ジュール・デュフォール

ジュール・アルマン・スタニスラス・デュフォールフランス語: Jules Armand Stanislas Dufaure1798年12月4日1881年6月28日)は、フランスの政治家、弁護士。七月王政期に公共事業大臣英語版を、第二共和政期に内務大臣を、第三共和政期に司法大臣首相を務めた。

アントワーヌ・サミュエル・アダム=サロモン英語版による肖像写真。

略歴 編集

1798年12月4日、シャラント=マリティーム県ソージョン英語版で生まれた[1]ボルドーで弁護士になり、その弁舌で名声を得たのち、法曹界から政界に転じ、1834年に代議院議員に選出された[1]

1839年にスールト内閣の公共事業大臣英語版に就任し、フランスの鉄道建設を推進したが、1840年に解任された[1]。解任後は野党に転じ、1848年のフランス革命で共和制を支持して穏健共和派になった[1]。同年10月13日にカヴェニャック内閣の内務大臣に就任したが、12月の大統領選挙でカヴェニャックが敗北すると一時引退し、第二帝政期には政界とかかわらずパリで弁護士業に勤しんだ[1]。1862年に弁護士会会長英語版に選出され、1863年にはアカデミー・フランセーズ会員に選出された[1]

1871年に国民議会英語版議員に選出され、議会でアドルフ・ティエールを実質的な大統領に推挙した[1]。そして、デュフォールは中道左派の党首として司法大臣に就任、裁判員法を可決させた[1]。1873年にティエールとともにいったん失脚したものの、1875年のビュフェ内閣で再び司法大臣になり、さらに1876年3月9日には閣僚評議会議長(首相)に就任した[1]。同年に終身上院議員英語版に選出されたが、代議院では共和左派、元老院では王党派からの攻撃に晒され、12月12日に辞任した[1]

1877年5月16日危機英語版を経て王党派の勢力が弱まると、1877年12月24日に復帰した[1]。1879年1月に王党派の大統領パトリス・ド・マクマオンに迫って辞任させたが、直後(2月1日)に自身も野党の攻撃に疲れて辞任した[1]

1881年6月28日、リュエイユで死去した[2]

出典 編集

  1. ^ a b c d e f g h i j k l Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Dufaure, Jules Armand Stanislas" . Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 8 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 643.
  2. ^ "デュフォール". ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典. コトバンクより2024年3月10日閲覧
公職
先代
アドリアン・ド・ガスパラン英語版
公共事業大臣英語版
1839年 – 1840年
次代
イポリット・フランソワ・ジョベール英語版
先代
アドリアン・ルクール英語版
内務大臣
1848年
次代
レオン・ド・マルヴィル英語版
先代
ルイ=ジュール・トロシュ
閣僚評議会議長
1871年 – 1873年
次代
アルベール・ド・ブロイ
先代
アドルフ・クレミュー
司法大臣
1871年 – 1873年
次代
ジャン・エルヌールフランス語版
先代
アドリアン・テランフランス語版
司法大臣
1875年 – 1876年
次代
ルイ・マルテルフランス語版
先代
ルイ・ビュフェ
閣僚評議会議長
1876年
次代
ジュール・シモン
先代
ガエタン・ド・ロシュブエ
閣僚評議会議長
1877年 – 1879年
次代
ウィリアム・ワディントン
先代
フランソワ・ルペルティエフランス語版
司法大臣
1877年 – 1879年
次代
フィリップ・ル・ロワイエ英語版
学職
先代
エティエンヌ・ドニ・パスキエ
アカデミー・フランセーズ
席次3

第10代:1863年 – 1881年
次代
ヴィクトール・シェルビュリエ