スペンサー銃(スペンサーじゅう)、スペンサー連発銃(スペンサーれんぱつじゅう、英:Spencer repeating rifle)は、管状弾倉装填式のレバーアクションライフルである。

スペンサー連発銃
1865 スペンサーライフル
スペンサー連発銃
種類 レバーアクションライフル
製造国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
設計・製造 クリストファー・スペンサー
スペンサー・リピーティング・ライフル社
バーンサイド・ライフル社
ウィンチェスター社
年代 19世紀中ごろ
仕様
口径 14mm
銃身長 30インチ(1200mmモデル)
22インチ(997mmカービンモデル)
使用弾薬 .56-56 スペンサー
装弾数 7発
作動方式 手動コック式ハンマー、レバーアクション
全長 1200mm(47インチ)
997mm(39.25インチ)
発射速度 14~20発/分
銃口初速 284~315m/秒
有効射程 200ヤード
歴史 
設計年 1860年
製造期間 1860年~1869年
配備先 アメリカ陸軍アメリカ海軍
南部連邦
幕府歩兵隊
関連戦争・紛争 南北戦争
インディアン戦争
戊辰戦争
製造数 約20万丁
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南北戦争中の北軍、特に騎兵隊に採用された。しかし当時の標準装備である前装式ライフルマスケットを置き換えることはなかった。

スペンサー騎兵銃(スペンサーきへいじゅう、Spencer carbine)は騎兵向けに短銃身化されたカービン

概要 編集

設計は、1860年にクリストファー・スペンサーによって完成した。スペンサー銃は、銃弾として.56-56スペンサーリムファイアカートリッジを使用する設計のレバーアクション式連発ライフルであった。

構造 編集

スペンサー銃を使用するにあたっては、まずスプリングフィールドM1873トラップドアのように撃鉄を手動でハーフコックの位置にし、レバーを起こして使用済みの薬莢を排出、レバーを倒して管状弾倉から新しいカートリッジを薬室へ送って遊底を閉鎖する。射撃の直前に撃鉄をフルコック位置に起こす必要があるため、ヘンリーライフルのように一挙動で脱包・装填の動作を行うことはできなかった。

スペンサー銃は弾を次々と発射できるように、銃床内に管状弾倉を内蔵し、リムファイアカートリッジ7発を装填して使用した。空になったときには、銃床の床尾側から弾薬送り用のばねチューブを抜き取り、弾倉の中へ新しいカートリッジを一つずつ落とし込むか、または、ブレイクスリーカートリッジボックス(Blakeslee cartridge box)と呼ばれる弾薬盒を用いて素早く装填することができた。ブレイクスリーカートリッジボックスには各7発入りの装填用チューブが複数本入っていた。チューブ6本入りと10本入りと13本入りがあった。開いた管状弾倉に装填用チューブをあてがうことにより、弾薬を一挙に流し込むことが可能であった。

銃弾 編集

スペンサー銃のオリジナルの銃弾(カートリッジ)は、本銃用に開発された.56-56スペンサー弾であった。後世の弾薬の表し方と異なり、56-56の最初の56は薬莢後部(リムの直前部分)の直径、2番目の56が薬莢前部の直径を表す。実際の弾丸直径は0.52インチだった。カートリッジには45グレイン(2.9g)の黒色火薬が充填されていた。

カートリッジには.56-52、.56-50もあり、.56-46のバージョンさえ少数が作られた。それらはオリジナルの56-56よりも口径を小さくしたネックダウンバージョンであった。カートリッジの長さは、管状弾倉と機関部の制約のため、約1.75インチに制限された。

時間が経つと、オリジナルの.56-56以上に威力と射程を増すために、より小さい直径、より軽い弾丸、より多い装薬量が求められ、そうしたカートリッジが作られた。それらは当時の口径0.58インチのライフルマスケットとおおよそ同じくらい強力であったが、.45-70.50-70ガバメント弾のような他の初期の実包の規格と比べて威力不足だった。

歴史 編集

当初、陸軍省は保守的で、スペンサー連発銃の軍への導入を遅らせた。しかしクリストファー・スペンサーは、結局、エイブラハム・リンカーン大統領に謁見することができた。彼は射撃競技会と兵器の展示会に大統領を招待してスペンサー銃の性能を大統領に見せた。リンカーンはスペンサー銃に感銘を受け、それを採用し製造するよう命じた。

スペンサー連発銃は、最初にアメリカ海軍、次にアメリカ陸軍によって採用され、南北戦争で使用された。アメリカ連合国は時折この銃とカートリッジを鹵獲したが、薬莢の原料となる銅の不足と、信頼性のあるカートリッジを製造するだけの工業力がなかったため、弾が不足して十分にスペンサー銃を活用することができなかった。

注目に値する早期の使用例はフーヴァーズギャップの戦闘(ジョン・T・ワイルダー大佐の「稲妻旅団」が連発銃の火力を効果的に示した場所)と、ゲティスバーグの戦いジョージ・アームストロング・カスター准将麾下のミシガン旅団の2個連隊が、ハノーヴァーの戦闘と、東の騎兵の戦場において、スペンサー銃を運用した場所)である。

戦争が進むにつれて、スペンサー銃は、多くの北軍騎兵と騎乗歩兵連隊によって運用され、火力が増強されるにしたがって北軍に供給された。

 
スペンサー騎兵銃 M1865 .50口径

スペンサー銃は、持続可能な毎分20発以上の発射速度とともに、戦闘という状況下で非常に信頼できることを示した。毎分2-3発の発射速度の標準的な前装銃と比べて、これは重要な戦術的な利点だった。しかし高い発射速度の利点を活かす効果的な戦術はまだ開発されていなかった。

また、当時の軍隊では、マスケット銃時代のように鉛の塊と黒色火薬の補給を受けて各自がカートリッジを作る前提で補給が考えられており、銃・銃弾の統一が図られていなかった(南北軍の兵士は私物の銃を使っている者も多かった)。そのため、予備弾薬を運ぶための補給及び輜重サプライチェーン)の機能が極めて不十分であった。

1860年代後半に、スペンサー社はフォーガティライフル社に、そして最終的にウィンチェスター社に売却された。生産終了までに、およそ20万挺のスペンサー歩兵銃、スペンサー騎兵銃が製造された。いくつかの国では、初めて採用された弾倉装填式銃であった。後に多くのスペンサー銃が余剰品としてフランスに販売され、1870年普仏戦争で使用された。

スペンサー社が1869年に倒産したという事実にもかかわらず、弾薬は1920年代頃まで米国内で販売されていた。後に多くのスペンサー銃がリムファイア方式からセンターファイア方式に改造されて、真鍮製.50-70センターファイアカートリッジを撃てるようになった。この弾は現在も一部の専門店で取り扱いがある。

日本のスペンサー銃 編集

南北戦争後、アメリカで余剰となったスペンサー銃、スペンサー騎兵銃が、幕末の日本に輸入された。当時の日本では英語の「スペンサー・カービン」よりも、蘭語読みの「スペンセル・カーバイン」と呼称される方が多い[1]総督府の発注で慶応4年(1868年)に大村益次郎が横浜で入手した際の価格は一挺37ドル80セントと記録されており、当時の官軍主力銃であったスナイドル銃の価格(一挺9ドル30セント)に比べると四倍近くも高価であった[2]

幕府歩兵隊(後の大鳥圭介配下含む)と主に佐賀藩黒羽藩が購入して装備し、戊辰戦争で使用したが、高価さに加えて専用弾薬の入手難易度が高い(内製化されておらず、全て輸入に頼っていた)ため、弾薬補給の観点から他の輸入銃に比べて数は多くはない。この他に、郡上藩凌霜隊(同藩の佐幕派から成る諸隊の一つ)も装備していたとみられ、少数とはいえ討幕・佐幕双方で使用していたといわれる。

会津藩士の山本覚馬は長崎でスペンサー騎兵銃を購入し、会津に居た妹の八重に送った。彼女が戊辰戦争会津若松城籠城戦で城に入り、この銃で奮戦したエピソードが知られている。当時薩摩軍で分隊長だった大山厳に狙撃で重傷を負わせたのも八重だったと言われる[要出典]。『八重の桜』で八重を演じた綾瀬はるかは、戦闘のシーンで、実物と同じおよそ5キログラムある戸井田工業ステージガン[3]を抱えて走り回る必要上、腕立て伏せをして腕力を鍛え撮影に臨んだという[要出典]

西南戦争後の1878年当時、近衛砲兵大隊ではスペンサー銃が主力小銃となっていたが、銃剣装備が不可能であったため同年の竹橋事件ではスナイドル銃のほうが良いと言われたという。[4]

脚注・出典 編集

  1. ^ 当時の記録にも、「会津の弓矢兵はスペンセルとスナイドルの官軍に敵するもあたわず」との記述がある。小林良夫・関野邦夫共著『ピストルと銃の図鑑』池田書店、昭和47年初版、243頁。
  2. ^ 小林良夫・関野邦夫共著『ピストルと銃の図鑑』池田書店、昭和47年初版、242頁。
  3. ^ プロップガン製作・レンタル/製作実績 - 有限会社 戸井田工業
  4. ^ 澤地久枝 (2008/9/17). 火はわが胸中にあり. 岩波書店. p. 51 

関連項目 編集