ディオドトス1世
ディオドトス1世ソテル(ギリシャ語:Διόδοτος Α' ὁ Σωτήρ)は、初代グレコ・バクトリア王国の国王。初めはセレウコス朝の総督(サトラップ)であったが、のちに叛いてグレコ・バクトリア王国の創始者となった。彼の事績はローマの歴史家ポンペイウス・トログス(紀元前1世紀頃)が記した『ピリッポス史』をユニアヌス・ユスティヌス(3世紀頃)が抄録したもの、すなわち『地中海世界史』(日本語題)によって知ることができる。この中でのディオドトスはテオドトス(Theodotus)と表記されている。
ディオドトス1世 Διόδοτος Α' | |
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バクトリア王 | |
![]() バクトリア王ディオドトスの金貨。紀元前250年頃。 | |
在位 | 紀元前239/8年 - 紀元前234年 |
死去 |
紀元前234年 |
子女 | ディオドトス2世 |
王朝 | ディオドトス朝 |
生涯 編集
独立と繁栄 編集
初め、ディオドトスはセレウコス朝のアンティオコス2世(在位:紀元前261年 - 紀元前246年)のもと、バクトリア・ソグディアナのサトラップ(総督)を任されていた。しかしアンティオコス2世が死去すると、その2人の息子の間で王位継承争いが起き、各地でセレウコス朝からの離反が始まった。
「 | セレウコスとアンティオコスの兄弟が王権を奪い合って離反者を放っておいたため、「千の都市」(バクトリア)の総督であったテオドトスもこれに乗じて離反し、領民に対して自分を王と呼ぶように命じた。これによって全オリエントの諸民族がマケドニアから離反することとなった。 <ポンペイウス・トログス『ピリッポス史』> |
」 |
また、古代ローマのストラボンはディオドトスの独立後とその後の繁栄の様子を次のように記している。
「 | バクトリアを離反させたギリシャ人はその肥沃な国土をもって大いに勢力を伸ばし、アリアネ[1]地方とインド族を支配するまでとなった、ということはアルテミタのアポロドロス (Apollodorus of Artemita)[2]が述べているところで、征服した部族の数はアレクサンドロスの時を越えた。<ストラボン『地理誌』> | 」 |
アルサケスとの抗争 編集
遊牧の民ダーハ族の首長であったアルシャク(ギリシア語ではアルサケス)はパルティアへ侵入すると、そこで王と称していた前パルティア総督アンドラゴラスを滅ぼしてパルティア王国の創始者となった(アルサケス1世)。パルティアを乗っ取ったアルサケス1世はその後まもなくヒュルカニア王国も占領し、セレウコス朝、グレコ・バクトラ王国と対峙した。
しかし、間もなくディオドトス1世が亡くなったため、アルサケス1世はその息子のディオドトス2世と同盟および講和を結んだ。
脚注 編集
参考資料 編集
- ポンペイウス・トログス / ユスティヌス抄録『地中海世界史』合阪學 訳、京都大学学術出版会〈西洋古典叢書〉、1998年、ISBN 4876981078
- ストラボン『ギリシア・ローマ世界地誌Ⅱ』飯尾都人訳、龍溪書舎、1994年、ISBN 4844783777
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