チャランモンゴル語: Čalan、生没年不詳)は、13世紀前半にモンゴル帝国に仕えたスルドス部出身の千人隊長の一人。

「孫都思氏世勲之碑」などの漢文史料では察剌(chálà)と記される。

概要編集

チャランの一族は「四駿四狗」と讃えられた建国の功臣、 チラウンの子孫であるが、『元史』や『集史』に言及がなく「遜都台公墓誌銘」にのみその事跡が記されている。

「遜都台公墓誌銘」によると、チラウンの息子のナドルはビチクチ(書記官)としてチンギス・カンに仕え、金朝との戦いで功績があったという。その後は西夏遠征にも従軍し、この頃亡くなった[1]

ナドルの跡を継いだのが息子のチャランで、チャランはチンギス・カンの中央アジア遠征に従軍して業里城のダルガチに任じられていた。ジャランはその後第2代皇帝オゴデイに仕え、金朝の平定に功績を挙げて隨州軍民ダルガチに任じられた。それ以後のチャランの事蹟については知られていない[2]

子孫編集

チャランの死後は息子のウクナが跡を継ぎ、父の地位を継承して随州ダルガチとなったが、随州は交通の便が悪いことを理由に南陽府の昆陽に拠点を構えた。1276年(至元13年)には南宋侵攻に従軍し、管軍万戸として軍を率い長江をわたった。 後に湖広等処行枢密院判官に任じられ、ついで江西湖東道粛政廉訪使とされた[3]

ウクナの息子のトク・テムルはモンゴルの南宋平定時に非業の死を遂げた者を祀る祠を建てるなど、現地の漢人に寄り添った統治を行ったため、広く敬われたという。トク・テムルとその一族の事蹟を讃えて刻まれたのが「遜都台公墓誌銘」であり、ナドルの一族の事蹟を伝える唯一の史料として重要視されている。

スルドス部ソルカン・シラ家編集

脚注編集

  1. ^ 『金華黄先生文集』巻35遜都台公墓誌銘,「公諱脱帖穆耳字可与、系出蒙古遜都台氏。其先有事太祖皇帝為開国元勲者、曰赤老温、名在国史、公高祖也。曾祖納図児、御位下必闍赤。継領衛兵取遼破金屡策携功。後攻西夏、而没於王事」
  2. ^ 『金華黄先生文集』巻35遜都台公墓誌銘,「祖察剌、従上親征西域、以功為業里城子逹魯花赤。又従太宗皇帝於潜邸、経略中原立功尤多。太宗即位、錫金符、改授随州軍民逹魯花赤」
  3. ^ 『金華黄先生文集』巻35遜都台公墓誌銘,「父忽訥、襲前職。以随州孤絶、蒞治南陽府之昆陽。愛隣境郟県風土淳美因家焉。至元十三年、世祖皇帝命相臣総兵伐宋、公以管軍万戸実預在行渡江。後加金虎符、為湖広等処行枢密院判官。南土既平、兵寝不用累持憲節終於江西湖東道粛政廉訪使。以長子式列烏台貴贈江東建康道粛政廉訪使」

参考文献編集

  • 村上正二訳注『モンゴル秘史 2巻』平凡社、1972年
  • 新元史』巻121列伝18
  • 蒙兀児史記』巻38列伝10