金 榜(きん ぼう、1735年 - 1801年)は、中国代の学者。字は蕊中または輔之、檠斎と号す。徽州府歙県の出身。

生涯 編集

若い時から科挙のためだけの学問をすることを潔しとせず、江永戴震を師と仰ぎ古文辞の研究を進める。乾隆31年(1766年)に挙人となり内閣中書に抜擢される。乾隆37年(1772年)に状元となり、翰林院修撰に任命された。彼が科挙の試験を首席で突破した時の答案は、文京区にある東洋文庫ミュージアムに現物が展示されている。晩年には隠居して研究生活をおくる。彼の学問の系統は、同門の程瑤田と同じく段玉裁王念孫の流れをくみ、「礼」「小学」の個別的追求に傾き、皖派(徽派)と呼ばれることがある。狭いテーマを深く考究するタイプの学者であり、主著の『礼箋』は「礼」についての関連資料を余すところなく収集したもので、程瑤田の『通芸録』とともに最もよいと評される[1]

著書 編集

  • 『礼箋』3巻(乾隆59年刊行)
  • 『周易攷占』

参考文献 編集

  • 内藤湖南『清朝史通論』(1944年、弘文堂書房)
  • 梁啓超『清代学術概論』(1974年、平凡社・東洋文庫)

脚注 編集

  1. ^ 梁啓超『清代学術概論』平凡社(東洋文庫225)、1974年、149-150頁。