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本来の表記は「鄧石如」です。この記事に付けられた題名は技術的な制限または記事名の制約により不正確なものとなっています。
鄧石如 木版画肖像
篆書による『荀子』(1796年以前)

鄧石如(とう せきじょ、男性、1743年 - 1805年)は、中国清朝中後期の最も傑出した書家篆刻家である。書家としてはに新しい境地を開き、碑学派の開祖とされた。また篆刻でも復古主義の旧習を打破し鄧派(新徽派・後徽派)の開祖となる。

を琰といったが、嘉慶帝である顒琰を避けての石如を名とし、字は頑伯とした。は古浣子、完白山人安徽懐寧県集賢関(現在の安慶市宜秀区大観区の境界付近)の人。

目次

略伝編集

父の鄧一枝は博学で書や篆刻をよくし、石如は幼少より篆刻を学んだ。しかし、家は貧しく科挙の学習に専念できず、餅や薪を売り歩いて家計の足しとした。やがて刻した印を各地に売り歩く放浪の生活が始まる。32歳頃に梁巘に才能を見いだされ、江寧の名家梅鏐に紹介される。梅家には金石・拓本が大量に所蔵されており、石如は30歳から8年間、ときに寄食してひたすら碑文の臨書に明け暮れた。最初の5年間は篆書に、次の3年間は隷書に専心したという。しかし梅家の家力が衰えたので石如は元の売書・売印生活に戻ることになった。歙県にて程瑶田と知りあい、儒学者金榜に紹介される。またこの頃に著名な学者張恵言と知遇を得ている。金榜のところに一年間、揮毫しながら寓居し、金榜の推薦を得て高級官僚の曹文植に会い、その才能を見いだされる。曹の要請で石如は北京に赴き、そこで劉文清陸錫熊らの名士とまみえ、その書は大絶賛される。しかし、内閣学士にして文壇の大御所である翁方綱のところに寄りつかなかったので翁が激怒しこれに付和雷同するものが現れる。これは性格が清らかすぎて世俗にまみれることができず人付き合いが下手だったからとされる。加えて劉文清が失脚し、陸錫熊が急死すると北京に居られなくなった。再び曹文植の紹介で両湖総督の畢沅に招かれ幕客(私設秘書)となり、3年間寄寓した。しかし、ここでも銭坫孫星衍などの文人たちと折り合いが悪く、51歳にして職を辞して放浪生活に戻った。石如が書家として一躍名を成したのは書論家包世臣との出会いが大きい。石如60歳のとき、鎮江にて28歳の包世臣と出会う。包世臣は石如の書に感激し、わずかの期間しか師事することができなかったが、生涯に亙り師と仰ぎ敬愛した。石如没後、「完白山人伝」を著し、さらに没後19年目に「国朝書品」を著し清代の書家の格付けを行い、石如の書を清朝第一と絶賛した。石如は当時あまり知られていなかったがこれにより一躍有名となった。この後にも康有為が石如を敬愛し、その著書の中で碑学派の開祖とした。

石如は生涯3度の結婚をしている。最初は18歳で同じ村の潘氏を妻としたがすぐに死別、次の妻は塩城の沈氏で二人の子を授かった。3度目は懐寧の程氏を娶った。沈氏との子である鄧伝密は父の衣鉢を継ぎ書に巧みであった。

その芸術と業績編集

石如の出現で清代の篆書・隷書が一変したといっても過言ではない。当時、顧炎武『金石文字記』・銭大昕『潜研堂金石文跋尾』などが流布し、小篆古文を書くことが風潮になっていたが力強さに欠けて先人の李斯李陽冰とはまるでかけ離れていた。こうした閉塞感の中、石如は独自の筆法を編み出し秦篆や漢隷の格調高さを呼び戻すことに成功した。またこの隷書の筆法で篆書する書法は、後世に大きな便宜を与えた。このような石如の活躍を背景に、阮元による『南北書派論』は法帖を拠り所とする帖学派に一撃を加え、碑学派を伸張させた。

篆刻ははじめ、何震梁袠に師法したが、篆書の自由闊達な躍動を篆刻に活かし独自の印法を確立し鄧派を興した。この一派には孫弟子で鄧派を命名した呉熙載、その後に徐三庚趙之謙黄士陵など大家が連なった。篆刻芸術は数百年にわたって漢印と繆篆を基礎とする復古主義を貫いてきたが、石如によって初めてこの枠組みを打破することに成功した。これは篆刻芸術における石如の最も特筆すべき功績である。

印譜編集

石如の作品はわずかしか伝存せず、原鈐の印譜も少ない。道光26年(1846年)の陳以和と石如の子の鄧伝密による『完白山人篆刻偶存』が最初の原鈐本であるがわずか17方が見られるのみである。その他の原鈐印譜のうち『鄧石如印存』は遺失してしまい、『鄧印存真』は最上の印譜として伝存している。西泠印社の『完白山人印譜』(1916年)は印刷によるものである。翻刻本王爾度『倣古梅閣完白山人印賸』・張魯庵『魯庵倣完白山人印譜』などがある。

関連項目編集

出典編集