ノガロ
ノガロ (Nogaro、ガスコーニュ語:Nogaròu)は、フランス、オクシタニー地域圏、ジェール県のコミューン。
Nogaro | |
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行政 | |
国 | フランス |
地域圏 (Région) | オクシタニー地域圏 |
県 (département) | ジェール県 |
郡 (arrondissement) | コンドン郡 |
小郡 (canton) | ノガロ小郡 |
INSEEコード | 32296 |
郵便番号 | 32110 |
市長(任期) |
クリスティアン・ペイレ[1] (2014年 - 2020年) |
自治体間連合 (fr) | fr:Communauté de communes du Bas-Armagnac |
人口動態 | |
人口 |
1985人 (2011) |
人口密度 | 179人/km2 |
住民の呼称 | Nogaroliens, Nogaroliennes |
地理 | |
座標 | 北緯43度45分33秒 西経0度01分58秒 / 北緯43.7591666667度 西経0.0327777777778度座標: 北緯43度45分33秒 西経0度01分58秒 / 北緯43.7591666667度 西経0.0327777777778度 |
標高 |
平均:m 最低:89 m 最高:148m |
面積 | 11.6km2 |
地理
編集コンドンの南西45kmのところにある。ミドゥール川、イゾテ川、ミドゥーザン川に面する。ノガロは低アルマニャック地方に分類される。
由来
編集Nogaroとは、『クルミの町』を意味するNugaroliumに由来する。
歴史
編集ノガロは、オーシュ大司教区の治外法権区域(fr:Sauveté)であった。オーシュ大司教オスタンドは、1055年にノガロをアルマニャック伯の臣下から領地として購入した。翌年に教会が建てられ、そこで教会会議が開催されている。
1050年以降、ノガロの治外法権区域は、商人たち(ワインのネゴシアンたち)が通行料を払わねばならなかった。町はオーシュ-トゥールーズ間、バイヨンヌやオーズとつながる道路の交差点で、どんな市でも町の外からの商品を見つけることができた。サリー・ド・ベアルンからの塩、大西洋岸からのニシン、サケ、チョウザメ、ピレネー山脈を越えてやってきた布、鉄、チーズ、南部から届いた油、オリーブ、イチジク、コショウ、ショウガ、琥珀、そして地元で生産されるテーブルウェア、油、木の実、コムギ、そしてワインであった。1219年に住民たちは自分たちの税関を持っていた。
低アルマニャック地方第一の封建都市および宗教都市として、1061年から1315年にかけてノガロでは7度の州教会会議が開催された。その宗教的な名声は1250年のコルドリエ会修道会の設立によって確認された。
16世紀にノガロは神学校を持っていたが、1569年にユグノーのモンゴムリ伯一派によって破壊された。教会は略奪にあい、柱は引き倒され、保管庫は荒らされ、家具が持ち出された。
町は17世紀に内戦の荒廃から復活した。1620年、カプチン会派修道院が設立された。しかし、1668年2月12日に発生した地震によって、修道院付属教会は崩壊した。
1829年、ノガロはブイとユルゴスの2つのコミューンと統合した。1893年、ユルゴスが再び分離し独立したコミューンとなった[2]。
巡礼路
編集ノガロは、サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路のポディエンシス道上にある(マンシエとバルセロンヌ=デュ=ジェールの間)。
ジャカイル(Jacayles)と呼ばれる古い道がノガロのメイン・ストリートに通じており、どの住宅も(ナバーラのプエンテ・ラ・レイナのように)細長く非常に幅が狭い。
人口統計
編集1962年 | 1968年 | 1975年 | 1982年 | 1990年 | 1999年 | 2006年 | 2011年 |
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1859 | 2140 | 2113 | 2013 | 2008 | 1881 | 1969 | 1985 |
史跡・行事
編集- クルス・ランデーズ(fr:Course landaise) - 人気がある古式の闘牛。毎年7月14日と8月15日にコルヌ・ドールという催しが開かれる。
- ノートルダム・ド・ブイ教会 - ゴシック様式。その創設には、奇跡が関係したと伝えられている。ブエという名の雄牛を領主が飼っていた。この牛が木を根こそぎにし、聖母のかたちをした木の切り株を運んできた。領主は、近隣の敵に勝利したら教会を建立すると誓いを立てた。望みがかなえられたので、礼拝堂が建てられた。
- サン・ニコラ参事会教会
姉妹都市
編集- ウアルテ=ウアルテ、スペイン