トレ・カヤ

モンゴル帝国の将軍

トレ・カヤ(モンゴル語: Töre Qaya,? - 1323年)とは、大元ウルスに仕えたウイグル人将軍の一人。『元史』では脱烈海牙(tuōlièhǎiyá)と漢字表記される。

概要編集

トレ・カヤの先祖は代々天山ウイグル王国の首都ビシュバリクに居住してきた一族で、トレ・カヤの曾祖父闊華八撒朮は国王バルチュク・アルト・テギンとともにモンゴル帝国の建国者チンギス・カンに投降した人物であった。闊華八撒朮の息子が八剌朮、その息子が闍里赤、トレ・カヤは闍里赤の息子に当たる[1]

トレ・カヤは幼い頃から学問を嗜み、長じて大元ウルスに仕えるようになった。隆平県ダルガチに任ぜられた時には学問の振興・勧農政策・土木工事などの政策をなんなくこなしたため、任期を満了してトレ・カヤ去った後に民は碑石に彼の功績を紀したという。トレ・カヤは戸部郎中、右司員外郎、右司郎中を歴任した後、名声を聞きつけた皇太子時代のアユルバルワダに召し出され、秘蔵の経籍や聖賢の図像を与えられるという厚遇を受けた[2]

1323年(至治3年)には淮東宣慰使とされたが、同年7月に広陵にて67歳で亡くなった[3]

脚注編集

  1. ^ 『元史』巻137列伝24脱烈海牙伝,「脱烈海牙、畏吾氏。世居別失抜里之地。曾祖闊華八撒朮、当太祖西征、導其主亦都護迎降。帝嘉其有識、欲官之、辞以不敏。祖八剌朮、始徙真定、仕至帥府鎮撫。富而楽施、或貸不償、則火其券、人称為長者。父闍里赤、性純正、知読書」
  2. ^ 『元史』巻137列伝24脱烈海牙伝,「脱烈海牙幼嗜学、警敏絶人。性整暇、雖居倉卒、未嘗見其急遽。喜従文士游、犬馬声色之娯、一無所好。由中書宣使、出為寧晋主簿。改隆平県達魯花赤、均賦興学、劭農平訟、橋梁・水防・備荒之政、無一不挙。及満去、民勒石以紀其政。拜監察御史。時江西胡参政殺其弟、訟久不決、脱烈海牙一訊竟伏其辜。出僉燕南道粛政廉訪司事、務存大体、不事苛察。在任六年、黜汚吏百四十有奇。召為戸部郎中、転右司員外郎、陞右司郎中。賛画之力居多。仁宗在東宮、知其嗜学、出秘府経籍及聖賢図像以賜、時人栄之。母霍氏卒、哀毀骨立、事聞、賜鈔五万貫、給葬事。起為吏部尚書、量能叙爵、以平允称。改礼部尚書、領会同館事。進中奉大夫・荊湖北道宣慰使。適峡人艱食、脱烈海牙先発廩賑之、而後以聞。朝議韙之」
  3. ^ 『元史』巻137列伝24脱烈海牙伝,「至治三年、遷淮東宣慰使。七月、以疾卒于広陵、年六十有七、贈通奉大夫・河南江北等処行中書省参知政事・護軍、追封恒山郡公。弟観音奴、廉明材幹、亦仕至清顕云」

参考文献編集