トルチヤンモンゴル語: Torčiyan、? - 1308年)とは、13世紀後半から14世紀初頭にかけて大元ウルスに仕えたフーシン部出身の領侯。四駿と讃えられたチンギス・カンの最側近、ボロクル・ノヤンの子孫。

オルジェイトゥ・カアン(成宗テムル)の治世まではワイドゥ(Waidu)と名のっていたが、クルク・カアン(武宗カイシャン)の治世には「トルチヤン」という名を賜り、更にブヤント・カアン(仁宗アユルバルワダ)の治世には「アスカン(Asqan)」と名のっているため、時期によって3つの名前を使い分けた人物である。

概要編集

ワイドゥは大元ウルスの元老のオチチェルと宗王オッチギンの孫娘の抹開公主[1]との間に生まれ、6歳の時にココジン・カトン裕宗皇后)の命によってカイシャン(後の武宗クルク・カアン)に仕えるようになった[2]。この頃(1300年代初頭)、大元ウルスは西方のカイドゥ・ウルスとの軍事衝突が激化しており、カイシャンは大元ウルス側の軍団を統べるために北方モンゴリアに派遣されていた。そして、カイシャンの最も信頼おける副官こそがワイドゥの父のオチチェルで、ワイドゥもまた父同様にカイドゥ軍との戦いで活躍したと見られる。

1307年(大徳11年)にいくつかの政変を経てカイシャンがクルク・カアンとして即位すると、古くからの家臣であるワイドゥはまず徽政使として取り立てられた[3][4]。また、1308年(至大元年)5月に御史台から中都建設のため不要不急の官営・私宅の建設を控えるようにとの進言が会った時も、「ワイドゥとサンバオヌの居宅を除いて」私宅の建設を控えるようにとの命令が出され、クルク・カアンから重用されていたことが窺える[5]

また、父のオチチェルはクルク・カアンの事実上の後任として北方モンゴリアに駐屯していたが[6]、クルク・カアンは特例としてワイドゥにオチチェルと同じ人臣最高位の「太師」号を授けた[7]。その後、クルク・カアンはワイドゥに邸宅を授け[8]、「トルチヤン」の名を賜り[9]、録軍国重事を加える[10][11]など立て続けに厚遇を示したが、これはトルチヤンを北方モンゴリアにあって動けないオチチェルの代理人のような存在として重用したためとみられる[12]

ところが、1311年(至大4年)にクルク・カアンは急死を遂げ、代わって即位した弟のアユルバルワダ(ブヤント・カアン)によってクルク・カアンの側近の多くは処刑された。この、ブヤント・カアン一派による事実上のクーデターによって朝廷中央から「カイシャン派」は一掃されたが、オチチェル・トルチヤン父子のみは建国の功臣の家系ということもあって健在であった。ブヤント・カアン政権の側でも彼等父子を軽視はできず、同年冬にオチチェルは先だったものの、歳が改まった1312年(皇慶元年)正月の朝賀でトルチヤンは引き続き「太師・録軍国重事・知枢密院事」の地位を保ち、オチチェルの後を継いでフーシン部ボロクル家の当主(淇陽王)になることが発表された[13]。しかし、ブヤント・カアン政権は「カイシャン派」の追い落としを終える気はなく、政権が安定したと見た1315年(延祐2年)10月22日にアスカン(トルチヤン)から太師の地位を奪って陝西行省丞相とし、代わりにダギの側近テムデルを新たに太師に任命した。更にその1カ月後、同年11月にクルク・カアンの遺児で「皇太子」コシラは「周王」に封ぜられ、雲南行省の統治を命じられた。王位の授与という形をとりながらもこれは事実上の僻遠の雲南地方への配流であり、翌1316年(延祐3年)3月にコシラは護送つきで雲南へ出発させられた。コシラ出発の僅か9日後、ブヤント・カアンらは「夏の都」上都開平府に向けて出発しており、アスカンの降格からコシラの雲南追放はこの時の「冬の都」大都滞在中に始末をつけるという意図があったと考えられている。

このような仕打ちを受けた「カイシャン派」の人間達の不満は頂点に達し、1316年(延祐3年)11月にコシラが雲南行の途中で陝西行省管轄下の延安に到着すると、シハーブッディーンやカブルトゥといった元カイシャンの部下たちが集った。その中の一人ジャファルは「天下は我が武皇(=クルク・カアン)のものである」と述べ、陝西行省の助けを得て朝廷にコシラの復権を訴えるべしと主張し、この時陝西行省の長(丞相)の地位にあったアスカン(トルチヤン)は報せを受けて決起することを決めた。アスカンらは交通の要衝である潼関河中府から「腹裏(コルン・ウルス=河北一帯)」に攻め入ろうと計画したが、河中府に至ったところでタガチャル、トゴンが突如として裏切りアスカン・ジャファルを殺害した。この翌月にはコシラと行動をともにしていたトゥクルクがすぐにアスカンの後釜として陝西行省左丞相に任じられており、コシラ派が決起した「関陝の変」はブヤント・カアン政権によって仕組まれたものであったと考えられている。すなわち、ブヤント・カアン政権にとって最も目障りなコシラ、アスカンという危険人物を一箇所にまとめ、わざと決起させた上で、以前から懐柔していたタガチャル、トゴン、トゥクルクらを利用して両者を一挙に排除することこそがブヤント・カアン政権の最終的な目標であったと推測されている[14]

ただし、ブヤント・カアン政権も建国の功臣の家系を滅ぼすことはできなかったようで、アスカンの失脚後は弟のエセン・テムルが後を継いでボロクル家の当主として中央に残った。

フーシン部ボロクル家編集

脚注編集

  1. ^ 『国朝文類』巻23太師淇陽忠武王碑,「抹開公主、宗王斡赤孫娘也……並封淇陽王夫人」
  2. ^ 『国朝文類』巻23太師淇陽忠武王碑,「……曰𠇗頭、抹開公主所也生。六歳時、裕宗皇后命侍武宗、武宗出撫北軍」
  3. ^ 『元史』巻22武宗本紀1,「[大徳十一年六月丙午]徽政使𠇗頭等言『別不花以私銭建寺、為国祝釐。其父為諸王斡忽所害、請賜以斡忽所得歳賜』。命以五年与之、為銀四千一百餘両・絲三万一千二百九十斤・織幣金百両・絹七百一十匹」
  4. ^ 『元史』巻22武宗本紀1,「[至大元二月]丁未、用丞相𠇗頭言、設尚冠・尚衣・尚鞶・尚沐・尚輦、尚飾六奉御、秩五品、凡四十八員、隷尚服院」
  5. ^ 『元史』巻22武宗本紀1,「[至大元五月]丙子……御史台臣言『比奉旨罷不急之役、今復為各官営私宅。臣等以為俟旺兀察都行宮及大都・五台寺畢工、然後従事為宜』。有旨『除𠇗頭・三宝奴所居、餘悉罷之』」
  6. ^ 本来、モンゴリアの統轄は「晋王(ジノン)」イェスン・テムルの役目であったが、カイシャンはカイドゥとの決戦でも精彩を欠いたイェスン・テムルを信用しておらず、そのためわざわざ嶺北行省を新設してモンゴリアの軍団の統轄を最も信頼おける部下たるオチチェルに委ねたのではないかと杉山正明は推測している(杉山正明 1995, p. 125)
  7. ^ 『元史』巻22武宗本紀1,「[至大元年八月]戊申……特授𠇗頭太師」
  8. ^ 『元史』巻22武宗本紀1,「[至大元年]冬十月庚寅、為太師𠇗頭建第、給鈔二万錠」
  9. ^ 『元史』巻23武宗本紀2,「[至大二年秋七月]甲戌、賜太師𠇗頭名脱児赤顔」
  10. ^ 『元史』巻23武宗本紀2,「[至大三年二月]辛未、脱児赤顔加録軍国重事」
  11. ^ 『元史』巻23武宗本紀2,「[至大三年]三月己卯朔、枢密院臣言『国家設官分職、都省治金穀、枢密治軍旅、各有定制。邇者尚書省弗遵成憲、易置本院官、令依大徳十年員数聞奏。臣等議、以鉄木児不花・脱而赤顔・床兀児・也速・脱脱・也児吉尼・脱不花・大都知枢密院事、撒的迷失・史弼同知枢密院事、呉元珪枢密副使、塔海姑令為副枢』。有旨、令枢密院如旧制設官十七員」
  12. ^ 杉山正明 1995, p. 126-127.
  13. ^ 『元史』巻24仁宗本紀1,「[皇慶元年春正月]甲辰、授太師・録軍国重事・知枢密院事脱児赤顔開府儀同三司、嗣淇陽王」
  14. ^ 杉山正明 1995, p. 127-128.

参考文献編集