シモン・ド・クレピーフランス語:Simon de Crépy, 1048年 - 1082年9月22日)またはシモン・ド・ヴェクサン(Simon de Vexin)は、アミアン伯、ヴェクサン伯、バ-ル=シュル=オーブ伯[2]、クレピー伯およびヴァロワ伯(在位:1074年 - 1077年)。ヴァロワ伯ラウル4世とアデル・ド・バ-ル=シュル=オーブの息子[2][3]聖シモン(Saint Simon)といわれる。

シモン
Simon
ヴァロワ伯
在位 1074年 - 1077年

出生 1048年
フランス王国バール=シュル=オーブ
死去 1082年9月22日
教皇領ローマ[1][2]
埋葬 教皇領サン・ピエトロ大聖堂
配偶者 オーヴェルニュ伯の娘
家名 ヴェクサン家
父親 ヴァロワ伯ラウル4世
母親 アデル・ド・バ-ル=シュル=オーブ
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生涯 編集

フランス王との対立 編集

1053年に母アデルが死去し、シモンは4代バ-ル=シュル=オーブ伯となった[2]。シモンはまた、ラフェルテ=シュル=オーブも手に入れ、そこに城を建てた。父からペロンヌ、ヴァロワ伯領、アミアン伯領、モンディディエ伯領およびシャンパーニュの領地を継承たが、これはフランス王フィリップ1世の怒りを買った。結果として争いが勃発し、勃発時シモンは20歳であったが3年間対立は続いた。フィリップ1世の軍隊はヴァロワ伯領を荒廃させ、一方でシモンの軍隊も王領を荒廃させた。

教皇グレゴリウス7世の助言により、シモンはこの戦争を放棄し、オーヴェルニュ伯の娘と結婚した。 ルーアン大司教ジャン・ディヴリーは、ジゾーを大聖堂の所有物に戻すようシモンと交渉した[4]。この領地は、ジャンの前任者モリーユから父ラウル4世がその在世期間に限り与えられていたものであった。シモンはそれをさらに数年間保持していた。この返還により、大聖堂にとって重要な領地が返還されただけでなく、戦略的拠点の返還が可能になり、ノフルヌフ=マルシェの間のノルマンディー公領との境界が強化された[4]。その後、妹ヴェルマンドワ伯妃アデライードの同意を得て、シモンは自らの領地をアデライードに譲渡し、シモン夫妻は修道生活を始めた[5]

1077年、フィリップ1世はフランスのヴェクサンを占領した。

修道生活 編集

シモンはコンダ修道院に隠遁したが、そこでは規律が十分に尊重されていないと判断し、森の真ん中のドゥー川の源流近くに数人の仲間とともに居を構えた。修道生活と農業生活のための家を含む庵(小屋)をいくつか建てた[5]。この庵は残され、12世紀にサン=トヤン・ド・ジュ修道院に従属する小さな修道院へと変えられた。厳しい気候にもかかわらず、少数の農民が定住し、ムート(ドゥー)の村を建設した。シモンはラングルの第52代司教ルナールの同意を得て[2]、1075年から1082年にかけて数多くの修道院を創建し、特にサント=ジェルメーヌ、バール=シュル=オーブのサン=ピエール、ラフェルテ(1076年)、シルヴァルヴル、ラトルセ、サン=レジェール=ス=ブリエンヌ、キュンファン、モンティエ=アン=リスルおよびセルモワーズの各修道院の創建に携わることになる[2]。シモンは2度帰国しなければならなかったが、最初は1078年にノルマン人のプーリアおよびカラブリア公ロベルト・イル・グイスカルドと交渉するためグレゴリウス7世から呼び出され[2]、その後、フランス王フィリップ1世によりクリュニー修道院から強奪された財産について、修道院とフランス王フィリップ1世の間の対立において仲裁役を務めることになった[6]

列福 編集

シモンは聖地への巡礼に出かけ、次にローマへ向かった。そして聖ペテロ告解の前で、死に至る病に冒され、教皇グレゴリウス7世から教会の秘跡を受けた。シモンは列福された。ムート村にあるシモンの像は1934年に設置され、聖遺物(腕の骨)が今もムートに保管されている。

脚注 編集

  1. ^ CERON (Jacques) 1095, le clair-obscur: roman de la croisade. (1995), p. 78.
  2. ^ a b c d e f g Louis Chevalier (1851) (フランス語). Histoire de Bar-sur-Aube. Bar-sur-Aube. https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k124912n/f146 .
  3. ^ BERNARD (Aug.) BRUEL (Alex.) Recueil des chartes de l'abbaye de Cluny. (1888), t. 4, p. 584. nos 3476 & 3477.
  4. ^ a b Richard Allen, « ‘A proud and headstrong man’: John of Ivry, bishop of Avranches and archbishop of Rouen, 1060–79 », Historical Research, vol. 83, n°220 (mai 2010), pp. 189-227.
  5. ^ a b Histoire de l'abbaye de St-Claude.
  6. ^ Paul Bertrand, Bruno Dumézil, Xavier Hélary, Sylvie Joye, Charles Mériaux et Isabelle Rosé, Pouvoirs, Église et société dans les royaumes de France, de Bourgogne et de Germanie aux xe et xie siècle (888-vers 1110), Ellipses, 2008, p. 241.

参考文献 編集

  • Histoire de l'abbaye de St-Claude, Ferroul-Montgaillard, édition F. Gauthier, 1834, pp. 353 - 361. Google books.

外部リンク 編集

先代
ラウル4世
ヴァロワ伯
ヴェクサン伯
アミアン伯
1074年 - 1077年
次代
エルベール4世