バビロニア古希: Βαβυλωνία: Babylonia)、またはバビュロニアは、現代のイラク南部、ティグリス川ユーフラテス川下流の沖積平野一帯を指す歴史地理的領域。南北は概ね現在のバグダード周辺からペルシア湾まで、東西はザグロス山脈からシリア砂漠アラビア砂漠までの範囲に相当する[1]。その中心都市バビロン旧約聖書に代表される伝説によって現代でも有名である。バビロニアは古代においては更に南部のシュメール地方と北部のアッカド地方に大別され、「シュメールとアッカドの地」という表現で呼ばれていた[1]

イラクの歴史
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先史

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バビロニアは世界で最も古くから農耕が行われている地域の一つであり、前4000年期には既に中東の広い範囲との間に交易ネットワークが張り巡らされていた。前3000年期には文字が使用され始めた。初めて文字システム体系を構築したシュメール人アッカド人たちはバビロニア南部でウルウルクニップルラガシュなどに代表される多数の都市国家を構築し、前3000年期後半にはアッカド帝国がバビロニアを含むメソポタミア全域への支配を打ち立て、更にウル第3王朝がそれに続いた。

前2000年期に入ると、アムル人(アモリ人)と呼ばれる人々がメソポタミア全域で多数の王朝を打ち立てた。その内の一つでバビロンに勃興したバビロン第1王朝は、ハンムラビ王(在位:前1792年-前1750年)の時代にメソポタミアをほぼ統一し、バビロンが地域の中心都市となる契機を作った。前2000年期後半にはカッシート人が作った王朝(バビロン第3王朝)が支配権を握り、古代オリエント各地の国々と活発に交流を行い、または戦った。カッシート人の王朝は東のエラムとの戦いによって滅亡した。

前1000年期前半にはバビロニアの王朝はアッシリアとの相次ぐ戦いの中で次第に劣勢となり、アッシリアの王ティグラト・ピレセル3世(在位:前745年-前727年)によってその支配下に組み込まれた。アッシリアによるバビロニアの支配は恒常的な反乱にも関わらず、短期間の中断を挟み100年以上継続したが、前625年にカルデア人ナボポラッサルがアッシリア人を駆逐し、新バビロニア王国(カルデア王国)を建設したことで終わった。新バビロニアは更に前539年にアケメネス朝の王キュロス2世(在位:前550年-紀元前529年)によって征服され、その帝国の一部となった。アケメネス朝を滅ぼしたアレクサンドロス3世(大王、在位:前356年-前323年)は遠征の途上、バビロンに入場し、また征服の後はバビロンで死去した。

アレクサンドロス大王の死後、後継者(ディアドコイ)の一人セレウコス1世がバビロニアの支配者となった。彼がバビロニアに新たな拠点としてティグリス河畔のセレウキアを建設すると、バビロンの重要性は次第に失われて行き、続くパルティア王国(アルサケス朝)時代にはセレウキアとその対岸の都市クテシフォン(テースィフォーン)が完全にバビロニアの中心となってバビロン市は放棄された。それに伴い、シュメール時代から続けられていた楔形文字による文字体系も失われ、古くから伝承されたシュメール語バビロニア語の文学的伝統も途絶えた。

法律文学宗教芸術数学天文学などが発達した古代オリエント文明の中心地であり、多くの遺産が後代の文明に引き継がれた。政治体制は基本的に都市国家的な性格を強く残し、地域全体を包括する政治的統一が成し遂げられたのは特定の時代に限られる。アムル人、カッシート人、アラム人など外部からの頻繁な移住が行われ、地元の住民と衝突、混交した。地域の中心的な言語はシュメール語及びアッカド語(バビロニア語)からアラム語へと移り変わり、アレクサンドロス3世(大王)による征服の後にはギリシア語も普及した。

なお、歴史上のどの時点からをバビロニアと呼び、またそれはいつまでであるのかについて明確な定義があるわけではない。本項では便宜上、バビロン市が史料に初めて登場するアッカド帝国時代前後から、バビロン市が完全に放棄され楔形文字による文字記録が途絶える西暦75年頃までを中心として述べる。

目次

名称編集

バビロニア(バビュロニア)と言う名称は、その主邑バビロン(バビュローン、古希: ΒαβυλώνBabylṓn)に由来するギリシア語の名前、バビュローニアー古希: ΒαβυλωνίαBabulōnía) から来ている[2][3]。従ってこれは外部からの呼称であり、現地においてギリシア語のバビュローニアーに完全に対応する地理概念が当初より存在したわけではない。なお、ギリシア人ローマ人はしばしばアッシリア(アッシュリア)とバビロニアを混同している[2]

バビロニアに相当する地域は、現地では南部のシュメールと北部のアッカドと言う二つの地域として認識されていた[3][4]。この二つの地名に由来する称号が「シュメールとアッカドの王シュメール語lugal ki.en.gi ki.uriアッカド語/バビロニア語Šar māt šumeri u akkadi)」であり、ウル第3王朝の王ウル・ナンム(在位:前2112年-前2095年)の時代に初めて登場して以来、バビロニア、メソポタミアの広い範囲を統治する王たちによって好んで用いられた[5]。シュメールとアッカドと言う二つの土地(シュメールとアッカドの地)からなると伝統的に認識されていた地域は、カッシート朝(バビロン第3王朝、前15世紀頃-前1155年)の時代にはカルドゥニアシュ英語版Karduniaš)と言う名称の下で政治的統一体として認識されるようになった[6]アケメネス朝の王ダレイオス1世(在位:前522年-前486年)が残したベヒストゥン碑文には、彼が支配する国々の一つとしてバービル(バービルシュ、Bābiruš)と言う名でバビロニアが言及されている[7]

地理編集

 
復元されたバビロンの都

バビロニアの地理的範囲は、現在のイラクティグリス川ユーフラテス川に挟まれたいわゆるメソポタミアの下流域である。南北は概ね現在のバグダードからペルシア湾までの範囲であり、東西はザグロス山脈からシリア砂漠アラビア砂漠までの範囲に相当する[1]。バビロニアの最南部は湿地帯であり、人々は陸上のみならず海上で小舟の上で生活を送っていた[1]。メソポタミアのバグダードよりも上流域の地方はアッシリアと呼ばれた[4]。そしてバビロニアの東部、現在のイラン南西部にはエラムと呼ばれる地域があり[8]、いずれも有力な勢力としてバビロニアの政治・文化・歴史に大きな影響を及ぼした。バビロニアの西部には砂漠地帯が広がっている。これは砂砂漠ではなく、小礫を含んだ岩砂漠地帯であり、ユーフラテス川に合流する多数のワジ(涸れ河)とオアシスがあり、遊牧民の活動地帯であった[4]。バビロニアはティグリス川とユーフラテス川の沖積平野であり、起伏に乏しい広大な平原が広がっている[1][9]。バビロニアの北端部分にあたるバグダード周辺から南端部のバスラまでの高低差は極僅かであり、山の迫る北部メソポタミアのアッシリア地方とは異なる景観を有している[9]

 
現代の最南部の湿地帯で葦で造られた集会場の内部。シュメールの時代から大きくは変わらない様式で建造されている。

バビロニアを含むメソポタミア地域の地理・気候の条件が当時どのような物であったのかと言う予測は、ほとんど現在の状況からの投影に基づいている[10]。ただし現在見られるイラク南部の景観は少なくとも部分的には数千年に渡る人類の活動の結果である[10]

この地域の気候は直近の1000年と大きく変化してはいないと予想され[10]、年間雨量100ミリ以下という乾燥地帯であることに特徴づけられる[4]。これは乾地農業の理論的限界を下回っており、人々は収穫を得るために灌漑農業を発達させた[10][1][9]。灌漑のための水源はこの地域を縦断するユーフラテス川とティグリス川であったが、エジプトナイル川と異なりこの両河川を効果的に利用するには多くの困難があった。原因の一つは両河川の増水と減水のサイクルが、農作業のサイクルと一致しなかったことである[10]。この地域では通常10月から11月に播種し、4月から6月にかけて収穫が行われる[10]。しかし、ティグリス・ユーフラテス両河は毎年春、3月から4月頃にかけて雪解け水によって増水・氾濫し[9]、水量が最大になるのはティグリス川が4月、ユーフラテス川が5月である[10]。だが、この時期は既に灌漑を必要とせず、むしろ洪水の脅威をもたらした[10]。逆に両河川の流量が最小となるのは8月から9月にかけてであり、灌漑用水がこれから必要になる時期である[10]。このためにバビロニアでの灌漑農業には水量が減少する時期に灌漑用水をくみ上げて農地に導入するための運河の建設とメンテナンスが欠かせないものであった[11]。また春に多発した洪水の惨禍から畑を保護するために堤防や貯水池も準備しなければならなかった[11]

この地域の農業に困難をもたらしたもう一つの要因は極めて傾斜の緩いその地勢である。南に進むにつれて川の流れは遅くなり、逆に土砂の堆積量は増大した[11]。増水する春には、流されてきた荒い土砂によって自然堤防が形成される一方、細かい粒子は広い範囲に蓄積されて不浸透性のなめらかな表面を形成し、滞留した水がそれを覆った[11]。このような状況は洪水の際の流路変更の原因となり、大洪水の際には川の流路が完全に変化してしまうこともあった[11]。ティグリス川はサーサーン朝時代の5世紀の終わりに大きな流路変更を経験している[11]。このような地勢のため、灌漑設備や農地からの排水は悪く、また土砂の堆積に対応するために継続的な清掃が必要であった[11]。そして、灌漑用水のうちのかなりの割合が排水ではなく蒸発によって漏出したが、それに伴い地下水位が上昇し、毛細管現象によって地下から表面に出た水に含まれる塩分が深刻な塩害を引き起こしたため、これも定期的な休耕や農地の洗浄を要求した[11]

灌漑用水源としてはユーフラテス川が特に重要であった。これはユーフラテス川に合流する大きな支流がハブール川だけであり、ティグリス川よりも相対的に安定していたためである[10]。ティグリス川はザグロス山脈から流れ込む大ザブ川小ザブ川ディヤラ川などと合流するため、その傾斜の落差と広大な流域面積によって不意の洪水が発生しやすく治水が困難であった[10]。このため人口と農地はユーフラテス川沿いで密であり、ティグリス川沿いでは希薄であった[12]

バビロニアは鉱物資源に乏しく、樹木の植生もナツメヤシタマリスクを中心として木材に適する物に乏しかったため、建造物は一般に日干し煉瓦焼成煉瓦のような容易に手に入るを原材料とする建材で建造され、石は土台にしか用いられなかった[1]。南端部の湿地帯ではシュメール時代から大型の建造物がを用いて建設された。これは20世紀までハワール(マーシュランド)と呼ばれるイラク南部地方で建設されていた葦で造られる集会場とよく似た様式であった[13]。メソポタミアの粘土質の土は、土器を作ることには適しており、前7000年期には土器が普及し始めていた[13]。土器のみならず、のような生活用具や、模型などもみな土から作られた[13]

歴史編集

編年編集

バビロニアを含む古代オリエント世界の編年は完全には確立されていない。前1千年紀、特にアッシリア時代についてはアッシュール・ダン3世の治世中に発生した日食が紀元前763年6月15日のものであることが同定できており[14]、豊富な史料と組み合わせて現在の暦と接続された絶対年代が割り出されている。しかし、前2千年紀については、高年代説、中年代説、低年代説と呼ばれる3つの主要な説が存在し、未だ絶対年代は確定されていない[15]。それぞれの学説において、現代の暦におけるハンムラビ王の在位は前1848年-1806年(高年代説)、前1792年-前1750年(中年代説)、前1728年-前1686年(低年代説)となる[15]。本節では最も頻繁に使用される中年代説に基づいて記述を行うが[15]、なお確定的な年代ではないことに注意されたい。バビロニアの編年についての詳細は古代オリエントの編年を参照。

シュメールとアッカド編集

 
アッカド帝国(緑)とその周辺

後世バビロニアと呼ばれることになるシュメールとアッカドの地では、前3200年頃には大きな人口を抱え、複雑な社会機構を持つ都市国家が誕生していた[16]。その後、シュメール初期王朝時代(前2900年頃-前2335年頃)にはメソポタミアと周辺の西アジア各地に都市文明が拡散していった[16][17]。初期王朝時代末期の前2500年頃から、おぼろげながらも同時代史料に基づいてその歴史の一部を知ることができるようになる[16][18]。バビロニアは(エジプトを除き)この時代の歴史を文字史料を通じて復元できる唯一の地域である[16][18]

初期王朝時代末期にはシュメール人、アッカド人の都市国家が興亡を繰り返した。これらの都市国家の中でも有力となったものは次第に近隣都市を服属させて地域統合を果たすようになった[19][注釈 1]。そのような都市国家にはキシュニップルアダブシュルッパクウンマウルクウルなどがある[19]。これらの都市国家では王権が強化され特定の家系に王位が独占されていくとともに[21]、各国の間で領土や覇権を巡って相互に激しい争いが行われた[22]。この時代の都市国家の争いと覇権の移り変わりは、前21世紀頃に成立した『シュメール王朝表[注釈 2]』において、歴代王朝の覇権交代と言う形の伝承にまとめられている[23]。これは同時代に存在していた有力な都市国家全てに触れてはいないし、またそれぞれが順番に覇権を握っていったという体裁をとるが、実際にそのように整然と勢力が交代したわけではない[23]

こうした都市国家群は前24世紀半ばにウンマ王で後にウルクに拠点を遷したルガルザゲシによって大部分が征服され初めて統合された[24]。このルガルザゲシの王国は、アッカド市(アガデ)の王サルゴン(シャル・キン)によって打倒された[25]。サルゴンが建設した王国はアッカド帝国とも呼ばれ、一般に初の統一王朝として扱われる[25]。バビロニアの中枢となる都市、バビロン(バーブイル/バーブ・イリ Bābili)は後世の史料ではこのサルゴン王によって建設されたという[26]。しかし、これは一つの伝説であり、同時代史料におけるバビロンの初出はアッカド帝国最後の王、シャル・カリ・シャッリ(在位:前22世紀頃)の時代に建造された神殿の定礎碑文である[26]

アッカド帝国は地中海沿岸地域にいたるまでユーフラテス川とティグリス川の流域を征服し、サルゴン王は「世界の王(シュメール語:LUGAL KIŠ、アッカド語:šar kišš ati[27]ナラム・シン王の時代には「四方領域の王(シュメール語:LUGAL ki-ib-ra-tim ar-ba-im)」などの称号を採用し、都市国家を超えた領域を支配する王権観を発達させていった[28][29]。アッカド帝国による統合は、シャル・カリ・シャッリの治世の後崩壊した。『シュメール王朝表』は彼の治世の後、「誰が王であり、誰が王でなかったか」と言う文章で書き始めている[30]。後世の伝承はアッカド帝国の崩壊とその後の混乱を蛮族グティ人の侵入の結果として描写するが、その史実性は疑わしいとされる[31]。この混乱と分裂は前22世紀の終わり頃、ウルクの将軍でウルの王となったウル・ナンム(ウル・ナンマ、在位:前2112年-前2095年)による統合で終止符が打たれた[32][33]。これをウル第3王朝と呼ぶ[32]

ウル・ナンムは現在知られる限り後世バビロニアの支配者によって繰り返し使用される「シュメールとアッカドの王」と言う称号を用いた最初の王である[5][34]。また、記録に残る最初の法典編纂が行われた(ウル・ナンム法典)[35]。これは後に古バビロニア時代に行われる各種の法典編纂に先行するものである[35]。この頃には正義(シュメール語:nig-si-sá)の観念も整備され、後のバビロニアの王が従うべき道徳規範も形作られて行った[35]。しかし、ウル第3王朝自体は100年余りしか存続しなかった。シュ・シン(在位:前2037年-前2029年)の時代には西方からメソポタミアに移住していたアムル人(アモリ人)の勢力が増し、その影響で辺境において徴税が不可能になっていることを訴える現地司令官の報告が残されている[36]。また東方ではエラムザブシャリ国を中心として反乱を起こしていた。シュ・シンは恐らくこの反乱を鎮圧したが[36]、次の王イビ・シン(在位:前2028年-前2004年)の時代にはイシン市でアムル人の将軍イシュビ・エッラがウル第3王朝から事実上自立し、その力は大きく衰えた[36]。そしてイシュビ・エッラとの争いや他のアムル人諸部族の反抗の中で、エラムが再び反逆し前2004年にウルを占領した[37]。これによってウル第3王朝は滅亡した。

古バビロニア時代編集

 
ハンムラビ王時代のバビロン第1王朝

ウル第3王朝の滅亡(前2004年)から、バビロン第1王朝の滅亡(前1595年)までの時代は古バビロニア時代と呼ばれている[38]。 更に、群雄割拠の時代(前期)と、バビロンによる統一の時代(後期)に二区分し、前期をイシン・ラルサ時代、後期をバビロン統一王朝時代、またはハンムラビ王国時代と区分するのが一般的である[38]

イシン・ラルサ時代編集

ウル第3王朝滅亡後のメソポタミアでは、移住したアムル人たちが各地に王国を作り上げていった。この時代に有力勢力として現れる王国のほとんどはアムル系の王国である[39]。これらの中でも、イシュビ・エッラが作り上げたイシン第1王朝と、ナプラヌムと呼ばれるアムル人が王朝を作ったラルサが中心となって覇権争いを演じた[40]。当初はイシンが最も有力であったが、第5代王リピト・イシュタル(在位:前1932年-前1903年)の時代には、ラルサがやはり第5代のグングヌム(前1932年-前1906年)王の下で強大化し、イシンを圧倒した[40]。イシンの第2代王シュ・イリシュや、グングヌム以降のラルサ王はかつてのウル第3王朝時代の称号「シュメールとアッカドの王」を再び用いている[41]

この頃にバビロンが次第に成長し、南部メソポタミアに台頭し始める。バビロンはウル第3王朝時代には知事が派遣されていたことなどが記録に残るが、イシン・ラルサ時代の初め頃までは一地方都市に過ぎなかった[42]。この時代のバビロンの遺跡は地下水のために満足な調査が行われていないが、それでもこの都市がさしたる重要性を持っていなかったことは理解される[42][43]。前1894年頃、アムル人の首長スム・アブム、またはスム・ラ・エルがこの都市を拠点として王朝を開いたとされる[43][44][注釈 3]。これがバビロン第1王朝である。バビロン第1王朝の王たちはイシン第1王朝や南方から勢力を拡大するラルサと戦いつつ周辺地域に勢力を拡大したが、ハンムラビ(在位:前1792年-前1750年)が即位した時もなお、ささやかな領土を持つに過ぎなかった[45]

ハンムラビの即位時、バビロンの南では既にイシンを滅ぼして南部メソポタミアの大部分を支配下に置くラルサ、東ではエシュヌンナ、北ではアッシリアを支配下に置くシャムシ・アダド1世の「上メソポタミア王国」が大きな勢力を持っていた[46]。特にシャムシ・アダド1世は当時メソポタミアで最も強大な勢力を誇った君主であり、その王国は北部メソポタミアの広い範囲に及んでいる[47]。ハンムラビは即位時にはシャムシ・アダド1世の宗主権の下にあり、その支援を得てラルサやエシュヌンナと戦っていた[48][46][49]。シャムシ・アダド1世は前1781年頃に死亡した。彼の死亡は当時のメソポタミアにおける一大事であり、エシュヌンナのような外国においてもこの年の年名は「シャムシ・アダド1世が死んだ年」と名付けられている[50]。彼の死後、「上メソポタミア王国」は急速に瓦解し、メソポタミアには「一人で十分強力な王はいない」とされる状態が訪れた[51]。バビロンのハンムラビ、ラルサのリム・シン1世、エシュヌンナのイバル・ピ・エル2世カトナアムト・ピ・エルマリジムリ・リム、そしてヤムハドアレッポ)のヤリム・リムなどが有力な王として数えられた[52]。長期にわたる戦いを経て、ハンムラビはその治世中にラルサ、エシュヌンナ、マリを征服し、南部メソポタミアの全域を支配下に置いた[53]。彼自身が主張するところによれば、更にアッシリアまでも征服したとしている[53]

バビロン第1王朝時代編集

§196 もしアウィールム[注釈 4]がアウィールム仲間の目を損なったなら、彼らは彼の目を損なわなければならない。

§197 もし彼がアウィールム仲間の骨を折ったなら、彼らは彼の骨を折らなければならない。
§198 もし彼がムシュケーヌムの目を損なったか、ムシュケーヌムの骨を折ったなら、彼は銀1マナ(約500グラム)を支払わなければならない。
§199 もし彼がアウィールムの奴隷の目を損なったかアウィールムの奴隷の骨を折ったなら、彼は彼(奴隷)の値段の半額を支払わなければならない。
§200 もしアウィールムが彼と対等のアウィールムの歯を折ったなら、彼らは彼の歯を折らなければならない。

§201 もし彼がムシュケーヌムの歯を折ったなら、彼は銀3分の1マナ(約167グラム)を支払わなければならない。
- ハンムラビ法典[54]
 
ハンムラビ法典

ハンムラビは征服事業と並行して、戦乱で荒廃した運河網を整備拡充するとともに[55]ハンムラビ法典と呼ばれる法典碑を作らせた。このハンムラビ法典は、商業、農業、犯罪、結婚、相続など、社会経済の多様な領域に対する「条文」を含んでおり、「目には目を、歯には歯を」の同害復讐原理でも名高い。この「法典」は多数のコピーが作成され広く行き渡ったが、実際には模範判例集に近いものであり、これに基づいて裁判を行ったような記録は現存していない[56][57]。しかし、ハンムラビが領内での裁判を監督し、場合によっては自ら裁定を下していたことは、現存する多数の裁判記録によって明らかとなっている[57]

ハンムラビの死後、バビロン第1王朝の王たちは反乱と外敵の侵入に対して長く対処しなくてはならなかった。次の王サムス・イルナ(在位:前1749年-前1712年)の即位から程なく、ラルサでリム・シン2世が、エシュヌンナでトゥプリアシュが反乱を起こした[58]。バビロンの年名はこれらに対する勝利を記録しているが、サムス・イルナの治世第20年に至ってもなお反乱勢力に対して「一年に八度の勝利」を記録しているように、その統治は安定しなかった[58]。更にペルシア湾岸地方ではイルマン(イルマ・イルム)という人物が自立し、その後「海の国」と呼ばれる王朝を創立した(「海の国」第1王朝、バビロン第2王朝とも)[59]。更に重要なこととして、サムス・イルナの治世中に初めてカッシュカッシート人)の軍勢への言及が見られる[59][60]。サムス・イルナの次の王、アビ・エシェフ(在位:前1711年-前1684年)は「海の国」に勝利したが、その統治を永続させることはできず、更にその治世にはマリ地方を拠点に「ハナ」王朝が創立された[59]。この王朝の王はカッシート語の名前を持っており、当時カッシート人の集団がユーフラテス川中流域に移住を進めていたことを示す[61]

アビ・エシェフの後の王たちの時代にも継続的にバビロン第1王朝の支配地域は縮小したが、この王朝の崩壊過程は時代が進むにつれ具体的な状況を把握することができなくなる[61]。弱体化していたバビロン第1王朝は最後の王サムス・ディタナ(前1625年-前1595年)の時、突如アナトリアからバビロニアへ長躯遠征を行ったヒッタイトムルシリ1世の攻撃によってバビロンを占領され滅亡した[62][61]。このヒッタイトの遠征が行われた理由についてはよくわかっていない。ヒッタイト人が残した記録にもその意図を推測できるようなものはなく、彼らがバビロニアまでも含む巨大な王国を構築していようとしたとするような説は証明されない[61]。バビロニア人もまた、非常に簡潔な記録を残すに過ぎない[63]。しかし、意図はともかく、結果だけを見ればヒッタイトによるバビロンの占領は一時的なものであり、弱体化したバビロン第1王朝にとどめを刺した事件であった[63]。その後にシュメールとアッカドの地の政治的混乱を収拾して新しい秩序を確立したのはヒッタイト人ではなく、カッシート人であった[63][64][65]

中期バビロニア時代編集

ヒッタイト人がバビロンを寇掠した後、アッシリアが帝国的な発展を遂げるまでの前1000年頃までの中間期を中バビロニア時代、または中期バビロニア時代と言う[65][66]。この時代区分はまた、メソポタミアにおける後期青銅器時代に対応するが、新バビロニアの成立(前626年)までを中バビロニア時代として扱う学者もいる[67]。この節では前者の区分に従い、アッシリアの興隆までの時期を扱う。この時代にはメソポタミア北部のアッシリアや、その周辺域にあるヒッタイトミタンニエジプトエラムが勢力を拡張し、互いに争いつつ盛衰を繰り返した[65]。これらの諸国の間に密接な関係が構築されていったことから、「国際化の時代」ともされる[65]

カッシート人の王朝編集

 
カッシート(バビロン第3王朝)の征服。

前1595年にヒッタイト人がバビロンを去った後、カッシート人がバビロニアを手中に収めるまでの過程は、史料が極度に乏しいため確実に言えることがほとんどない[65]。はっきりしているのは、前1500年頃にはカッシート人の王朝がバビロニアの中核部分を支配下に置いていた事である[68]。このことはカッシート人の王ブルナ・ブリアシュ1世英語版(在位:前1500年頃)がアッシリアのプズル・アッシュール3世(在位:前1500年頃)との間で結んだ国境確定の条約によってわかる[68][69]。ブルナ・ブリアシュ1世の2代後の王、ウラム・ブリアシュ英語版(在位:前15世紀初頭)とその甥のアグム3世英語版(在位:前15世紀初頭)は、「海の国」第1王朝(バビロン第2王朝)も滅ぼしてバビロニア全域を支配した[68]。このカッシート人の王朝がバビロン第3王朝であるが、カッシート王朝、カッシート朝、カッシュ王朝などの呼び名の方がしばしば用いられる[70]

カッシート王朝はバビロニアの王朝としては最も長く400年前後の期間バビロニアの支配権を維持することができ、その支配は前1155年まで続いた[71][68]。その間に周辺諸国との緊密な外交が繰り広げられたことが、それぞれの国で発見された外交書簡などによってわかっている。最も名高いのはエジプトのファラオアクエンアテンの王宮から発見されたいわゆるアマルナ文書で、カッシートの王女のエジプトへの輿入れや、贈答品のやりとり、カナンの地で殺害されたバビロニア商人の問題や、アッシリアとの確執などについての情報が残されている[72][73]

カッシート人は古いバビロニアの文化を継承すると共に、より古いシュメール文化をも掘り起こし、シュメール語を円筒印章に用いるなど、一種の復古主義をもたらした[74]。また、この王朝の時代には従来シュメールとアッカドの地と呼ばれた領域はカルドゥニアシュ英語版Karduniaš)と言う単一の名称で呼称されるようになった[6]。また、年ごとに個別の年名が割り当てられる記録法に代わり、王の統治年数で記録する方法に変わった(年の途中で王が死亡した場合、死亡時までは前王の統治年であり、新王の即位後は即位年(シュメール語:mu-sag-namlugal-ak, 、アッカド語:resh sharruti)と呼ばれ、翌年が新王の「統治第1年」であった[75]

時代とともにアッシリアが強大化し、カッシート朝の後半期にはバビロニア(カッシート)の王とアッシリアの王の戦いの記録が数多く見出される[73]。アッシリアの王トゥクルティ・ニヌルタ1世(在位:前1244年-前1208年)は、碑文の一つでバビロニア王カシュ・ティリアシュ4世英語版を捕らえ、裸にして連行し、バビロンの城壁を破壊したことを誇っている[75]。バビロニアは7年間にわたりアッシリアの支配を受けたが、トゥクルティ・ニヌルタ1世が暗殺されアッシリアが混乱に陥った隙にアダド・シュマ・ウツル英語版(在位:1216年-前1187年)が独立を回復した[76]。しかし、王朝の弱体化は避け難く、アッシリア人と、東方のエラム人からの相次ぐ攻撃によって崩壊へと向かった。前1157年、エラムの王シュトゥルク・ナフンテ英語版はバビロニアを制圧してバビロニア王ザババ・シュマ・イディナ英語版を廃し、自分の息子クティル・ナフンテをバビロニア王に擁立した[75]。ハンムラビ法典碑を含む戦利品もエラムに持ちさられ、カッシート最後の王エンリル・ナディン・アヒ英語版はなお3年間に渡り抵抗を続けたが、前1155年に遂に鎮圧されカッシート朝は滅亡した[75]

イシン第2王朝編集

私は偉大な主にして運命と決定の主、マルドゥクである。(私以外に)誰がこの旅をしただろうか。私が(それを)命じたのである。私はエラムへ行き、全ての神々が(そこへ)行った。(中略)(新たな)バビロンの王(ネブカドネザル1世)が現れ、すばらしい神殿エクル・サギラを修復する。彼はエクル・サギラ内に天と地の図面を描き、その高さを二倍にする。彼は我が町バビロンに対し解放令を発布する。彼は我が手を取って、〈私を〉我が町バビロンとエクル・サギラへと永遠に入れる。(中略)私ならびに全ての神は彼と和解する。彼はエラムを粉砕し、その町々を粉砕し、その要塞を取り除く。彼はデールの大王を彼のものではない玉座から立ち上がらせ、彼の(もたらした)荒廃を改め、彼の悪を…する。彼は彼の手を取って、彼をデールと(その神殿)エクル・ディムガル・カランマへと永遠に入れる。
- マルドゥクの預言[77]

バビロニアからエラム勢力を一掃したのは、イシン市でマルドゥク・カビト・アヘシュ英語版(在位:前1157年-前1140年)が新たに打ち立てた王朝であった[78]。これをイシン第2王朝、またはバビロン第4王朝と呼ぶ[78][79]。イシン第2王朝は、第2代のイッティ・マルドゥク・バラト英語版(在位:前1139年-前1132年)の時代には既にバビロンを首都として周辺地域を支配下に置いていたと見られる[76]。この王朝は短命であったが、その王ネブカドネザル1世(ナブー・クドゥリ・ウツル1世、在位:前1124年-前1103年)はエラムに侵攻し、カッシート朝滅亡時に奪い去られていたマルドゥク神像を取り戻したことで名高い[79]。彼の功績を称揚する歴史文学が後世のコピーによって知られている[78]。どの程度史実に忠実であるのかは不明であるが、この頃から神々の王としてバビロンの都市神マルドゥクの地位が高められ、次第にパンテオンの最高位に置かれるようになっていった[78]

マルドゥク・ナディン・アヘ英語版(在位:前1099年-前1082年)の時代には、アッシリアの王ティグラト・ピレセル1世との戦いに敗れ、イシン第2王朝は大いに弱体化した[78][76]。その後出自不明の王が相次ぎ、この王朝は前1026年に滅亡した[80][76]。にもかかわらず、この混乱期にはアッシリアとの友好関係が保たれた。これは西方のアラム人カルデア人の流入が両国にとって共通の脅威となっていたためと考えられる[80]

イシン第2王朝の崩壊と前後して、バビロニアでは短命の王朝がいくつも登場した。『バビロニア王名表』の記述に従えば、3人の王からなる「海の国」第2王朝(バビロン第5王朝、前1024年-前1004年)、やはり3人の王からなるバズ王朝(バビロン第6王朝、前1003年-前984年)、そして単独の王マルビティ・アプラ・ウツル英語版からなるエラム王朝(バビロン第7王朝、前983年-前978年)である[81]。この間の詳細は詳らかでない。

アッシリア帝国の時代編集

前1000年期初頭のバビロニアの歴史は『バビロニア王名表』『アッシリア・バビロニア関係史』およびアッシリアの王碑文の部分的な記述からしか復元できず、極めて断片的にしかわからない[82]。前1000年期初頭の250年余りの期間はE王朝(バビロン第8王朝、前977年-前732年)と呼ばれ、ある程度国力を回復したであろうことが、アッシリアとの国境争いの記録から読み取れる[83][82]。バビロニアとアッシリアはおよそ100年余りの間均衡していたが、前9世紀後半にはアッシリアが強大化する一方でバビロニアは混乱し、南部と東部におけるアラム人やカルデア人の諸部族の侵入を抑え込むことができなかった[82]。この王朝の末期の王、ナブー・ナツィル英語版(ナボナサル、在位:747年-734年)の治世から『バビロニア年代誌』がバビロニアの重要な政治的事件を記録し始める[82]。この王の治世のすぐ後にはアッシリアの王ティグラト・ピレセル3世がバビロニアを征服し、アッシリアによるバビロニア支配がはじまった[82]。アッシリア時代のバビロニアについては各種の膨大な史料が残されており、詳細な政治史が復元されている[82]

アッシリアの支配編集

前8世紀後半から前7世紀初頭にかけて、アッシリアは北はアナトリア半島南東部、西・南はエジプト、東はエラムに至る地域を支配する帝国を構築していった(アッシリア帝国/新アッシリア)。この時代のバビロンの王は『バビロニア王名表』にまとめられており、これをバビロン第9/第10王朝とする。[84]。バビロン第9王朝の最初の王とされているのはアラム人とみられるナブー・ムキン・ゼリ英語版(在位:前731年-前729年)であり、彼の治世前後からバビロニアにおけるアラム語使用の痕跡が確認され始める[84]。その次の王はプルとされている。これはアッシリアの王ティグラト・ピレセル3世(在位:前728年-前727年[注釈 5])を指す。ティグラト・ピレセル3世はナブー・ムキン・ゼリからバビロンの支配権を奪った経緯、そしてマルドゥク神像の手を握る儀式を行って正式にバビロニアの王として即位したことを記録に残している[84]

ティグラト・ピレセル3世がバビロニアを征服した後、アッシリアが滅亡するまでの間のほとんどの王の時代にバビロニアでは反乱が発生した。アッシリアでサルゴン2世(シャル・キン2世、在位:前721年-前705年)が即位した時、バビロニアではカルデア人部族の首長メロダク・バルアダン2世(マルドゥク・アプラ・イディナ2世、在位:前721年-前710年)がエラム王フンバニガシュの支援を受けてバビロン市を掌握し、アッシリアから自立してバビロニア王となった[85][86]。最終的に彼の反乱はサルゴン2世によって鎮圧されたが、反乱は12年余りに及び、鎮圧後もメロダク・バルアダン2世は生き残ってエラムへと逃亡し、再起の機会を待った[85][86]。アッシリアでサルゴン2世が死に、センナケリブ(シン・アヘ・エリバ、在位:前704年-前681年)が即位すると、マルドゥク・ザキル・シュミ2世英語版(在位:前703年)が再び反乱を起こし、その後にはエラムから舞い戻ったメロダク・バルアダン2世(在位:前703年)が反乱を継続した[87][86]。メロダク・バルアダン2世は最終的にキシュ平野の戦いでセンナケリブに敗れ、その後再起の機会は訪れなかった[87][86]。センナケリブは新たなバビロニア王として「宮殿で小犬のごとく」成長したベル・イブニ英語版(在位:前702年-前700年)を王に据えたが、センナケリブの期待に反してベル・イブニも反逆者となった[86]。センナケリブはこの反乱も鎮圧し、今度はバビロニア王として自身の息子アッシュール・ナディン・シュミを据えた[86]。しかし、アッシュール・ナディン・シュミはエラムの襲撃とバビロニアで発生した反乱によってエラムに連れ去られ行方不明となってしまった[86][88]。センナケリブは息子の犠牲と言う事態に再度のバビロン征服に乗り出し、前689年にバビロン市を破壊して毎年の新年祭を禁止した[86][89]

センナケリブによって破壊されたバビロンは、彼の後継者エサルハドン(アッシュール・アハ・イディナ、在位:前680年-前669年)によって再建された[88][注釈 6]。彼は即位後すぐに再建事業に取り掛かり、バビロニアへの優遇処置を矢継ぎ早に打ち出して民心の掌握に努めた[91]。これが功を奏してか、エサルハドンはアッシリア帝国時代の王としては例外的にバビロニアの反乱に相対することがなかった[91]。メソポタミアにおいて圧倒的な求心力を誇ったバビロン市を中心とするバビロニアは、アッシリアにとって格段の配慮と警戒を要する支配地域であった[92]。再建されたバビロンは、その政治的・宗教的な卓越性に加え、各種の特権を与えられ、国際商業の中枢として反映の時代を迎えた[92]。バビロニアのロスチャイルドとも呼ばれる古代の大商人エギビ家の活動も、この時代のバビロニアで開始されていた[92]

エサルハドンはその死に際し、自分の王国をアッシュールバニパル(在位:前668年-前627年)とシャマシュ・シュム・ウキン(在位:前667年-前648年)と言う二人の王子に分割して継承させることを決定した。その規定ではアッシュールバニパルがアッシリア王、シャマシュ・シュム・ウキンがバビロニア王にそれぞれ即位し、前者が優越するものとされた[93]。その後実際にこの定めの通りに王位が継承された。少なくとも前651年までは平穏が保たれた[94]。アッシュールバニパルはバビロンに建てた石碑にこの兄弟の名前を刻む配慮を示したが、アッシリア王に対するバビロニア王の従属的地位は明らかであり、このことに不満を持っていたであろうシャマシュ・シュム・ウキンは前651年にエラムなど周辺諸勢力を引き込んで反乱を起こした(兄弟戦争[95][96][97]。この反乱は3年に渡り続いたが、最後にアッシュールバニパルが勝利を収め、前648年に包囲されたバビロンでシャマシュ・シュム・ウキンは死亡した[98]。その後はカンダラヌ英語版(在位:前647年-前627年)と言うバビロニア王の称号を与えられた代官が赴任してバビロニアを統治した[98]

新バビロニア(カルデア)編集

 
新バビロニアの勢力範囲

アッシュールバニパルの没後、アッシリアの政局は混乱に陥ったらしく短期間に何人もの王が交代する事態となった[99]。王位争いは最終的にシン・シャル・イシュクン(在位:前623年-前612年)が勝利して終わったが、この混乱に乗じて「海の国」の首長とされるカルデア人ナボポラッサル(ナブー・アピル・ウツル、在位:前625年-前605年)がバビロニアの支配権を握りアッシリアの支配から離脱した[99][注釈 7]。彼が打ち立てた王朝は新バビロニア(バビロン第11王朝)、またはカルデア王国と呼ばれる。ナボポラッサルは鎮圧のために派遣されたアッシリアの軍勢をバビロニアから排除することに成功し、更に東方のメディア人と同盟を結んでアッシリア本国に攻撃をかけ、前612年にはその首都ニネヴェを陥落させることに成功した[102]。アッシリアの残党はなおハッラーンに逃れて抵抗を続けたが、前609年にはこれも終わり、全メソポタミアがバビロンの支配の下に入った[102][103][104]

ナボポラッサルは更に王太子ネブカドネザル2世(ナブー・クドゥリ・ウツル2世、在位:前604年-前562)に、アッシリア残党を支援したエジプト第26王朝)を攻撃させ、前605年にカルケミシュの戦いでエジプトを敗退させ、シリアパレスチナを支配下に置くことに成功した[105]。翌年即位したネブカドネザル2世は、旧約聖書にあるバビロン捕囚の実行者としても有名である。彼は前597年にエルサレムを占領すると、その王ヨヤキン他有力者たちをバビロンへと連行し、ゼデキヤを王位につけた[105]。更に前586年にはゼデキヤが反乱を起こしたため、これを討伐して再びエルサレムを占領し、ゼデキヤとユダの人々を連行した[105]。この結果ユダ王国は滅亡した。彼は更にフェニキアの都市ティルスや周辺の王国を攻撃して併呑し、パレスチナはバビロニアの属領となった[105][106]

ネブカドネザル2世はバビロニアにおける建築活動を熱心に行った事が大量に残された建築記念碑文や、その他の文書から知られている[107]。彼が残した建築遺構にはバビロニアを代表する建造物として名高いイシュタル門や、バベルの塔のモデルとなったともされるマルドゥク神殿エサギラジッグラト跡などが含まれ、また現在発掘調査が行われているバビロン市の遺構は大部分が彼の治世のものである[108]

最後の王ナボニドゥス(ナブー・ナイド、在位:前555年-前539年)は、祭祀に没頭し政治を顧みなかったとされる[109]。彼は月神シンの崇拝に没頭し、バビロンの南西800キロにあるアラビアのオアシス都市テイマに10年に渡って滞在するという不可解な行動をとった[109][110]。この都市はウルやハッラーンと並ぶ月神信仰の中心地であった[111]。本国の政治は王太子ベルシャザル(ベル・シャル・ウツル)に任された[112]

この頃、イラン高原ではメディアを打倒したアンシャンの王キュロス2世(クル2世、在位:前559年-前530年)が新たな世界帝国を築きつつあった。これは一般にアケメネス朝やペルシア帝国などと呼ばれる。前540年までにはエジプトを除くバビロニアの周辺諸国はアケメネス朝の支配下に落ちていた。テイマ周辺の遊牧民の族長たちもキュロス2世になびき、ナボニドゥスはテイマを放棄して本国へ帰還せざるを得なかった[113]。前539年3月にはキュロス2世はバビロニアに侵攻し、ナボニドゥスは迎撃したが国内からは離反者が相次いだ[114]。10月10日にシッパルが陥落し、アケメネス朝の軍勢は10月12日にはバビロンへ達した[115]。同日中にバビロンは無血開城し、シッパル陥落の報に接して逃亡したナボニドゥスは遊牧民に捕らわれてバビロンへ差し出された[116]。10月29日、キュロス2世は市民の歓呼の中でバビロンに入城し、バビロニアはアケメネス朝の支配下に入った[116]

アケメネス朝編集

 
アケメネス朝(ペルシア帝国)

キュロス2世はバビロニア人からの支持を維持することに腐心し、バビロニアの伝統的な王号である「世界の王」「シュメールとアッカドの王」「四方領域の王」などを採用すると同時に、マルドゥク神とナブー神と言うバビロニアの神がキュロスに王権を与えたことを宣言している[117]。また新バビロニア時代に強制移住によってバビロニアに連れてこられた人々に対し故郷への帰還を許可し、「ナボニドゥスの悪行」によって荒廃した建造物と信仰とを救い出すことを喧伝した[118]。アケメネス朝の支配下にあってもバビロニアの経済的繁栄は継続し、エギビ家のような大商人や銀行家は栄え続けた[119]。キュロス2世はバビロニアを離れる時、息子のカンビュセス2世(在位:前530年-前522年)をバビロンの総督に任命し、彼は父の死までの間平穏に統治することができた[120][121]。前530年にキュロス2世がマッサゲダイとの戦闘中に戦死した後、カンビュセス2世の即位にあたってはバビロニアを含め帝国内は平穏であり目立った反乱は発生しなかった[122]

しかし、カンビュセス2世が死ぬと僭称者とされるスメルディスガウマータ)を排除して王位に昇ったダレイオス1世(ダーラヤワウ1世、在位:前522年-前486年)は帝国全土で発生した反乱の鎮圧に追われた[123]。バビロニアもこの時反乱を起こした属州の一つであった。ダレイオス1世が残したベヒストゥン碑文の記録などから、バビロニアでは前522年10月にネブカドネザル3世英語版(ナブー・クドゥリ・ウツル3世、ニディントゥ・ベール、在位:前522年)が、そして前521年にはアルメニア人とされるネブカドネザル4世英語版(ナブー・クドゥリ・ウツル4世、アラカ、在位:前521年)が、それぞれ反乱を起こして鎮圧された[124][125][123]。バビロニアはこの反乱にもかかわらず繁栄を維持し、後継者と定められたクセルクセス1世(クシャヤールシャン1世、在位:前486年-前465年)は王の代理人としてバビロンに駐在した[126]

クセルクセス1世が即位した後、バビロニアでは再び反乱が発生した。前482年にバビロニア総督ゾビュラスは暴動の中で殺害され、ベル・シマンニとシャマシュ・エリバと言う人物が王位を主張した[127]。ペルシア軍によって反乱はたちまち制圧されたが、この代償は高くつき、バビロンの城壁、マルドゥク神殿とジッグラトは破壊され、黄金製のマルドゥク神像は融解された[127][128]。クセルクセス1世は、父の代まで用いられてきた「バビロンの王」と言う称号を拒否し、バビロニア属州(バービル)はアッシリア属州(アスラー)と合併させられた[127]

ヘレニズム時代編集

 
アレクサンドロス3世(大王)

マケドニアの王アレクサンドロス3世(大王、在位:前336年-前323年)はギリシア全土の支配権を握り、前334年春にはダーダネルス海峡を越えて東征を開始した[129]。アケメネス朝の最後の王ダレイオス3世(ダーラヤワウ3世、在位:前336年-前330年)はこれを迎え撃ったが、イッソスの戦い(前333年)とガウガメラの戦い(前331年)の敗北によってアケメネス朝は瓦解し、その遺領はアレクサンドロス3世に制圧された[130]インド北西部までを征服したアレクサンドロス3世は前323年にバビロンで病死した[131]。彼の死後、その将軍たちは後継者(ディアドコイ)であることを主張し、互いに争った[132]。バビロンでその遺領の後継を巡る会議が開かれると、主導権を握ったペルディッカスらによって帝国各地の統治分担が決定された[132]。ペルディッカスが内戦と権力闘争に敗れ暗殺されると、前321年にアンティパトロスの主導でシリアのトリパラデイソスで再度領土分割の会議が持たれ、この結果バビロニアはセレウコス1世(在位:前305年-前281年)の所領となった[132]

この会議において卓越した地位を獲得したのは主導者のアンティパトロスとアンティゴノス1世であった。前319年のアンティパトロスの死後、その後継者となったポリュペルコンはアンティゴノス1世と激しく対立し、長い戦争が繰り広げられることになった[133]。アンティゴノス1世に与したセレウコス1世を、ポリュペルコン麾下の将軍カルディアのエウメネスが攻撃し、前318年10月にバビロンが占領され、セレウコス1世の反撃は失敗した[133]。翌年にアンティゴノス1世の助力を得て北部バビロニアに戻り、前316年にアンティゴノス1世のエウメネス討伐軍に合流してこれを破る事に成功した[133][134]。旧アレクサンドロス王国の大部分を支配下に収めたアンティゴノス1世は、バビロニアを支配するセレウコス1世を疎んずるようになり、前315年にセレウコス1世はバビロニアを脱してエジプトのプトレマイオス1世の下に身を寄せた[135]。そしてプトレマイオス1世とアンティゴノス1世の戦いに乗じる形で、前311年にバビロニアに舞い戻りその支配権を奪回した[136]。後にセレウコス朝で用いられるセレウコス暦はこの年をもってセレウコス朝の統治の始まりと規定し、数世紀にわたってバビロニアを含むその領土で共通の暦法として用いられた[136]。この戦い(ディアドコイ戦争)の過程で地中海からメソポタミアに至る地域にヘレニズム王朝(アンティゴノス朝プトレマイオス朝リュシマコス朝カッサンドロス朝セレウコス朝)と呼ばれるグレコ・マケドニア系の諸王国が成立した。バビロニアの支配を盤石なものとしたセレウコス1世は、イラン高原全域を支配下に収め、東はインドとの境まで[137]、西は前301年にイプソスの戦いでアンティゴノス1世を破ってシリア・アナトリアまでを支配下に収めた[138]

バビロニアにおけるセレウコス朝時代の極めて重要な変化は、セレウコス1世が新たなバビロニアの中心として新都市、ティグリス河畔のセレウキアを建設したことであった[139]。セレウキア市の建設はセレウコス朝がバビロニアを重視していたからこそであったが[140]、商業的中心としてのバビロンの地位を脅かし、その最終的な放棄へと至る出発点となった[139]。バビロンの人口は徐々に減り始め、その建物の建材はセレウキアでの建設活動に転用された[141]。セレウコス1世の後継者アンティオコス1世(在位:前281年-前261年)はバビロンの神殿建設を続けてはいるが、前275年頃にバビロンの市民にセレウキアへ移住するように命じ、その家屋を没収した[142][143]。この時没収された土地はアンティオコス2世(在位:前261年-前247年)の時代に返還された[144]。セレウコス朝はなおバビロニアの伝統的な宗教に一定の敬意を払った。当時バビロニアでは既にアッカド語(バビロニア語)は口語としては死語となりつつあり、一部ではギリシア語が普及し、そしてより広い範囲ではアラム語が支配的な言語となっていたが、考古学的発見によって、バビロンとウルクの神殿では伝統的なアッカド語(バビロニア語)の楔形文字文書が作成され続けていることがわかっている[145]

パルティアの征服とバビロンの放棄編集

バビロニアは前141年7月、パルティア(アルサケス朝)の王ミトラダテス1世(ミフルダート1世、在位:前171年-前138年)に征服された。その後、セレウコス朝とパルティアのバビロニア争奪戦の中でバビロンの支配者は何度も入れ替わり、最終的にミトラダテス2世(ミフルダート2世、在位:前124年-前90年頃)によってパルティアのバビロニア支配が確定した[146]。この間にバビロンは大きく破壊され、多くの住民がメディアへと連れ去られた[146]

商業的中心がセレウキアと、パルティア人がその対岸に作ったクテシフォン(テースィフォーン)に移った後も、バビロンはなお宗教的中心としての役割は残していた[143]。また、パルティア時代にはいくつかの大型建造物が再建されており[143]、西暦0年代頃にはパルミュラ人商人の居留地がバビロンに建設された[146]。これがバビロン最後の繁栄となり、半世紀後にパルミュラ人たちがセレウキア・クテシフォンへと移動するとともにバビロンは孤立した都市として衰亡の一途をたどった[146]大プリニウスはマルドゥク神殿がなお瓦礫の中に立っており、活動を継続していたことを報告している[143][146]。だが最後に残った神官、学者たちも1世紀の終わりにはバビロンを離れた[143]。西暦116年にパルティア遠征を行い、バビロニアを征服したローマ皇帝トラヤヌス(在位:98年-117年)は、バビロン市の名望に惹かれ遠征の途上でこの都市を訪れたが既に廃墟となっており、アレクサンドロス3世が死去したと伝えられる部屋で犠牲を捧げバビロンを去った[146]

バビロンの終焉と共に、古代シュメール時代から連綿と受け継がれてきた楔形文字による文筆活動は完全に停止し、アッカド語(バビロニア語)も忘れ去られた。その後もバビロニアに相当する地域は中東の経済的中心の一つであったが、バビロニア文化の多くは後のペルシア文化やイスラーム文化に痕跡を残しつつ終焉を迎えた。現在知られている最後の楔形文字によるアッカド語文書は西暦74年または75年の天文記録である[147]

言語と住民編集

文字に残されたバビロニアの言語編集

 
アッシリア王エサルハドンによるバビロン再建記念文書

バビロニアはその長い歴史を通じて多数の「民族」が住み着き、多様な言語が使用されていた。しかし、筆記法を備え文字記録によって現代に残されているものは限られている。主要な言語としてまず挙げられるのは、初期王朝時代以前から使用され、楔形文字を直接生み出した系統不明の言語であるシュメール語である。シュメール語は前2千年紀の初頭、少なくともハンムラビ時代頃までには口語としては使用されなくなっていたと考えられる。しかし、学問の言語として、また祈りの言語として文語としては使用され続け、セレウコス朝時代までシュメール語による文書が残されている。バビロニアの歴史上の多くの期間において中心的な言語となったのはアッカド語である。アッカド語はアフロ・アジア語族の中の東セム語に分類される言語であり、アッシリア語バビロニア語は共にこのアッカド語の方言と分類される[148][149]。前2千年紀はアッカド語はオリエント世界の共通語として広く外交言語や商業言語としても用いられ、例えばエジプトで発見されたアマルナ文書からはアッカド語(バビロニア語)の外交書簡が発見されている[150]

同じくアフロ・アジア語族の西セム語に分類されるアラム語は前1千年紀に入ると広く普及し、アッカド語もアラム語から大きな影響を受けた[148]アラム人は、その商業活動による移住とアッシリア帝国時代の強制移住とによってオリエント世界の広範囲に居住するようになり、それに伴いアラム語が広く通じる共通語となっていった[151][152]。この影響を受けて、アッシリアとともにバビロニア人の日常言語も次第にアッカド語からアラム語へと切り替わっていった。既にアッシリア帝国時代には書記が二人一組でアッカド語とアラム語の記録を取る様子が壁画に残されており、アラム語の普及が始まっていたことがわかる[153]。前7世紀頃にはアッカド語で書かれた粘土板の外部に文書の概要をアラム語でメモ書きしたものも見られるようになり、アラム語の普及を示している[151]

アッカド語からアラム語への変化は、記録媒体の変化をも伴っていた。アッカド語が楔形文字で粘土板に筆記されたのに対し、アラム語はアラム文字(アルファベット)で羊皮紙パピルスなどに筆写された[151][153]。このためアラム語は楔形文字で筆記される言語に比べ早く書くことができ、また書写材の制限も少なかったことが普及の大きな要因であった[151]。しかし、これらは粘土板に比べて耐久性に劣ったため、アラム語で書かれた文書の多くは風化し現代に残されていない。このためにアッカド語が衰退しアラム語に切り替わっていった前1千年紀後半は、現地史料が極めて乏しくなっている。楔形文字による記録は少なくともバビロンとウルクではセレウコス朝、更にパルティア時代まで続いたが、この時代のアッカド語文書はもはや口語としてのアッカド語が死語となり、日常言語が完全にアラム語に切り替わっていたことを示している[154][注釈 8]

アレクサンドロス3世による征服の後にはギリシア語も一部に普及した。しかし、アラム語と同様に羊皮紙や粘土板やパピルスに筆記されたその文書は現代には残されていない。これらの文書が「かつて存在したこと」だけが、その文書を保管するために用いられていた封印が多数残されていることによって理解される[154]

その他の言語編集

かつてバビロニアで使用されていたであろうその他の言語は、筆記法を持たなかったためにその人名や神名のような固有名詞や極一部の単語を除き、詳細を知る術がほとんどない。前2千年紀前半にバビロニアを席巻したアムル人(アモリ人)の諸部族が話していた言語はアムル語と呼ばれているが、この言語で書かれた文書は存在しない[156]。アムル語は西セム語に分類され、アラム語やヘブライ語と密接な関わりを持っていると考えられている[156]

前16世紀以降、バビロニアを統一する王朝を作り上げたカッシート人たちの言語(カッシート語)もバビロニアで使用されていたはずであるが、情報源はアッカド語文中に登場する僅かな数の固有名詞と単語に限られるため、どのような言語系統に属するのか明らかではない[157]。かつてはインド・ヨーロッパ語の一つとされたこともあるが、現在では支持されていない[66]

歴代君主編集

バビロン第1王朝(古バビロニア)編集

  1. スムアブム(前1894年 - 前1881年)
  2. スムラエル英語版(前1880年 - 前1845年)
  3. サビウム英語版(前1844年 - 前1831年)
  4. アピル・シン英語版(前1830年 - 前1813年)
  5. シン・ムバリト英語版(前1812年 - 前1793年)
  6. ハンムラビ(前1792年 - 前1750年)
  7. サムス・イルナ(前1749年 - 前1712年)
  8. アビ・エシュフ(前1711年 - 前1684年)
  9. アンミ・ディタナ英語版(前1683年 - 前1647年)
  10. アンミ・サドゥカ英語版(前1646年 - 前1626年)
  11. サムス・ディタナ英語版(前1625年 - 前1595年)

「海の国」第1王朝(バビロン第2王朝)編集

  • イルマ・イルム(イルマ,前1732年頃? - ?,60年)
  • イティ・イリ・ニビ(イティリ,56年)
  • ダミク・イリシュ(ダミク・イリ,36年)
  • イシュキバル(15年)
  • シュシュシ(24年)
  • グルキシャル(55年)
  • DIŠ-U-EN (不明)
  • ペシュガルダラマシュ (50年)
  • アダラカランマ (28年)
  • エクルドゥアンナ (26年)
  • メラムクルクッカ (7年)
  • エアガムイル (9年)

初期カッシート王朝(バビロン第3王朝)編集

  • ガンダシュ
  • アグム1世
  • カシュティリアシュ1世
  • ウシュシ
  • アビラッタシュ
  • カシュティリアシュ2世
  • ウルジグルマシュ
  • ハルバシフ
  • ティプタクジ

カッシート王朝(バビロン第3王朝)編集

中アッシリア帝国トゥクルティ・ニヌルタ1世による支配:前1235年 - 前1227年)

イシン第2王朝(バビロン第4王朝)編集

「海の国」第2王朝(バビロン第5王朝)編集

バズ王朝(バビロン第6王朝)編集

エラム王朝(バビロン第7王朝)編集

バビロンE王朝(バビロン第8王朝 / バビロン第9王朝)編集

バビロン第10王朝編集

新バビロニア(バビロン第11王朝、カルデア)編集

脚注編集

注釈編集

  1. ^ 古代メソポタミア史を研究する前田徹は、このような都市国家を中近世のドイツ史における領邦国家(Territorialstaat)の概念を参考に領邦都市国家と命名している[20]
  2. ^ 『シュメール王朝表』と呼ばれるテキスト群は、伝統的には『シュメール王名表』と呼ばれており、こちらの名前で広く知られている。日本においてメソポタミア史研究の先駆者であった中原与茂九郎は、「諸都市王朝による継起的な南部メソポタミア支配がこれらのテキストの基本主題であることに正しく着目してこれらを『シュメール王朝表』と呼んだ」(前川和也)[23]
  3. ^ バビロン第1王朝の初代王は、『バビロン王名表』の記述に基づき「スム・アブム」とするのが通例である。しかし、初代スム・アブムと2代目スム・ラ・エルの間の血縁関係が付記されていないことや、後代のバビロン第1王朝の王たちが先祖に言及する際にスム・ラ・エルには言及するのに対し、スム・アブムに言及しないことなどから、このことは古くから疑問視されている。近年では、スム・アブムはバビロンの王と言うわけではなく、バビロニア北部の広範囲に宗主権を及ぼした人物であり、バビロンもその宗主権の下にあったものと考えられている。そして王名表編纂時にバビロン第1王朝の王として取り込まれたものとされる[44]
  4. ^ 当時バビロニアには、大きく分けてアウィールム、ムシュケーヌム、奴隷という三つの社会階層があったことが知られる。しかし奴隷以外の前二者がいかなる性質のものであるのか定説は無い。ハンムラビ法典ではアウィールム同士の傷害に対して同害復讐原理が適用されるのに対し、アウィールムからムシュケーヌム、ムシュケーヌムからムシュケーヌムへの傷害は金銭賠償とされており、奴隷からアウィールムへの傷害は、加えた傷害よりも重い罰を与えられた。
  5. ^ バビロニア王としての在位期間。
  6. ^ センナケリブによるバビロンの破壊とエサルハドンによる再建は、彼ら自身が王碑文においてそのように語っていることからアッシリア史、バビロニア史において一般に史実として言及され強調される。しかし、センナケリブによる破壊は徹底したものではなく、バビロニアへの融和政策というエサルハドンの政策は、センナケリブ時代から始まっていたものを継続したものであるとする見解もある[90]
  7. ^ ナボポラッサルの出自についてはメロダク・バルアダン2世などと同一の家系に属するとする考えや[100]、「海の国」で最も有力なカルデア人の部族「ビート・ヤキン」の出自とする説などが出されている。しかし、実際にナボポラッサルがカルデア人であるとする明確な同時代史料もなく、確実なものではない。山田重郎は彼が「誰でもない者の子」であったにもかかわらず、マルドゥク神が王命を授けてくれたと記す建築記念碑分の存在から、直接バビロニア王の家系に連なる出自ではなかったとしている[101]
  8. ^ 大戸千之はヘレニズム時代のウルクにおける粘土板文書について以下のように述べる。「ヘレニズム期ウルクの粘土板文書についてみるならば、アッカド語に通じた書記の手になるものとは考えがたいところがある。つまり、書きまちがいが少なくないということだ。それは格変化を誤ったり、性をとりちがえたりするというにとどまらず、複数人称の動詞語尾をつけるのに名詞のそれとまちがったりするほどのものであるという。(中略)当時日常の言語は、くりかえしいうようにアラム語であったと考えられる。粘土板契約文書の中には、一部にアラム語が数語、ぞんざいに書き込まれている例がある。これはいうまでもなく当事者のメモであって、楔形文字で書くということは、やはり特別のことなのだ、と感じさせる[155]。」

出典編集

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参考文献編集

原典史料編集

二次資料(書籍)編集

二次資料(洋書)編集

  • ピーター・クリステンセン(Peter Christensen) スティーヴン・サンプソン(Steven Sampson)訳 (2016-4). The Decline of Iranshahr: Irrigation and Environment in the Middle East, 500 BC-AD 1500. Tauris Academic Studies. ISBN 978-1-78453-318-2. (ペーパーバック版。原著:1993年、)

二次資料(Web)編集

コトバンク アッカド語”. 2018年5月6日閲覧。

関連項目編集

外部リンク編集