メインメニューを開く

デリーの戦い(デリーのたたかい、英語:Battle of Delhi)は、1737年3月28日インドデリーにおいて、ムガル帝国マラーター王国の軍勢との間で行われた戦い 。ここでは軍事的な才能に長けたバージー・ラーオが勝利をつかんだ。

デリーの戦い
Battle of Delhi
1737年3月28日
場所インドデリー
結果 マラーター王国の勝利
衝突した勢力
Flag of the Maratha Empire.svgマラーター王国 Flag of the Mughal Empire (triangular).svgムガル帝国
指揮官
Flag of the Maratha Empire.svgバージー・ラーオ Flag of the Mughal Empire (triangular).svgアミール・ハーン
Flag of the Mughal Empire (triangular).svgムイーヌル・ムルク
戦力
85,000人 250,000人

目次

戦闘に至る経緯編集

1730年代、マラーター王国宰相バージー・ラーオは長期にわたる遠征を行い、ムガル帝国マールワーといった中央インドなどに侵入していた[1]

1737年3月、バージー・ラーオはそこからさらに北上し、ムガル帝国の首都デリーに向けて進撃した[2]。ムガル帝国は諸国に援軍を要請したが間に合わず、単独での戦闘を強いられることとなった。

戦闘とその後の経過編集

こうして、3月28日に帝国軍とマラーター王国軍がデリー近郊で激突した。帝国軍は単独であったものの、それでもアミール・ハーンなどを主将に25万の軍勢を集めていた。

だが、バージー・ラーオの軍事的才能がここで遺憾なく発揮され、それは帝国軍を大いに打ち破った[3]アウラングゼーブの死後ちょうど30年目のこの出来事は、ムガル帝国の衰退とマラーターの台頭を象徴していた。

帝都デリーを守る軍勢が敗北したことで、マラーターはその近郊で略奪を開始した。ミール・ハサン・コーカという武将の一人が8000の兵でバージー・ラーオを討とうとしたが、これは壊滅的な打撃をうけ、ハサン・コーカも逆に負傷した[3]

デリーの市中は攻め入られる危機にさらされ、皇帝はデリー城に閉じこもっていたが、辛くも難を逃れることが出来た[3]。 帝国が要請していたニザーム王国など諸国の軍勢が集結しつつあるという報がバージー・ラーオのもとにもたらされたからある。このため、3月31日にバージー・ラーオは諸国の軍勢を迎え撃つため、すぐさま踵を返す形でデリーを離れた[3]

同年12月24日、バージー・ラーオ率いるマラーター王国軍はボーパールの地で連合軍を破り(ボーパールの戦い)、1738年1月7日ボーパール条約を締結し 、マールワーを割譲させた[1][3]

脚注編集

  1. ^ a b 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.215
  2. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.214
  3. ^ a b c d e Maratha Chronicles Peshwas (Part 2) Glory of the Peshwas

参考文献編集

関連項目編集