シャマシュ・シュム・ウキン

シャマシュ・シュム・ウキンShamash-shum-ukin、在位:前668年-前648年)は古代メソポタミア地方におけるバビロンの王。アッシリア王エサルハドンの息子であり、アッシリア王となった弟のアッシュルバニパルと共に王位に就いた。即位後17年間は弟との共同統治に甘んじていたが、紀元前652年に弟に対する反乱に踏み切る。だが、4年間の内戦の末、敗れて死亡した。

シャマシュ・シュム・ウキン
Detail of a stone monument of Shamash-shum-ukin as a basket-bearer. 668-655 BCE. From the temple of Nabu at Borsippa, Iraq and is currently housed in the British Museum.jpg
カゴを運ぶシャマシュ・シュム・ウキンの石像、クローズアップ。前668年-前644年。ボルシッパナブー神殿より発見(大英博物館蔵)
在位 前668年-前648年

死去 紀元前648年
バビロン
父親 アッシリア王エサルハドン
母親 不明[1]、恐らくはバビロニア出身の女性[2]
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シャマシュ・シュム・ウキンは、英語ではShamash-shum-ukin/Shamashshumukin[3]アッカド語ではŠamaš-šuma-ukin[4]/Šamaš-šumu-ukīn[5]、「シャマシュ神は後継者を立てり[5]」の意味。サウルムギナ(Saulmugina[6])、あるいはサルムゲ(Sarmuge[7])という名前でも言及される。

エサルハドンは前672年に、存命中の王子で最年長であったにもかかわらずシャマシュ・シュム・ウキンをバビロンの王位継承者に指名し、弟のアッシュルバニパルをアッシリアの王位継承者とした。エサルハドンが作らせた条約文書はアッシュルバニパルを上位者とするものであったが、両者の関係について若干の曖昧さを残すものであった。エサルハドンの死後、シャマシュ・シュム・ウキンはアッシュルバニパルの王位継承の数ヶ月後にバビロンの王位に登り、その治世を通じてその決定と命令はアッシュルバニパルの承認と確認を経た上でのみ有効とされた。

最終的に、シャマシュ・シュム・ウキンはアッシュルバニパルによる高圧的な統制からの離脱を試み、前652年にアッシュルバニパルに対して反乱を起こした。反乱のためにアッシリアに敵対する勢力をいくつも同調させることに成功したが、にもかかわらず反乱は悲惨な結果に終わった。2年にもわたるアッシュルバニパルによるバビロン包囲の後、都市は陥落したが、彼の死の正確な状況はわからない。

背景編集

シャマシュ・シュム・ウキンは恐らくアッシリア王エサルハドンの次男であり、兄に王太子シン・ナディン・アプリ英語版がいた[4]が、シン・ナディン・アプリは前674年に急死した。自らが極めて困難な王位継承争いの上に即位したエサルハドンは同じ問題を回避することを切望しており、すぐに新たな王位継承計画の策定を始めた[8]

前672年5月、恐らくエサルハドンの4番目の息子(間違いなくシャマシュ・シュム・ウキンよりは若い)アッシュルバニパルがエサルハドンによってアッシリアの王位継承者に指名され、シャマシュ・シュム・ウキンはバビロニアの王位継承者に指名された[9]。両名は共にニネヴェに到着し、外国の代表、アッシリアの貴族、そして兵士たちからの祝賀を共有した[10]。息子の一人をアッシリアの王位継承者とし、別の一人をバビロンの王位継承者とするのは新機軸であった。なぜなら、それまでの数十年間、アッシリア王は同時にバビロンの王を兼任していたからである[11]。エサルハドンは、息子たちの間で彼の称号を分割することを決心したかもしれない。なぜなら、エサルハドンが父センナケリブの後継者と宣言されてから何十年も経ってから、エサルハドンの兄弟は父センナケリブを殺し、王位を簒奪しようとしたからである。帝国の統治を分割することで、そのような嫉妬と対立を回避できると考えたのかもしれない。

明らかにエサルハドンの第一の称号であったアッシリア王の継承者に弟を任命し、兄をバビロンの王位とする処置は、彼ら二人の母親によって説明できるかもしれない。アッシュルバニパルの母親は恐らくアッシリア出身であり、シャマシュ・シュム・ウキンの母はバビロンの出身であった(これは確実ではない。アッシュルバニパルとシャマシュ・シュム・ウキンが同母兄弟である可能性もある[1])。このためシャマシュ・シュム・ウキンがもしもアッシリア王となれば問題を引き起こした可能性がある。エサルハドンはバビロニア人が自分たちの王を戴くことに満足すると推測し、シャマシュ・シュム・ウキンをバビロンおよびアッシリア帝国の南部の継承者とするように取り計らったのであろう[2]。エサルハドンによって作成された条約は彼が二人の息子たちがどのような関係を持つことを意図していたのか幾分不明瞭なものとなっている。アッシュルバニパルが帝国の第一の継承者であり、シャマシュ・シュム・ウキンが彼に対して忠誠の誓いを立てることは明白であったが、別の部分ではアッシュルバニパルはシャマシュ・シュム・ウキンの管轄に介入しないことも明記されており、これはより対等な関係を示唆する[12]。なお、エサルハドンには3番目の息子シャマシュ・メトゥ・ウバリト(Shamash-metu-uballit)もいたが、彼はこの王位継承計画において完全に除外されている。これは、恐らく彼が健康に恵まれなかったためであろう[13]

治世最後の数年間、エサルハドンが頻繁に病を患っていたため、アッシリア帝国の行政的義務の大半はアッシュルバニパルとシャマシュ・シュム・ウキンによって担われた[11]

治世編集

 
アッシュル・ナディン・シュミが定めた給付を確認するシャマシュ・シュム・ウキンの証書。前670年-前650年(大英博物館蔵)。

前669年末ににエサルハドンが死去した後、彼が定めた継承計画に従ってアッシュルバニパルがアッシリア王となった。翌年の春、シャマシュ・シュム・ウキンがバビロンの王位に就き、バビロン市の主神マルドゥクの像英語版がバビロンに返還された。この像は20年程前、シャマシュ・シュム・ウキンとアッシュルバニパルの祖父センナケリブがバビロンから奪っていたものである。像の返還はとりわけ重要だった。なぜなら、バビロニア人の視点からすると、新たな王の統治に対するマルドゥク神の承認を確かなものとしたからである[14]。シャマシュ・シュム・ウキンはアッシリアの王子であり、バビロンの王としての任命はアッシリアの覇権の具体化でしかなかったが、(アッシュルバニパルとほぼ同時に行われた)シャマシュ・シュム・ウキンの戴冠式とマルドゥク神の像の返還は、バビロンの独立した王としての彼を演じるための努力であった[15]。アッシリア王家(サルゴン王朝)の中で、バビロニアの王位を継ぎつつ、あえてアッシリアの王位に就けられなかったのは、唯一、シャマシュ・シュム・ウキンのみである。他のサルゴン王朝の王子でバビロンを統治しつつアッシリアを収めなかった唯一の例は、シャマシュ・シュム・ウキンの叔父、アッシュル・ナディン・シュミであるが、彼はセンナケリブの皇太子であり、アッシリアも継ぐものとされていた[16]。アッシュルバニパルはアッシリア王として強大であったにもかかわらず、軍事的・政治的・宗教的、そしてイデオロギー上の理由からアッシリアにとって重要だったことには、シャマシュ・シュム・ウキンのバビロン統治は、彼自身の正統性によって信望あるものとなっていた[17]

シャマシュ・シュム・ウキンは以降16年間、明らかに概ねアッシュルバニパルとの平和的な関係を維持しつつバビロンを統治したが、シャマシュ・シュム・ウキンの正確な支配領域を巡って論争が繰り返された[18]。エサルハドンの碑文では、シャマシュ・シュム・ウキンが全バビロニアの支配権を与えられるべきことが示されているが、同時代史料によって間違いなく証明されているのは彼がバビロン自体とその周辺を保持していたことだけである。ニップル市、ウルク市ウル市のようなバビロニアの諸都市の総督たち、そして「海の国」の首長たちはバビロン王の存在を完全に無視し、アッシュルバニパルを自らの君主と見なした[19]

シャマシュ・シュム・ウキンがいくつかの伝統的なバビロニア王の行事に参加したことが記録に残されている。彼はシッパル市の市壁を再建し、バビロニアの新年祭に参加した[19]。彼は自分の支配領域にある諸神殿にかなりの注意を払い、自身の碑文においていくつかの神殿に寄進を行ったことを記し、ウルクのイシュタル神殿の土地を拡大した[20]

エサルハドンによってシャマシュ・シュム・ウキンがバビロン王に指名されていたにもかかわらず、アッシュルバニパルは自身の碑文において自分がシャマシュ・シュム・ウキンにバビロンの支配を与えたと記している。これは恐らく、シャマシュ・シュム・ウキンが公式に即位したのがアッシュルバニパル即位の数ヶ月後であったことによる。理論上は、シャマシュ・シュム・ウキンの即位を止める権力がアッシュルバニパルにはあったからである[21]

地位編集

 
メソポタミアの主要都市の地図。

アッシュルバニパルに対してシャマシュ・シュム・ウキンが反旗を翻した正確な理由は不明であるが、いくつかの可能性がある。恐らく、最も一般的に考えられている理由は、エサルハドンによってシャマシュ・シュム・ウキンが全バビロニアの支配を継承することが定められていたにもかかわらず、エサルハドンの死後アッシュルバニパルがこれを尊重しなかったことである。バビロニア全域においてシャマシュ・シュム・ウキンの名を持つ商業文書が発見されている(これはバビロニアの大部分でシャマシュ・シュム・ウキンが王とみなされていたことを示す)。しかし、アッシュルバニパルの治世中の同様の文章もまたバビロニアから発見されており、これはアッシュルバニパルが(バビロンの王の存在にもかかわらず)バビロニアの君主とみなされていたことを示す[22]

バビロン、ディルバト英語版、ボルシッパ、シッパルからはアッシュルバニパルの商業文書は全く見つかっておらず、これらの都市が完全にシャマシュ・シュム・ウキンの下にあったことが示されている。しかし、アッシュルバニパルはバビロニア全域に情報員を配置しており、(シャマシュ・シュム・ウキンではなく)自身へ直接報告を行わせていた。そして碑文記録によって、シャマシュ・シュム・ウキンが自身の臣下たちに与えたいかなる命令も、実行に移される前にまずアッシュルバニパルの確認と承認を得なければならなかったことが示されている[23]。アッシュルバニパルはシャマシュ・シュムウキンの支配地の遥か内側であったはずの都市ボルシッパに常駐部隊と役人を置いていた[24]。バビロンの役人から直接アッシュルバニパルに送付された請願書も現存している。シャマシュ・シュム・ウキンがバビロンにおいて普遍的に尊重される主権者であったならば、彼がこのような書簡の最終受取人であったであろう[25]

アッシュルバニパルとシャマシュ・シュム・ウキンが平和的に共存していた時代のバビロニアから発見された王室文書には両方の名前が記されているが、それと同時代のアッシリアから発見された文書にはアッシュルバニパルの名前しかなく、この二人の王が同等でなかったという見解を補強している。ウルクはバビロニアに位置する都市であったにもかかわらず、ウルク総督クドゥル(Kudurru)はアッシュルバニパルに宛てた書簡で全土の王英語版という称号を彼に付している。これはクドゥルがシャマシュ・シュム・ウキンではなくアッシュルバニパルを自らの君主として見ていたことを示している[26]。シャマシュ・シュム・ウキン自身は自らをアッシュルバニパルと対等であると見ていたと考えられ、書簡においてアッシュルバニパルに対してシンプルに「我が兄弟」と呼び掛けている(これはシャマシュ・シュム・ウキンが父親のエサルハドンに対して「王、我が父」と書いていたのとは異なる)。シャマシュ・シュム・ウキンからアッシュルバニパルに送られた書簡が複数現存しているが、それに対する返信は残されていない。アッシュルバニパルが情報提供者網を張っていたため、シャマシュ・シュム・ウキンに書簡を送る必要を感じなかったのかもしれない[21]

アッシュルバニパルに対する反乱と死編集

前650年代後半までにシャマシュ・シュム・ウキンとアッシュルバニパルの間の敵意は増大した。シャマシュ・シュム・ウキンの廷臣であったザキル(Zakir)からアッシュルバニパルへ与えられた手紙では、「海の国」からの使者がシャマシュ・シュム・ウキンの面前で公然とアッシュルバニパルを批判したことが述べられているが「これは王の言葉ではありません!」という表現が用いられている。ザキルはシャマシュ・シュム・ウキンがこの発言に怒りを示したことを報告しているが、同時に彼とバビロンの総督ウバル(Ubaru)がこの使者に対して何の処置も行わないことにしたことも報告している[27]。恐らくシャマシュ・シュム・ウキンの反乱の背後にあった最も重要な要因は、兄弟であるアッシュルバニパルに対する自身の地位への不満、バビロニア人のアッシリアに対する一般的かつ不変の怒り、アッシリアと戦う者であれば誰であれ加担するエラムの支配者たちの不変の熱意であった[28]

前652年にシャマシュ・シュム・ウキンは反乱を起こした[29]。この内戦はその後3年間続くことになる[18]。反乱はアッシリアの王位を主張するためのものではなく、むしろバビロニアの独立を守るための試みだった[30]。碑文史料からシャマシュ・シュム・ウキンがバビロンの市民に対して自分の反乱に参加するよう呼びかけたことがわかる。アッシュルバニパルの碑文ではシャマシュ・シュム・ウキンの「アッシュルバニパルはバビロニア人の名を恥で覆う」という発言が引用されている。アッシュルバニパルはこれを「風(風聞)」「嘘」と言っている。このすぐ後にシャマシュ・シュム・ウキンは反乱に踏み切り、南部メソポタミアの他の地域でも、シャマシュ・シュム・ウキンの側についてアッシュルバニパルに対し反乱した[31]。内戦の初期、アッシュルバニパルは南部地方の太守が彼の側に寝返るように働きかけることを試み、彼らのうちの誰かが内戦を落ち着かせることに興味を持つことを願って書簡を送った。これらの書簡の中で アッシュルバニパルは シャマシュ・シュム・ウキンのことを名前で書くことはなく、その代わりに彼を「lā aḫu」(兄弟ではない者)と呼んでいる。多くの碑文の中で、シャマシュ・シュム・ウキンは単純に「不義の兄」「敵としての兄」あるいは単に「敵」と記されている[32]。いくつかの書簡の中で、アッシュルバニパルは彼のバビロン王としての正当性をおとしめるために、彼のことを「マルドゥク神が憎む者」としている[14]

アッシュルバニパルの碑文によれば、シャマシュ・シュム・ウキンはアッシリアに対抗するための同盟相手を見つけることに大きな成功を収めた。アッシュルバニパルはシャマシュ・シュム・ウキンの同調者を3つのグループに分類している。第一に何よりもまずカルデア人アラム人およびバビロニアに住むその他の人々、第二にエラム人、第三にグティ人アムル人(アムル人)、そしてメルッハ英語版の王たちである。第三のグループの王たちはメディア人のことであるかもしれない(グティ人、アムル人、メルッハはこの時点ではもはや存在していない)が、不明瞭である。メルッハはエジプトを指した者である可能性があるが、彼らはこの戦争においてシャマシュ・シュム・ウキンに支援を行ってはいない。シャマシュ・シュム・ウキンはエラムに使者を送り贈り物(アッシュルバニパルはこれを「賄賂」と呼んでいる)、エラム王は内戦を戦うシャマシュ・シュム・ウキンを支援するため、王子の指揮する援軍を派遣した[33]

アッシリアの敵国を集めて連合したにもかかわらず、シャマシュ・シュム・ウキンの反乱は成功しなかった。第一の同盟相手であったエラム人はデール英語版でアッシリア軍に敗れ、この内戦で役割を果たすことはなくなった[34]。前650年までにシャマシュ・シュム・ウキンの状況は厳しいものとなっていたように見え、アッシュルバニパルの軍勢はシッパル、ボルシッパ、クタ、そしてバビロン本体も包囲下に置いた。バビロンは包囲の中で飢えと疫病に耐えたが、最終的に前648年に陥落し、アッシュルバニパルによって略奪された[35]。シャマシュ・シュム・ウキンが残した祈りの文書の1つは、この内戦の最終局面における彼の絶望を記録に残している。

余は昼夜を問わずハトの如く慟哭する。余は自らを哀れみ、余はただ嘆く。我が瞳から涙が落ちるのを止めることは適わず[36]

シャマシュ・シュム・ウキンは伝統的に、宮殿で自らに火をかけて死んだとされている[35]。だが、同時代の文書は、単に「彼は残酷な死を迎え」、神々が「彼を炎に委ね、彼の人生を滅ぼした」と書いてあるのみである。焼身自殺であれ他の手段であれ、彼が処刑されたり、事故死したり、他の原因で死んだこともあり得る[37]。彼の死に関する記述の大半では、何らかの形で炎が関係しているようだが、それ以上の詳細な情報は何もない[38]。シャマシュ・シュム・ウキンがアッシュルバニパルに対する戦争を起こし、アッシュルバニパルに不忠であるとされた(そしてもしかするとシャマシュ・シュム・ウキンが焼死した)原因として、典型的に、神々の意図によるものとされている[39]。もしもシャマシュ・シュム・ウキンが処刑されたのだとすれば、アッシリアの書記が歴史的な記録文書の中でそれに触れないのは、論理的であると言える。なぜなら、王が兄弟を殺すことは違法であり、仮に(アッシュルバニパルではなく)兵士がそれを実行したのだとしても、アッシリア王家の一員を殺害したに等しいからである[40]。もし、配下の兵士がシャマシュ・シュム・ウキンを殺したのだとしたら、彼は悲惨ではない死を迎えたと言えるかもしれない[39]。シャマシュ・シュム・ウキンが死亡した後、アッシュルバニパルは自らの役人の一人カンダラヌを属王としてバビロンの王位に就けた[35]

遺産編集

シャマシュ・シュム・ウキンの反乱と破滅は、歴史を記録するアッシリア王家の書記にとって困難な例を象徴している。シャマシュ・シュム・ウキンはアッシリア王家の一員であると同時に、不実のバビロン王であったため、彼の運命について記すことは困難であった。書記たちは、諸外国の王たちや反乱者の敗北について、とても長い記述で熱心に記録している一方で、一般的にはアッシリア王家の一員の死についての記述は熱意に欠ける[37]。事態はより複雑だったかもしれない。なぜなら、アッシリア人による他の幾多の反乱とは異なり、シャマシュ・シュム・ウキンは簒奪者ではなく、アッシリア王の布告によって合法的に任命されたバビロンの支配者だったからである[41] 。その後のアッシュルバニパルの個人的な文書からは、シャマシュ・シュム・ウキンの人生の最期に関してほとんど知ることができない。アッシュルバニパル以後の王たちも、彼に言及することはない。まるで、最初からシャマシュ・シュム・ウキンなど存在しなかったかのようである。アッシュルバニパルの文書は彼の兄弟の死について遠回しに述べるだけで、多くの箇所ではシャマシュ・シュム・ウキンの名前を省略さえして、単に「王」と述べるのみである。ニネヴェのアッシュルバニパルの宮殿から出土した浮き彫りには、バビロンの反乱に対する彼の勝利を描かれている。その中で、兵士たちはバビロンの王冠と王家の記章をアッシュルバニパルに渡しているが、この浮き彫りの中で、シャマシュ・シュム・ウキンは明らかに省略されている[37]。シャマシュ・シュム・ウキンの破滅を受けた記憶の断罪の証拠がそこにはあり、注目に値する。傍らには王によって立てられた石柱があり、シャマシュ・シュム・ウキンの死を受け、意図的にその顔が削り取られている[42]

称号編集

シャマシュ・シュム・ウキンが最も頻繁に用いた称号はšar Bābili(バビロンの王)である。もっとも、šakkanakki Bābili(バビロンの太守)を用いた碑文も1つだけ存在する。バビロンを統治した他のアッシリア王の碑文の中では、「太守」が「王」よりも一般的である。彼は他にも、例えばšar māt Šumeri u Akkadi(シュメールとアッカドの王)などの典型的なバビロニア王家の称号を用いた。概して彼の称号は、他のアッシリア人のバビロン支配者と比べものにならないほど、典型的に「バビロニア的な」ものだった[43]。典型的なアッシリアの支配者と同様に、シャマシュ・シュム・ウキンは多くの彼の碑文の中で彼の祖先に対し、敬意を払っている。彼が碑文の中で名前を言及するのは、彼の曾祖父サルゴン2世、祖父センナケリブ(センナケリブがバビロンに対して行ったことのために、概してセンナケリブには「バビロンの王」の称号を用いていない)、彼の父エサルハドン。そして時々、彼の兄弟アッシュルバニパルも挙げている。シャマシュ・シュム・ウキンがその称号に彼らを含めた理由は、もしかすると、それを省略すると彼の正当性が疑われることを恐れたせいかもしれない。彼の祖先の紹介の仕方や、碑文におけるシャマシュ・シュム・ウキンの神の用い方は、他のアッシリア人統治者と明らかに一線を画している[44]

本質的に、アッシリアの王権はアッシリアの神アッシュルの神官としての役割とつながっているのだが、意味深長なことには、シャマシュ・シュム・ウキンは、彼の祖先のその役割には言及していない[44]。バビロンの統治者に期待されているように、シャマシュ・シュム・ウキンの公式碑文の中で最も頻繁に言及される神はマルドゥク神である[45]。だが、シャマシュ・シュム・ウキンの碑文では、アッシュル神については一言も言及しない。アッシリアとバビロニアの両方を治めた彼の祖先の碑文においては(しばしば、簡潔な形ではあるが)アッシュル神について記しているのとは対照的である。シャマシュ・シュム・ウキンが公的には(その血統のゆえに)自分をアッシリア人であるとしていたにもかかわらず、彼の碑文は、彼がアッシリアの神を敬ってなかったことを示唆している。彼の称号を記す箇所の多くにおいて、シャマシュ・シュム・ウキンはアッシリア(人)の有名無実の集まりを用いて、神々の代わりとしている。そこでは、南部で敬意を払われていた神々、例えばマルドゥクやザルバニトゥの代わりにアッシリアにおける重要な神々、例えばアッシュル、イシュタル、シンが用いられることはなかった[46]

関連項目編集

脚注編集

  1. ^ a b Novotny & Singletary 2009, p. 174–176.
  2. ^ a b Ahmed 2018, p. 65–66.
  3. ^ Mullo-Weir 1929, p. 553.
  4. ^ a b Novotny & Singletary 2009, p. 168.
  5. ^ a b Frahm 2005, p. 47.
  6. ^ Budge 2010, p. 52.
  7. ^ Teppo 2007, p. 395.
  8. ^ Ahmed 2018, p. 63.
  9. ^ Encyclopaedia Britannica.
  10. ^ Ahmed 2018, p. 64.
  11. ^ a b Radner 2003, p. 170.
  12. ^ Ahmed 2018, p. 68.
  13. ^ Novotny & Singletary 2009, p. 170.
  14. ^ a b Zaia 2019b, p. 14.
  15. ^ Zaia 2019b, p. 2.
  16. ^ Zaia 2019, p. 20.
  17. ^ Zaia 2019b, p. 3.
  18. ^ a b Ahmed 2018, p. 8.
  19. ^ a b Ahmed 2018, p. 80.
  20. ^ Ahmed 2018, p. 82.
  21. ^ a b Ahmed 2018, p. 87.
  22. ^ Ahmed 2018, pp. 82–83.
  23. ^ Ahmed 2018, p. 83.
  24. ^ Ahmed 2018, p. 84.
  25. ^ Ahmed 2018, p. 85.
  26. ^ Ahmed 2018, p. 86.
  27. ^ Ahmed 2018, p. 88.
  28. ^ Ahmed 2018, p. 90.
  29. ^ MacGinnis 1988, p. 38.
  30. ^ Zaia 2019b, p. 18.
  31. ^ Ahmed 2018, p. 91.
  32. ^ Zaia 2019, p. 31.
  33. ^ Ahmed 2018, p. 93.
  34. ^ Carter & Stolper 1984, p. 51.
  35. ^ a b c Johns 1913, p. 124–125.
  36. ^ Ahmed 2018, p. 102.
  37. ^ a b c Zaia 2019, p. 21.
  38. ^ Zaia 2019, p. 23.
  39. ^ a b Zaia 2019, p. 37.
  40. ^ Zaia 2019, p. 36.
  41. ^ Zaia 2019, p. 26.
  42. ^ Zaia 2019, p. 48.
  43. ^ Zaia 2019b, p. 8.
  44. ^ a b Zaia 2019b, p. 9.
  45. ^ Zaia 2019b, p. 10.
  46. ^ Zaia 2019b, pp. 13–14.

参考文献編集

外部リンク編集

  • Encyclopaedia Britannica. “Ashurbanipal”. 2019年11月28日閲覧。
    (『アッシュルバニパル』ブリタニカ百科事典)


先代
エサルハドン
バビロニア王
前668年 - 前648年
次代
カンダラヌ