧強記であったと伝えられる[8]

脚注 編集

  1. ^ 『元史』巻164列伝51楊桓伝,「楊桓字武子、兗州人。幼警悟、読論語至宰予晝寢章、慨然有立志、由是終身非疾病未嘗晝寢。弱冠、為郡諸生、一時名公咸称譽之。中統四年、補濟州教授、後由濟寧路教授召為太史院校書郎、奉敕撰儀表銘・暦日序、文辞典雅、賜楮幣千五百緡、辞不受。遷秘書監丞」
  2. ^ 『元史』巻164列伝51楊桓伝,「至元三十一年、拝監察御史。有得玉璽於木華黎曾孫碩徳家者、桓辨識其文、曰『受天之命・既壽永昌』、乃頓首言曰『此歴代伝国璽也、亡之久矣。今宮車晏駕、皇太孫龍飛、而璽復出、天其彰瑞応於今日乎』。即為文述璽始末、奉上于徽仁裕聖皇后」
  3. ^ 『元史』巻173列伝60崔彧伝,「三十一年、成宗即位。先是、彧得玉璽于故臣札剌氏之家、其文曰『受命于天、既壽永昌』、即以上之徽仁裕聖皇后。至是、皇后手以授于成宗」
  4. ^ 曹2012,203-204頁
  5. ^ 曹2012,204頁
  6. ^ 吉野2009,43頁
  7. ^ 『元史』巻164列伝51楊桓伝,「成宗即位、桓疏上時務二十一事一曰郊祀天地。二曰親享太廟、備四時之祭。三曰先定首相。四曰朝見羣臣、訪問時政得失。五曰詔儒臣以時侍講。六曰設太学及府州儒学、教養生徒。七曰行誥命以褒善敍労。八曰異章服以別貴賤。九曰正礼儀以肅宮庭。十曰定官制以省內外冗員。十一曰講究銭穀以裕国用。十二曰訪求曉習音律者以協太常雅楽。十三曰国子監不可隸集賢院、宜正其名。十四曰試補六部寺監及府州司県吏。十五曰増內外官吏俸禄。十六曰禁父子骨肉・奴婢相告訐者。十七曰定婚姻聘財。十八曰罷行用官銭営什一之利。十九曰復笞杖以別軽重之罪。二十曰郡県吏自中統前仕宦者、宜加優異。二十一曰為治之道宜各従本俗。疏奏、帝嘉納之。未幾、陞秘書少監、預修大一統志。秩満帰兗州、以貲業悉讓弟楷、鄉里称焉。大徳三年、以国子司業召、未赴、卒、年六十六」
  8. ^ 『元史』巻164列伝51楊桓伝,「桓為人寬厚、事親篤孝、博覧羣籍、尤精篆籀之学。著六書統・六書泝源・書学正韻、大抵推明許慎之説、而意加深、皆行于世」

参考文献 編集

  • 元史』巻164列伝51楊桓伝
  • 新元史』巻191列伝88楊桓伝
  • 吉野正史「元朝にとってのナヤン・カダアンの乱:二つの乱における元朝軍の編成を手がかりとして」『史觀』第161冊、2009年
  • 曹永年「“伝国璽”与明蒙関係」『明代蒙古史叢考』上海古籍出版社、2012年