「59.86.2.127 (悪く書かれすぎている)」さんへ 編集

確かに感情的な表現も多く、出典も示されていませんでしたが、井筒氏に不利(?)な点ばかりを削除して隠蔽しても、何ら解決しません。客観的事実を記述し、建設的に編集していきましょう。 (ポルノ映画出身だということは本人も隠していないし、今時、デメリットとも思えませんが) 感情的と思われる表現はできるだけ排し、出典などで確認できないことはほとんど削除しました。 出展は外部リンクに追加してありますので、必要なら確認してください。 --Nmaeda 2006年1月6日 (金) 21:10 (UTC)

一応、こんなの置いときますね。--133.205.49.29 2008年7月16日 (水) 04:26 (UTC)

いかりや長介氏死去時の発言 編集

いかりや長介氏死去時の発言について、記載される方にお伺いしますが、その放送をご自分で視聴・録画するなりして、確認されていますか? もしくは、なんらかの出典を提示できますか? --Nmaeda 2006年1月8日 (日) 18:59 (UTC)

私は、全ての部分ではないのですが、そのときの放送を録画したものが残っていたので、井筒監督のコメント部分を書き出して見ます。

「僕らはでもね、あの、もう、全員集合の世代でももう無いしね、もう大人になりかけてたから、僕らは「てなもんや三度笠」の世代だから、うん、だからそれ以上分からないですね。」

別に、スタジオが凍りついたりはしてはいませんでしたよ。--以上の署名の無いコメントは、116.82.27.179会話投稿記録)さんによるものです。--Hatukanezumi 2008年7月17日 (木) 17:01 (UTC)

井筒監督インタビュー 編集

「いかりや長介がいつ渋い演技したんですか。 枯れ果てて70歳くらいになれば誰だってあんな演技しますよ。 生き永らえたのと演技は違うでしょって。分かってないんだよなー、マスコミも」 上記の発言はテレビで言い放ったものでありません。2003年8月15日の読売オンライン(報知)の『ライバル映画バッサリ 井筒監督インタビュー「『踊る大捜査線』何じゃありゃ」』に掲載されたインタビュー文からの抜粋であって、インターネットでこの発言が飛び火していく内にテレビでの発言とごっちゃになって「テレビで発言された」事になってる模様です。実際、テレビで発言して視聴者の怒りを買ったのは2004年3月23日テレ朝系『スーパーモーニング』でのものです。 「ドリフとか、役者のいかりやさんとかいいますけど、わたしは、てなもんや三度笠で育ったもんですから、(コメントを求められても)よくわからないですねー。役者としても、全くわからないんで、別に悲しくもないですけどね。」 生放送でこれを言い放ってスタジオを凍り付かせました。 いかりや長介さんが死去なさったのは2004年3月20日で、前者のインタビュー時にはまだご存命です。つまり… >いかりや長介の死去時に「あんな役ね、そこら辺のしょぼくれたジジイだったら誰でも出来るだろ」って生放送の番組上で言い放って? という記述は間違い・誤認であって、死去時の暴言は「別に悲しくもないですけどね。」というのが正しい方です。出典云々という疑問はこれで解決した思います、後は編集者の方にお任せ致します。  

貴重な情報をありがとうございました。ただ、これらすべての原典を確認できる方は少ないと思いますし、実際に記事を執筆していただけるとありがたいところですが。--Nmaeda 2006年1月11日 (水) 07:29 (UTC)

58.94.181.177 さんへ 編集

できるだけ感情を抑えて、極力、事実関係のみ書くようにしましょう。事典には客観性が必要とされています。同様の理由で、可能な限り出典を添えるようにしてください。 なお、自分の好みでない作品を酷評する行為は簡単かつありがちなスタイルだと思いますがいかがでしょうか。 --Nmaeda 2006年1月11日 (水) 07:53 (UTC) 個人のホームページやブログなどでは大いに結構だと思いますが、百科事典にはふさわしくないと思われます。事実として認められる情報のみを記事にするべきでしょう。221.171.121.68 2006年1月20日 (金) 15:29 (UTC)

Iosifさんへ 編集

『各分野で活躍する在日同胞たちの「MILEメッセージ」が紹介された。』と書かれた直後の段落で彼が紹介されていたら、彼がそれに含まれると解釈することは自然だと思いますが、納得されませんか? その上、この段落で紹介されている方々のお名前は、朝鮮・中国系のお名前ばかりです。 もしかすると、この記事には朝鮮語の原文があり、それを読まれた上でのことでしょうか? もしそうでしたら、ご遠慮なく、削除なさってください。わたしはこの日本語の記事しか読んでいません。 それとも、出自が不要とお考えですか? 学歴などと同じく、出自(出身地や系譜など)はプロフィールとして一般的な情報かと思うのですが。

もちろん、ご紹介の記事を通して読んだうえで編集しました。疑義を呈するにあたって、私のほうが説明不足でした。ノートにも書かずに「編集内容の要約」だけで済ませた自分の横着について、まずお詫びします。
さて私は、単に朝鮮新報の記事が悪文であるため「井筒も在日である」という誤解を誘っていると推測しています。朝鮮総連の(しかも若者向けの)イベントにおいて「活躍する在日」が日本の通称名で紹介される(しかも本名を最後まで明かさずに)という事態が考えられないのです。これは朝鮮総連の考え方に照らして論理矛盾だからです。そういった矛盾はそこらじゅうにあって当たり前ですが、これはあくまで朝鮮人の若者に向けたイベントですからタテマエが重要です。そんなところで通称名で登場していても(総連系イベントであるかぎりは)若者に向けたエールたり得ていません。実際に、朝鮮新報は朝鮮人であることを公言しながらも日本式姓名で活躍する人について書くときに本名(朝鮮名)を付記することが多いように思います(ただし同記事中では笑福亭銀瓶の本名も書いていませんけれども、落語家は「芸名」で呼ばれるべきというていどなら朝鮮新報の判断としても考えられる範疇だと感じます)。たしかに記事で触れられているとおり(同イベント内の)「『活躍する在日』がメッセージを送る」企画ではあったのだろうとは思います。しかし井筒和幸は「在日にエールを送る日本人」または「李鳳宇の盟友」として登場したのではないか…にもかかわらず朝鮮新報の悪文は全部ひとからげに在日だと読めてしまう書き方をしてしまっているのではないか…とでも考えないと辻褄が合わないのです。1)在日朝鮮人で、2)映画「パッチギ」を撮っていて、3)若者にエールを送るために登場していて…、ところが名前が「井筒」であるうえに本名も明かせないとなったらこれはブーイングものだと思うのです。で、よく読むと、記事自体も井筒和幸を在日とはっきりと同定していないとも読めます。そこだけが李鳳宇とセットになっています。2人一緒に映像出演していたことを表現しようとしただけかもしれません。結論先にありきのようで申し訳ないですが、辻褄が合わないポイントを押しのけてまで納得させてくれるほど朝鮮新報の記事が権威ある(信頼できる)ニュースソースだと私はみなせないのだということも付け加えます。朝鮮新報に電話して李松鶴記者に確認をとれば簡単に答えてくれる程度のことだと思うのですが、今回は確認せずに編集してしまいました←不審感をもたれたかと思いますので、この点もお詫びします。しかし、確認がとれるまでは削除しておくべきではないかと考えています(でも私が確認を取ると請け負うことはできません、申し訳ない)。いずれにせよ朝鮮新報の、どちらとも読める記事だけがソースでは、出自を断言するのには弱いと考えています。Iosif 2006年1月20日 (金) 19:39 (UTC)
誠に失礼ですが、少々深読みではないでしょうか? 井筒氏が在日ではないことを前提に、この記事を悪文と評価されているようです。総連のイベントで実際に紹介された氏名と、記事上の氏名が同じか否かも判りません。この記事を日本語がネイティブの若い在日や日本人むけだとすると、記事上でのみ、広く知られた通称名で紹介したと考えることまでできるのです。結局のところ、このような場合は、あまり予備知識を使わず、出典を自然な日本語として解釈するべきだと思うのですが、いかがでしょうか? 正直なところ、わたしも原稿料が貰えない記事でこれ以上調べる気がないのが正直なところです(笑) --Nmaeda 2006年1月21日 (土) 06:11 (UTC)

私にいくつか傍証材料があるせいで、深読みに読めるかもしれません。また傍証ゆえに「在日ではないことを前提に」していると読めるのかもしれません。しかし、プライバシー侵害になるので傍証については明かせません。さて、「出典を自然な日本語」と解釈しても、井筒氏が在日だとは私は読めませんでした。周囲にも読ませましたが同意見でした。自然な日本語とおっしゃいますが、同じ新聞の他の記事と比較してはじめて何が自然な読み方かが言えるのだと思います。朝鮮新報が青年向け啓蒙イベントで登壇者を通称名で書くというのも想像できませんが、イベントで「実は在日です」と言って本名を名乗らせていながら記事にそれを取り上げないというのも考えられません。イベント会場でのみ本名を名乗ったなら、この場合カミングアウト劇なので、別のニュース価値があります。特に朝鮮人向け新聞ではなおさらです。そういうケースなのに記事で本名を記さないということが考えられません。熱心にこの項目の充実をはかられていたNmaedaさんに敬意を表しつつ、そのNmaedaさんにこれ以上調べるつもりがないとおっしゃるのは残念ですが、言わせてしまったのは残念ですし申し訳なくも思っています。しかし、そうなると、疑わしきは言及せずという原則を適用すべきところだと思います。(もちろん機会があったら私が記者に問い合わせておきます)Iosif 2006年1月21日 (土) 19:44 (UTC)修正付加219.0.238.246 2006年1月22日 (日) 06:02 (UTC)さらにログイン忘れで再署名、ついでに再修正Iosif 2006年1月22日 (日) 06:08 (UTC)

明かせない論拠は、週刊誌の記事によくある「関係者によると‥‥」程度の信頼度であり、噂話と同等でしょう。その意義を否定はしませんが、例えそれが真実であっても、事典・辞典で採用するべき論拠ではありません。また、残念と言われましても、「朝鮮新報に電話して李松鶴記者に確認をとれば簡単に答えてくれる程度のことだと思うのですが、今回は確認せずに編集してしまいました」というように、先に確認しないと書かれたのはIosifさんなのですから、わたしに残念と言われる前に電話なりメールでご自身が確認し、その上で該当部分を修正なさってください。わたしは朝鮮半島系メディアに大して、意見ではなく、誤訳や事実誤認の指摘をメールでおこなったことがありますが、返事をもらえたことはありません。ところで、在日だと書かないのであれば、イベントに対してメッセージを寄せただけであり、本文に記述することもないでしょう。参考としてリンクを提供してあれば充分と思います。--Nmaeda 2006年1月23日 (月) 05:38 (UTC)
いや、それはおっしゃるとおりで、気分を害されたならお詫びします。「明かせないこと」を根拠にして「削除すべき」と主張したつもりはありません。いまだに、そのようなことは書いていないつもりです。「在日ではないことを前提に(しているという予断があるのではないか)」とおっしゃっていたので、「たしかに予断があるかもしれません」と伝える意図で書いたことです(そのまんま「たしかに予断があるかも」と書かなかったことについてはさすがに勘弁してほしいです)。少なくとも、明かせないことを根拠として採用納得させようなどという阿呆な、世の中をナメたようなことは当初から毛頭考えていません。要らぬことを書きました。/また、残念だというのはNmaedaさんが確認なさらないということに対してではなく、修正のとおり、そのように言わせたことについてであって、単なる感慨でしかありません(なんか、からんじゃっただけみたいになったなあ、という感慨とでも言えばいいでしょうか)。Nmaedaさんへの要望なり、不平なり、当てこすりなりに受け取られるのではないかという恐れをたしかに感じてはいたのですが、そのようなつもりはまったくありません。しかし、実際にそのように受け取られたようで、ご気分を害されたならお詫びします。これもまったく要らぬことを書きました。
私の立場はあくまで、朝鮮新報の文章が明確ではなく信頼できる情報とみなせないため井筒氏が在日であるという根拠として採用できない(採用するのに承服しかねる)というものです。また、私が確認して修正するのがベストであるのはもちろんですが、確認できないから書いて良いという事柄ではないと考えています。あくまで「本人が公表していない本人情報」として扱うべきだと考えているわけです。電話確認については言っちゃったからやるしかないのかもしれません。しばらく(ちょっと気を長く)お待ちください。しかし、考えてみれば、私が電話で確認したところで電話記録を発表できるわけではなく、これまた根拠として採用できないことには変わりはないということに今さら思い至りました。というわけで「すぐに確認できること」などと書いたことは取り下げて、これについてもお詫びします。現時点では「どのようにも読める記事(朝鮮新報)が存在する」ことだけが材料であって、それに対して(1)「Iosifは同・記事を読んで、井筒氏が在日であることを明らかにした記事だとはみなせない」(2)「もし、井筒氏が在日であるという記事として書かれたのであれば辻褄の合わないことが多くある」ということだけ申し上げます(あ、もちろん、(1)(2)ゆえに記述するべきでないと主張します)。--Iosif 2006年1月23日 (月) 10:21 (UTC)

NiKeさんへ 編集

ノートに参加せず、捨て台詞で本文を修正するようなことはお止めください。ご自分の論拠を提示して、ノートで議論すべきでしょう。そうせずに本文だけを書き換え続けても、何ら意味がありません。--Nmaeda 2006年1月23日 (月) 05:44 (UTC)

『パッチギ!』の記述について 編集

パッチギの記事にも見られた表現だが事実上完全制覇事実上とはいったいどういう意味か?キネ旬の第一位という記述を削除してまで事実上完全制覇という曖昧かつ意味不明な表現に書き換えるのは特定の感情に基づき記述していると言われても仕方がないと思われる。したがって削除すべきである。--ホロ部 2006年3月20日 (月) 05:22 (UTC)

「評論家失格」のくだりですが、必要な記述でしょうか? 「評論家として失格だと言わざるを得ない」という論評的な表現にまで踏み込まないほうがいいのではないでしょうか。事実をもって語らしめるだけで十分だと思います。--Iosif 2006年4月7日 (金) 15:18 (UTC)「井筒和幸」の項目に「評論家として」の評価が書かれていることも、また別の問題として違和感がありますが。--Iosif 2006年4月7日 (金) 15:20 (UTC)

再三に渡る中傷について 編集

中傷せんがために(としか思えない文脈で)李鳳宇と(立証不可能な)金銭関係をしつこく書いている人がいますが(立証不可能なうえに李鳳宇の父とシネカノンの資金とはさらに無関係ですが)、いい加減にやめてはどうでしょうか。また、人間を全て嫌韓派とそれ以外に分類して、映画作家やら何やらに書き込むのもやめてはどうでしょうか。--Iosif 2006年4月15日 (土) 21:59 (UTC)

割り込みですけど一言、「子煩悩」というくだりは証明不可です。それと在日三世にあたる浅川基文氏の著作にはシネカノンの件が出てますよ。履歴をみると、少しIosifさんも熱くなっているようにみえますけど。--58.156.236.106 2006年12月8日 (金) 09:01 (UTC)

大前提として 編集

みなさんお解かりかとは思いますが、百科事典としてふさわしい表記とは何なのか?ここに十分留意して記述いたしましょう。 「~と言われている」「~と思われる」「~と言わざるを得ない」←こういった表現は、百科事典として適切とはいえないのでは?評論本の執筆ではないのです。 ウィキの目的として重要なのは井筒和幸を知らない第三者が「井筒和幸」を知ろうとしてココに来たときに事実をきちんと確認できるもの、であるべきと考えますが。 井筒和幸を良く知る者たちが個々の意見を出し合う場ではないのだということです。--219.171.7.65 2006年4月18日 (火) 23:50 (UTC) 執筆者は以下のことを確認すべきです。これは百科事典として適切であるかどうかということではなく、ウィキペディアの存続にかかわる問題だからです。

  • ウィキペディアの記事は検証可能でなければならない。出典を示す責任は掲載を希望する側に。存命中の人物に関する記事あるいは情報の場合、情報源が明示されていない情報は直ちに除去する。(ウィキペディア公式方針Wikipedia:検証可能性
  • ウィキペディアの記事は出典を明記しなければならない。(ウィキペディアガイドラインWikipedia:出典を明記する
  • 存命中の人物に関する否定的な情報で出典の無い、あるいは貧弱なソースしかないものは、項目本文およびノートから即刻除去するべき。ソースが皆無か、あっても「テレビで観たことがある」「ラジオで聴いた」といったような貧弱なソースのみの場合、否定的な題材は存命人物の伝記とそのノートから除去すべき。その際の除去は議論無しで行なっても構わない。(ガイドライン草案Wikipedia:存命人物の伝記

--Kestrel 2007年5月16日 (水) 15:45 (UTC)

Interwiki links 編集

Hi, Would it be possible to insert the interwiki link to the french wikipedia ? I can't do it myself since the article is locked. The french article's name is fr:Kazuyuki Izutsu. Thank you.

カテゴリに 編集

「奈良県出身の人物」の追加をお願いします。--221.78.54.1 2007年4月24日 (火) 22:59 (UTC)

人物・エピソードについて 編集

「映画『パッチギ!』は国賊ものと中傷された」とありますが、日本語になっていません。「国辱もの」か「(監督が)国賊」という意味ではないかと思いますが、正確には、いつの放送で、誰が、どう発言したのでしょうか。usagito 2007年6月13日 (水) 18:06 (UTC) ホレ http://www.youtube.com/watch?v=TIz9yZmbNGg 220.216.109.63 2007年6月20日 (水) 12:49 (UTC)

「在日」関連の記述について 編集

在日任認定の削除の件 少なくとも朝鮮新報(2005.9.15日)に在日認定記事があるのであれば、その存在を記述し、「このことから井筒監督在日説もある」と書くのが中立的態度だと思います。議論を聞いていると、無理やりこの記事の信憑性をなくし、井筒監督と朝鮮人社会との関係を隠そうという下心が見えます。

落ち着いてください。
1.本人が公にしていない・公に確認されない国籍についてWikipediaに書くべきでない。
2.百科辞典の項目として採用すべき水準にない話(噂)をWikipediaに書くべきでない。
……という原則に従えば、書くべき内容でないことは明白です。「在日説もある」というが、その説にはどんな信頼できる情報源があるのか。(件の朝鮮新報の記事は「そのつもりならそう読める」記述でしかなく、事実が確認できる情報源たりえない。他のソースも出てこない状況。)
編集作業をなさる前に、Wikipedia:ウィキペディアは何でないかなどのガイドラインをお読みになることをおすすめします。usagito 2007年6月20日 (水) 06:06 (UTC)

再度書きます。 下の答えの、「(件の朝鮮新報の記事は「そのつもりならそう読める」記述でしかなく、事実が確認できる情報源たりえない。他のソースも出てこない状況。)」

それこそあなたの主観でしょう。件の朝鮮新報の記事をここに表示してください。 それを様々な人が読んで、初めて、証拠足りえるのかどうか、を議論しましょう。 --以上の署名のないコメントは、Roushi会話投稿記録)さんが 2007-07-07T13:30:42 (UTC) に投稿したものです。

Roushi氏のコメントを移動して署名を追加しました。Roushiさん、まず、ノートでは署名してください。まともな議論になりません。それから、Wikipedia:ウィキペディアは何でないかなどのガイドラインはお読みになりましたか?--usagito 2007年7月7日 (土) 07:21 (UTC)

roushiです。 「まさにそれが問題です。この件の記事を知りたがっている人が大勢いるでしょう。その部分をここに掲載して、客観的な判断材料にすべきです。」

「これについては、そもそもWikipediaの役割ではありません」

wikipediaの役割ではない、との事ですが、この百科事典は誰でも編集に参加できることに意義があるのではないですか。議論によって良識の最大公約数をもとに記述するというシステムだと思います。何度も「在日認定」の問題が出てくるのは、朝鮮新報の記事を「どうにでも解釈できる」と断定する担当者と、「朝鮮新報から各分野で活躍する同胞として井筒の名前が挙げられいる」という二つの意見が対立しているからです。だったら元の朝鮮新報の記事をここに公表して議論するしかないでしょう。私がそれを要求したら、「そもそもwikipediaの役割ではない」との返答。  おかしくないですか? --以上の署名のないコメントは、Roushi会話投稿記録)さんが 2007-07-11T12:45:38 (UTC) に投稿したものです。

Roushi氏のコメントを移動して署名を追加しました。Roushiさん、ノートでは署名してください。また、Wikipedia:ウィキペディアは何でないかWikipedia:存命人物の伝記などのガイドラインをお読みになってください。Wikipediaの記事は、信憑性を議論しなければならない程度の情報をもとに執筆すべきではありません。そもそも、プライバシー情報は、Wikipedia執筆者の議論によって事実が決定される性質のものではありません。それから、質問ですが、「担当者」というのは何のことですか?--usagito 2007年7月15日 (日) 01:28 (UTC)


121.1.149.179 氏のコメント 編集

>1991年9月、大作『東方見聞録』の撮影中にエキストラの俳優が死亡する事故が起きる[1]。事故後しばらくの間、映画から遠ざかっていたが、1993年、仙頭武則の依頼により『突然炎のごとく』で映画監督に復帰。

2年(映画の完成から見れば1年)程度の空白期間で「映画から遠ざかっていた」とか「復帰」と表現するのは大げさです。 現に彼のフィルモグラフィでそれ以上に4年のブランクもあるのですから。

>件の朝鮮新報の記事は「そのつもりならそう読める」記述でしかなく、事実が確認できる情報源たりえない・・・・・・・・・

まさにそれが問題です。この件の記事を知りたがっている人が大勢いるでしょう。その部分をここに掲載して、客観的な判断材料にすべきです。

(ノートの体裁に合っていないようだったので 121.1.149.179 氏のコメントを移動しました。原文は 2007年6月26日 (火) 10:43、121.1.149.179 氏 によって投稿されています。 --Wingwatcher 2007年6月28日 (木) 07:25 (UTC))

事故後の期間についてはご指摘ごもっともなので、事実に即して表現を改めました。

まさにそれが問題です。この件の記事を知りたがっている人が大勢いるでしょう。その部分をここに掲載して、客観的な判断材料にすべきです。

これについては、そもそもWikipediaの役割ではありません。--usagito 2007年6月29日 (金) 11:11 (UTC)

「遺族への補償金は井筒が一人で支払いを続けている」の記述について 編集

この記述は何を根拠に記述されているのでしょうか?出典を明記してください。 本人の発言でしょうか?だったら、「本人はそう発言している」という記載が必要だと思います。 今のままの表現では、正確さを欠きますし、誤解を生みかねません。 --初夏の薫り 2007年7月2日 (月) 01:33 (UTC)

出典は、わしが編集した当初から、本文中のコメントとして「朝日新聞2004年9月11日」と書いてありました。いま「アエラ2002年7月1日」も足しました。usagito 2007年7月7日 (土) 05:35 (UTC)

発言集の削除について 編集

どうして発言集の削除が行われるのでしょうか? 彼が拉致被害者に対して暴言をはいていることは、日本国民が知るべきことです。不都合な事実だけを覆い隠すことは、卑怯ですし、公平でないといわざるを得ません。 --初夏の薫り 2007年7月2日 (月) 01:36 (UTC)

Wikipediaの目的と方針を再度ご確認ください。usagito 2007年7月7日 (土) 05:38 (UTC)

(無題) 編集

usagitoさんが、提出を拒むので、自分で探してきました。件の記事とは以下の通りです。

「第2部ではまた、各分野で活躍する在日同胞たちの「MILEメッセージ」が紹介された。 シネカノン代表取締役の李鳳宇氏と映画監督の井筒和幸氏、サッカー朝鮮ナショナルチーム代表の安英学選手(名古屋グランパスエイト)、京大博士で同大学大学院工学研究科助手の張浩徹氏、札ノ辻診療所副所長で、NPO法人エルファの副理事長である朴錫勇氏等が出演し、在日という立場は決して不利なものではなく、目標を定めその実現のために努力すれば、必ず夢はかなえられるということを強調した。朝鮮新報 2005年9月15日より」

最初からこの文章を見せればよかったのです。この文章はどうにでも取れる、というより、在日同胞はシネカノンの李氏のことを示していると解釈すべきです。  これで井筒の在日説は消えました。最初からこの記事を見せれば議論の余地はなかったのに、出し惜しみするから話がこじれるのです。roushi

--以上の署名のないコメントは、Roushi会話投稿記録)さんが 2007年7月17日 (火) 01:59 (UTC) に投稿したものです。

井筒和幸のページの件について(コタルスさんの質問) 編集

突然申し訳ございません。井筒和幸のページにおいて貴方は事故の記述内容を大幅に削除されましたが、記述内容に全く問題はありません。事故については出典を示しておりますし、裁判における井筒の自身の主張も記述されており公正中立です。また、井筒は映画監督として著名な人物なのですから、井筒自身が監督をした映画において死亡事故が起き、井筒が遺族から告訴され、書類送検され裁判にもなった一連の出来事は極めて重要です。大幅な削除はお止め下さい。編集合戦の原因になります。異論がおありならばノートで提案をして下さい。

貴方は記述内容の削除理由について私のしたことは「荒し行為」だと断言しておられますが、なぜそのように思われたのですか?私はウィキペディア (Wikipedia) の基本方針やルールに反したことは一切行っておりませんが。コタルス 2007年7月23日 (月) 04:41 (UTC)

上記の投稿を利用者‐会話:Usagitoのページにいただいたので、こちらに転載してお返事します。

「荒らし」との判断は主に、Wikipediaの基本方針からの根本的な逸脱によります。Wikipedia:ウィキペディアは何でないかの最初に、「ウィキペディアは一般向けのオンライン百科事典です」とあります。これこそがWikipediaの基本方針であり、第一義的な構築目標です。わしはそれを尊重して項目を整理しました。つまり「映画監督・タレントの井筒和幸についての基本的な情報を知りたいな」と思った一般の人が、簡単に、低い情報コストで、それを理解できるように記事を構成することです。

ところが、コタルスさんは、それまで下表の左側のようであった章立てを右のように変更してしまいました。

1 映画監督として
 1.1 来歴
 1.2 主な監督作品
2 タレントとして
 2.1 現在の出演番組
  2.1.1 テレビ
 2.2 過去の出演番組
  2.2.1 テレビ
  2.2.2 ラジオ
3 著書
 3.1 共著
4 脚注
5 外部リンク
1 映画監督として
 1.1 来歴
2 撮影中の死亡事故
 2.1 事故の概要
 2.2 事故後
3 タレントとして
 3.1 現在の出演番組
  3.1.1 テレビ
 3.2 過去の出演番組
  3.2.1 テレビ
  3.2.2 ラジオ
4 主な監督作品
5 著書
 5.1 共著
6 脚注
7 外部リンク

現状、百科事典の記事として成立していません。商業ベースの百科事典や人物事典の筆者がこんな原稿を上げたら、クビになるでしょう。ではWikipediaの記事としてどうかといえば、これでは読者は「井筒和幸の基本的な情報」を容易に読み取れません。執筆する観点から言えば、複数のガイドラインから逸脱しているし、なにより、記事の骨格が破壊されてしまったため、加筆・修正が困難です。構成のしっかりした記事ほどブラッシュアップしやすいのですが、この惨状では、どこから手を付けていいのか、判断に苦しみます。それは記事の完成度を上げる妨げになり、Wikipediaの発展に寄与せず、万人の利益を損ないます。

コタルスさんは「井筒は映画監督として著名な人物なのですから」と書いていますが、現状の記事は、映画監督としての業績を解説する文章(主)の、2倍以上もの文章が、事故の記述(従)に費やされています。「事故がこれだけ大きく扱われるほど著名な映画監督」という前提が記事中で成立しておらず、コタルスさんの主張は破綻しています。この分量の事故の記述を温存するならば、その何十倍も「井筒和幸はどのようにして著名な映画監督たりえてきたか」について、百科事典らしくまとまった記述が必要になります。常識的に考えるならば、井筒監督についての伝記を一冊書いたら、事故の記述がこれぐらいになるのでしょうが、それは既にWikipediaを逸脱しています。キーワード検索やどこかからのリンクでたどりついた一般の人が、何スクロールかのうちに、その項目の概要を知ることができるのがオンライン百科事典としてのWikipediaの基本的な役割だと考えます。コタルスさんの作成した記事は、その用を満たしません。以前の記事は、小さいながらもそれなりにまとまっており、「一般向けのオンライン百科事典」の記事のベースとして機能するものでありました。コタルスさんはその骨格を破壊し、間違った記述を行い、記事の発展可能性を阻害しました。

以上の理由から、コタルスさんの一連の編集行為を「荒らし」と判断しました。--usagito 2007年7月23日 (月) 15:40 (UTC)


ご返答ありがとうございます。私の発言をすべて転載する際には許可を得てからお願い致します。

Usagitoさんのご返答を熟読致しましたが、ウィキペディアを誤解されています。

これは深い意味はありません。一般向けということは、様々な読者向けと言うことです。基本方針以外に拘束されることはありません。下記での述べますが、「一般の人」というのは多様です。

  • つまり「映画監督・タレントの井筒和幸についての基本的な情報を知りたいな」と思った一般の人が、簡単に、低い情報コストで、それを理解できるように記事を構成することです。(Usagitoさんのご発言より)

なぜ「基本的な情報を知りたいな」という読者の思いだけ取り上げるのでしょうか?基本的な情報を知りたいなと思う読者もいれば「詳しく知りたいな」と思う読者もいますし、様々な思い・考えの読者が存在します。一般=基本的な情報ではありません。ですから、「簡単に低い情報コストで記事を作らなければならない」なんてことはありませんし、そのようなことは基本方針にも明記されておりません。

  • 「百科事典の記事として成立していません。商業ベースの百科事典や人物事典の筆者がこんな原稿を上げたら、クビになるでしょう。」
  • 「これでは読者は「井筒和幸の基本的な情報」を容易に読み取れません。執筆する観点から言えば、複数のガイドラインから逸脱しているし、なにより、記事の骨格が破壊されてしまったため、加筆・修正が困難です。」(Usagitoさんのご発言より)

百科事典の記事としては成立していると思いますよ。ウィキペディアは、「人物の基本的な情報」を容易に読み取ることが目的の百科事典ではありません。それに、容易に読み取れるかどうかは個人差があります。Usagitoさんの主観であると言わざるを得ません。また、複数のガイドラインから逸脱していると言われますが、一切逸脱してはおりません。加筆・修正が困難な状況でもありません。なぜ困難な状況だと言われるのか理解できません。

  • この分量の事故の記述を温存するならば、その何十倍も「井筒和幸はどのようにして著名な映画監督たりえてきたか」について、百科事典らしくまとまった記述が必要になります。(Usagitoさんのご発言より)

そんな何十倍もの記述をする必要は一切ありません。死亡事故は井筒和幸を語る上で極めて重要な情報です。井筒和幸の本業は映画監督です。井筒自身が監督をしていた映画撮影中に死亡事故が起き、井筒は遺族から告訴され、書類送検され、さらには裁判までなりました。この一連の出来事は映画監督井筒和幸を知る上において重要な情報ですし、詳細に記述することになんら問題点はありません。

ウィキペディアは誰か一人の主観で編集方針が決められるわけではありません。誰か一人のものでもありません。ウィキペディアの基本方針を遵守した記述であれば、詳細に書こうと削除の対象にはなりません。コタルス 2007年7月24日 (火) 10:49 (UTC)

コタルスさんは、Wikipediaの趣旨とシステムについて、根本的に無理解なのではありませんか。

私の発言をすべて転載する際には許可を得てからお願い致します。(コタルスさん)

「ウィキペディアのコンテンツは、他の人々に対して同様の自由を認め、ウィキペディアがそのソースであることを知らせる限りにおいて、複製、改変、再配布することができます」。これはWikipediaのキモです。この大原則に反して事前の許可申請を求めた時点で、コタルスさんがWikipediaについて述べられているすべてのことは信憑性が疑われます。事前の許可申請を求めるのはなぜですか。--usagito 2007年7月24日 (火) 15:39 (UTC)
usagito氏に同意。基本情報すら整理されていないものは、百科事典的記事にたりえない。--Los688 2007年7月25日 (水) 02:27 (UTC)
追記-Wikipedia:存命人物の伝記との関連もあるので、少なくとも主要経歴の一つたるタレント活動より上部に持ってくることは、批判目的の意図ありと取り、介入します。--Los688 2007年7月25日 (水) 02:33 (UTC)
Usagitoさんが挙げられた「ウィキペディアのコンテンツは、他の人々に対して同様の自由を認め、ウィキペディアがそのソースであることを知らせる限りにおいて、複製、改変、再配布することができます」。
これは記事の作成において適用されるものです。一個人のノートページにおいての発言とは違います。私の発言を無断で複製、改変、再配布することは認められておりません。禁止されております。Wikipedia:投稿ブロックの方針を御覧いただければご理解頂けると思うのですが、「他者の発言の改竄」は禁止されております。もし行った場合は投稿ブロックの対象となり、編集できない状態となります。--コタルス 2007年7月25日 (水) 02:38 (UTC)

Los688様、私は批判的意図など全くございません。井筒和幸を批判・糾弾しようなどとは一切思ってはおりません。タレント活動より上部に持ってきたのは、映画監督としての活動と関係があり、重要な記述だと思ったからです。実際に事故の記述は「映画監督として」の項目に記述してありました。--コタルス 2007年7月25日 (水) 02:41 (UTC)

1-WikipediaのノートページにおけるライセンスもGFDLであり、手順を取れば、無断で複製、改変、再配布することは可能。ただし、不適な理由による発言の改竄は、議事妨害としてブロック事由になりえる。2-文章量が中立的観点の全てを規定するものではないとはいえ、業績の解説文<事故の解説文 の文章量では、Wikipedia外部から問い合わせ・クレームなどがあった際に中立的という説明ができない。現段階では、事故の解説文は控えめにせざるを得ない。(業績部の文章量が)3-事故と裁判は、本人の業績と密接に関わるものであり、中立的観点に注意しながら書き込むことに問題ないと思われる。4-重要な文である裁判時とされる発言の出典が示されていない。また、発言の本文記事中の使用では『「○○」という{趣旨}の発言』と直接の発言ではないのに鍵括弧を用いているのは、ミスであり、復帰の場合でも修正を要す。発言の原文と要約は区別は確実にされたし。なお、出典には新聞などのしっかりしたものを用い、ブブカなどはダメです。--Los688 2007年7月25日 (水) 15:25 (UTC)
Los688様、ご返答ありがとうございます。
文章量と中立的観点とは、関係がないのではないでしょうか。Wikipedia:中立的な観点におかれましても、「ウィキペディアにはサイズの制限はありません。」と、あります。事故の記述の文章量が多いからと言って、中立的でなくなるということはありません。業績の解説文<事故の解説文であっても中立的でなくなることはありません。事故の記述は主張や意見ではありません。現在の井筒の記述には業績の解説文が全く記述されていないという訳ではありませんし、十分な量が記述されていると思います。仮に、中立的でない記述であったとしても、即削除の対象にはなりません。また、Wikipedia:中立的な観点には、「もしもその記述(中立的でない記述)が妥当な情報を含んでいるなら、それを活かすべく編集されるべきで、削除されるべきではありません。」ともあります。
裁判時の井筒自身の発言についてですが、ブブカの記事を参考にしておりました。出典を示さず、また趣旨でありながら鉤括弧を用いることは不適切でした。申し訳ございません。ただ、Wikipedia:検証可能性には、タブロイド紙のような信頼性に乏しい情報源からの情報であっても、その情報が値打ちがあり、重要であれば出典を示せば記述は認められております。裁判時における井筒自身の、林が自分の言うことを聞かず、勝手な行動を取ったため事故が起こった。という趣旨の発言は、極めて重要だと思いますが。--コタルス 2007年7月26日 (木) 07:47 (UTC)
1-中立的観点にあたっては、文章量が全てを規定するものではないが、要素の一つではあり、業績面との文章量のバランスは中立的観点考慮要素の一つとなりえる。2-中立性を維持するにあたっては、ゲーム記事に対する批評などであれば、批判的文章の削除よりもバランスを取った加筆を期待しますが、存命人物記事の場合にはWikipedia:存命人物の伝記の精神に則り、必要とあらば積極的な一時削除もあり得ます。これは名誉毀損問題に対応するためでもあります。3-ブブカの記事は [1] で読みました。これを出典とするにはちょっときつい物があります。その別冊ブブカ2006年6月号によると「人殺し」という語句を用いてまで、批判している文を用いています。そのような語句を用いた文章を(発言の)出典とすることは、バイアスや誇張がかかっている可能性があることを危惧します。また、その発言がどこで行ったのかが、不明になっている点(警察でか、刑事裁判でか、民事裁判でか)にも不安を覚えます。4-本人の業績に大きな影響を与えたことから、事故の記載はされるべきであるし、全削除すべきないことは確かであります。5-(ここから、くだけて書きます。)重要なことで事実認定されたことならば、本人にとって不名誉なことでも書きようはあります。でも、抗議やクレームがあった際にタブロイド紙を信用をして記事を書きましたとは、とても言えないし、言いたくない。そのような出典の記事であれば、修正要請があれば、差し戻すしかない。もし、本当に書きたいのであれば図書館で新聞の縮刷版にあたり、事実を調べて、積み重ねて書く必要がある。裁判にもなった著名人の不名誉なできごとを書くのであれば、その程度の労苦はなされてしかるべき。この事故や裁判のことは本文に書けます。ただし、書くためにはバランスに注意することとちょっと突っ込まれても動じない確実な出典が求められます。なお、確実な出典が得られてもバランス上問題があるなと思った場合には、ここのノートに文章案を残すという手もある。ノートでの文章案であれば、文章量が多くなっても全く問題ないし、自分で出典が見つけられない記述についても(ここの出典確認求むというふうに)協力を求めることもできる。業績とのバランスが取れるようになった時に、改めて本文に反映させれば良い。--Los688 2007年7月26日 (木) 12:49 (UTC)
東方見聞録における死亡事故は事実であり、事実の証明もあり、死亡事故の記述は名誉毀損問題に対応するものではございません。「真実であることの証明がある」場合につきましては名誉毀損問題には対応しません。また、「真実性については必ずしも真実である必要は無く、ある事実を真実と誤認するに相当の理由が認められる場合(確実な証拠や根拠に基づいた場合など)であれば、真実性の欠如を理由としてその責任を問われる事は無い」(最大判昭和44年6月25日刑集23巻7号975頁)。民事においてもこれと同様に判断するものとされております(最判昭和41年6月23日民集20巻5号1118頁)。
また、その事実の内容の真偽を問わない(信用毀損罪の場合は虚偽の事実でなければならない)。公知の事実であると非公知の事実であるとを問わない(大判大正5年12月13日刑録22輯1822頁)。ともされております。
ブブカの記事につきましては、記事の表現の問題ではありません。Wikipedia:検証可能性には、タブロイド紙のような信頼性に乏しい情報源からの情報であっても、その情報が値打ちがあり、重要であれば出典を示せば記述は認められております。ただ、井筒の供述につきましては、裁判時によるものなのか、警察署におけるものなのかは、残念ながらブブカの記事では確認できませんので、記述を避けることに同意致します。
Wikipedia:中立的な観点を改めて熟読したのですが、事故の記述を業績の記述より多く、詳細に記述したからといって偏った記事になるということはありません。お忙しい中誠に恐縮ではありますが、Wikipedia:中立的な観点に、そのような記述が明記されているのなら御提示下さい。
もしも仮に、業績面との文章量のバランスは中立的観点考慮要素の一つであったとしても、私が記述した死亡事故の記述は、偏った記事になるほど莫大な量ではありませんし、業績面も十分記述されております。また、タレントとしての活動や学歴、主な監督作品、著書などの項目を合わせ、井筒和幸の記事を全体的に見れば、事故の記述より、その他の記述の方が記述量が多く、バランスは取れていますし、また映画監督としての来訪と、主な監督作品の項目だけでも、事故の記述よりも多く記述されております。
  • 1991年9月、大作『東方見聞録』の撮影中にエキストラの俳優が死亡する事故が起きる。事故後、映画の仕事から距離を置いていたが、1993年、仙頭武則の依頼により『突然炎のごとく』の監督として映画界に復帰した。(現在の記述より)
これだけの記述では、事故死した俳優の氏名もわかりませんし、どこで起きた事故かもわかりません。遺族に告訴され、管理責任を問われ裁判にまでなったという事実まで記述されておりません。死亡事故が起こった『東方見聞録(映画)』は、井筒自身が監督を務めた映画であり、井筒が監督として初めて時代劇に挑戦した作品でもあります。その映画において出演俳優の死亡事故が起き、死亡した俳優の遺族告訴し、井筒は書類送検され裁判にもなった極めて重要な出来事です。これだけの記述量では不十分です。--コタルス 2007年7月27日 (金) 11:29 (UTC)
コタルスさん、Wikipedia:存命人物の伝記も熟読してください。あと、

1991年9月、映画『東方見聞録』の撮影中、エキストラとして出演していた林健太郎が、静岡県小山町のロケ現場に造られた滝壺のセットで溺れ、翌日死亡する事故が発生した[2]。井筒は助監督とともに業務上過失致死の疑いで書類送検。製作会社のディレクターズ・カンパニーは事故の翌年に倒産し、遺族への補償金は井筒が一人で支払いを続けている。

……という記述を見落とされているようです。項目も再度お読みください。--usagito 2007年7月28日 (土) 00:46 (UTC)
コメントありがとうございます。Wikipedia:存命人物の伝記も再度熟読致しましたが、私の編集に問題はないと思いますが。
ご指摘の私が見落としているという項目ですが、それは現在「監督として」の項目において、表示されておりません。ご確認下さい。--コタルス 2007年7月28日 (土) 01:45 (UTC)

その2 編集

私の行動立脚点は、「存命人物の伝記」にあります。中立的観点と現実の執筆される記事に折り合いをつけることにあります。具体的には、名誉毀損訴訟で勝利するということではなく、名誉毀損訴訟すら起こさせない(起きたときはボランティアプロジェクトであるWikipediaの終了を意味します)ことを目指しています。あと、リスト部分は解説文ではないので、それをもって業績の解説文とするには無理があります。で、「問題ない」というだけでは話が進みませんので、レジメを書きます。--Los688 2007年7月30日 (月) 15:04 (UTC)

  • 冒頭文
  • 映画監督しての来歴(最低10行)
高校時代から映画制作を行う(<追加)
友人と映画制作グループ「新映倶楽部」設立
デビューは1975年「行く行くマイトガイ 性春の悶々」ピンク映画、「新映倶楽部」製作(<追加)
1981年に「ガキ帝国」で日本映画監督協会新人奨励賞を受賞(<どこが評価されたか)
1991年、映画撮影中に事故(>後述)
監督業への復帰
1996年「岸和田少年愚連隊」でブルーリボン賞作品賞受賞(<どこが評価されたか)
2005年「パッチギ」でブルーリボン賞作品賞、2度目の受賞(<追加・2度も受賞したことで高い評価と追記すべきか)
(荒っぽい青春群像やエンターテイメント性の高い作品か???)を作ることに定評がある(<要出典)
  • タレントしての来歴(最低5行)
1990年代半ばからタレント活動も行う。
映画評論も行うが、独自の視点を持つ。(<毒舌の間接表現)
情報番組でのコメンテーターをつとめ、○○の視点からのコメントが多い。(<要出典、見たことないから知らない)
バラエティ番組では○○の役回りを務めることが多い。(<要出典、見たことないから知らない)
(テレビ番組・ラジオ番組があれば、その出演頻度や役回りなど、冠タイトル番組の井筒和幸の土曜ニュースアドベンチャーは本人にとってどのような位置づけであったか)
  • 映画撮影での事故(5行程度)
滝つぼにおける撮影事故の発生(<朝日新聞などを出典)
関係者名および鎧の着用などの事故状況(<朝日新聞などを出典)
「監督の指示」「転倒と思ったため」の表現-事故原因に密接に結びつく(<要出典、警察・検察の判断はどうだったか)
事故の書類送検(<朝日新聞などを出典)
起訴の有無-確認できず(<要出典)
民事裁判の有無-確認できず(<要出典)
裁判中とされる発言(<出典に難あり削除)
賠償にいたる過程-経過不明(<要出典)
賠償金の支払い-製作会社の倒産により、井筒が行っている。(<アエラなどを出典)
  • 撮影リスト
  • 出演リスト
  • 著作リスト
参考

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E7%AD%92%E5%92%8C%E5%B9%B8 http://dir.yahoo.co.jp/talent/2/m04-0432.html http://www.kyoto-seika.ac.jp/assembly/1999/0506.html http://www.iza.ne.jp/izaword/word/%25E4%25BA%2595%25E7%25AD%2592%25E5%2592%258C%25E5%25B9%25B8/ http://q.hatena.ne.jp/1134391604 http://www.jmdb.ne.jp/person/p0035720.htm http://www.kouenirai.com/profile/603.htm http://r25.jp/index.php/m/WB/a/WB000410/tpl/interview01_11/bkn/20041216/id/200412160201 http://www.surugadai.ac.jp/dousou/topics/izutsu_kouen/izutsu_kouen.html

レジメ内容について 編集

ご提案ありがとうございます。「賠償にいたる過程」「賠償金の支払い」はアエラ記事にかなり詳細に記述があるので、必要とあらば書けます。『ガキ帝国』については、当時の評論等を探して詳細を書くべき重要作品だと思われます。著書はいま1冊しかないので、もうちょっと足したいですね。--usagito 2007年7月30日 (月) 15:30 (UTC)

議論は見させていただきました。ちょっと疑問に思うのは、記述量を増やすと中立的観点上問題になるんですか?自分は問題はない。と思いますよ。基本方針に記述量のバランスによって偏った記事になるとは書いていないですよ。事故が記事の全て・・・という状態ではありません。自分は、事故は重要性が高いのですから、5行程度と制限するのではなく、しっかりと死亡事故の記述を隠さず、書くべきだと考えます。210.188.154.77 2007年8月1日 (水) 07:50 (UTC)

ご提案誠にありがとうございます。Los688様の提案された、書く順序についてのご提案には同意致します。そろそろ合意形成をしたほうが良いと思います。名誉毀損については、訴訟が起きることはあり得ません。事故は事実ですし、井筒自身も朝日新聞のインタビューで事故について語っております。出典を示して記述すれば問題はございません。先日、東方見聞録の事故についての朝日新聞の記事を見ました。これらを元にして、前回私が編集した部分についてや、ご指摘の井筒の趣旨発言などについて修正した形で、事故の記述を再度記述したいと思います。--コタルス 2007年8月2日 (木) 12:04 (UTC)
異論がないようですので、Los688様の提案された書く順序の通り、記述いたしました。また、「高校在学中から8ミリや16ミリの映画を撮り始め、1975年(昭和50年)、高校時代の仲間と映画制作グループ「新映倶楽部」を設立」という監督としての業績も加筆いたしました。死亡事故の記述につきましても、すべて朝日新聞(信頼できる情報源)を出典として記述いたしました。ご指摘の井筒の趣旨発言などについては除去しております。--コタルス 2007年8月4日 (土) 02:53 (UTC)
お疲れ様です。最低限のバランスが取れ、概ねよろしいかと思います。2度目のブルーリボン賞受賞を追記しておきましたのと、「酷評」の文字は取りました。編集、ご苦労様でございました。--Los688 2007年8月25日 (土) 02:46 (UTC)

「タレントとして」の項の、「映画批評における失言・出来事等」について 編集

この項に書かれていることはその多くが批判的に書かれていて、百科事典にはそぐわないと思うので、編集すべきです。いくつか点を挙げるならば、

1.「タレントとして」という記事にもかかわらず、「興行的には井筒の「パッチギ! LOVE&PEACE」は、「俺は、君のためにこそ死ににいく」に大惨敗している。」と書かれています。これは「監督として」の記事に書かれるべきことであり、「タレントとして」の記事に書くことは批判としか考えられない。

2.「この件により、映画を観る前に先入観で語ることが多い人物なことが明らかにされた。」とあるが、これは記事に書かれていたりしない限り、ただの考察・研究になっている。

3.「上記のように実際に見ていない映画を批評する姿勢を「見てもいない作品をコケにするのは映画人としてどうなのか。聞いていて不快感を覚える」と評され、監督部門に選出された。」とあるが、この記述の明確な意味がわからない。(「監督部門に選出された」とはどういうことか)

4.「タレントとして」の項には批判的なことばかり書かれていて、中立性が保たれていない。

5.記事の内容の多くがその出所について書かれていない。(根拠づけられていない)

これらのすべてが問題であるかはわかりませんが、もし問題だと思われるならば、編集を助けていただければ幸いです。

1については、確かに書かれている場所がずれているようですね、「映画監督として」の項目に移動させたほうが良いかと。2・3についてですが、確かに批判的で独自研究も含まれているようです。蛇いちご賞の監督部門に選出されたのは、作品の興行成績が最悪だったためではないかと思えますし。4についてですが、一見すると批判的に見えますが、事実なのでしょうがないかと。「この人物の批評がどの程度当てになるか」といった点で参考になるとも思いますし、それを踏まえると、「批判的に見える」との理由で削除することも中立的では無いと思います。中立的に見えるように文章を改正するしかないかと。
あと署名を忘れずに。--風の旅人 2008年1月15日 (火) 04:35 (UTC)

蛇いちご賞の受賞理由に、見てもいない作品をコケにするのが不快だとありますが、それならばもっと以前からやっていましたし、寧ろ2007年は、「西遊記」「HERO」「舞妓Haaaan!!!」等を見に行ったと、TVや雑誌、スポーツ紙にあったので、井筒監督にしてはどうせ見ないであろう作品を結構見に行った年だったと思うのですが。実は、「舞妓Haaaan!!!」「Always 続・三丁目の夕日」といった(特に「舞妓Haaaan!!!」はWebのスポーツ報知のコラムで、井筒監督に貶された事をかなり怒っていたコラムがありました)、読売・日本テレビ系列の作品を貶された事がスポーツ報知は最も不快だったんじゃないかと推測するのですが。 それと、日本人芸者役を中国人に配役した事に怒った人が、在日朝鮮人役をフランスと日本のハーフの人に配役するのはどうなんだとされていますが、私は、これには異論があります。 日本人がハリウッド映画を観て、日本人の役なのに日本人でない他国のアジア人、「SAYURI」のチャン・ツィイーみたいに中国人が配役されていたら、ほとんどの日本人が明らかな違和感を持つと思います。 しかし、在日コリアンの場合、パッと見て、「この人は在日コリアンだ」と言い切れない場合も、結構あると思います。私は、松田優作さん等の在日コリアンの芸能人を、初めは全く在日コリアンだと知らず、後で分かってビックリした事があります。 井筒監督は、パッと見て、明らかにそれらしくない事が嫌なのではないでしょうか。 映画の中で、中国人であろうが何人であろうがその人が日本人芸者に見えるかどうか、フランスと日本のハーフの人であろうが何人であろうがその人が在日朝鮮人に見えるかどうかが大事だと思っているのではないでしょうか。 沢尻エリカさんは、フランスと日本のハーフだそうですが、ハーフっぽさがあまり無かったので、知ったときは驚きましたが。 そうではないでしょうが、もし、在日朝鮮人役には在日朝鮮人しか配役してはいけないと指摘しているのであれば、ヤクザ役はヤクザに、警察官役には警察官、サラリーマン役はサラリーマンという具合に、本物しか使ってはいけないという事になってしまうと思うのですが。 「それらしいからしくないか、それらしく見えるか見えないか」 --以上の署名のないコメントは、116.82.27.179会話)さんが 2008年7月17日 (木) 17:32 (UTC) に投稿したものです。


「タレントとして」の項の、「映画批評における失言・出来事等」について 其の2 編集

そもそも、タレントとしての項に「映画批評における失言等」の記述が百科事典に必要性があるのでしょうか? Wikipediaとは中立的立場で資料を提供し記述されている全てが、不偏不党、正確でなければならないのは共通認識ですが、この項には意に反するような主観的なコンテクストが含まれており、中立性が欠落してるように思えます。 出典において重要な要素は信頼性ですが、信頼性に乏しい情報源を出典として挙げることは容認されるべきではないと思います。 記述される際に主観的な考えや批判的な感情の坩堝がないかを投稿する以前に再確認する必要があるのではないでしょうか? 批判的な意見や見解を述べたいのであれば、ウエブ掲示板や個人ブログ等で自説を述べれば良いと思います。 遵って「映画批評における失言・出来事等」は中立的な加除訂正が必要です。場合によってはこの項を削除も考慮にいれるべきだと思われます。名誉毀損問題にもなりかねません。以上の署名の無いコメントは、219.106.91.117(会話履歴)さんによるものです。

事実のようなので、名誉毀損にはならないと思いますよ。今は必然的に悪い印象ばかりとなっていますが、それが問題であれば、それ以外の良い印象を与える内容を載せるしかないと思います。あと署名偽造はやめましょう、編集の際にアイコンの右から2つめのアイコンを押すか、「~」を4つつけるだけで署名できますよ。--風の旅人 2008年9月4日 (木) 15:58 (UTC)

私も219.106.91.117さんの意見に同意いたします。 加えるならば、そもそも「失言」と決め付けて良いかという問題も有りますね。 下で多重アカウントで記述されている方とは別件になりますが、記述者の価値観でネガティブに誘導するというのは問題だと感じます。--61.192.241.93 2008年9月24日 (水) 18:11 (UTC)

削除理由について説明を(Pianoforte氏へ) 編集

Pianoforte氏の会話ページにおいても述べましたが、ここでも述べさせていただきます。貴方の削除理由をこの場でご説明いただけませんか?私は会話ページでご説明しております。しかし貴方は要約欄に記述し、強行削除を繰り返すのみです。ご説明、よろしくお願いいたします。

この場をお借りして、再度私の記載理由及び反論を述べさせていただきます。Pianoforte氏は、

「そこまでしてこの乱雑で無秩序な記事を掲載するという意図がわかりません。主観的感情を表明したいのであれば個人ブログ等でそうぞ。百科事典に掲載できるレベルではございません」

「このくだりは、主観的でありその後の業績を投影しておらず、読み手に理不尽な固定観念を抱く要素がある為削除」

と、言われますが、「意図がわからない」「主観的」「固定観念を抱く要素がある」等、自分勝手な理由だと言わざるを得ません。自分勝手な理由で削除することは許されることではありません。 ウィキペディアの記述は、主観的であろうが、固定観念を抱く要素があろうが、明確且つ信頼できる情報源を示していれば、記述可能であり、ガイドラインを無視し、一方的に削除することはできません。ウィキペディアのガイドラインには「学説、見解、主張、意見、および議論について言及すべきです。」に明記されてあります。 私の記述内容は、明確且つ信頼できる情報源を示しており、記載可能です。監督への批判は百科事典を作成する上で、極めて重要なものであり、閲覧者への利益も大きい。また、ウィキペディアのガイドラインに一切違反しておりません。無秩序で乱雑でもありません。もし、ガイドライン等に違反しているならば、ガイドラインを添えて具体的にご指摘下さい。繰り返しになりますが、強行削除はお止め下さい。--コタルス 2008年9月6日 (土) 05:10 (UTC)

ちょっと口をはさみます。いくら情報源があるとしても、批判のみを記入することは中立的な観点から見て問題があるのではないでしょうか。井筒監督はブルーリボン賞受賞などの実績などもありますし、これまで批判のみされてきたとは考えにくいです。批判的な意見という一方の面から見るのではなく、他の様々な面についても触れて書くことで、この方がどのような人物なのか、読者はより深く理解できるのではないでしょうか。ウィキペディアは百科事典なのですから、単に「どこそこでこういう批評がされた」だけではなく、もう少し深く説明して頂きたいと、思いました。なお、これは記述を消したIP利用者の方を擁護するものではありません。単に相手の編集を差し戻すのではなく、ノートなどでよく話し合って頂きたかったです。--Bellcricket 2008年9月6日 (土) 08:31 (UTC)
自分の会話ページにもお誘いをいただいたので出てきました。削除した理由は簡単で、日本語も間違っているし、要領を得ない記述だからです。そもそも「知名度」は時代によって変化するものであり、2001年当時の雑誌記事(執筆者も記事の種別も不明)に書いてあった評価が、その後監督として話題作を立て続けに発表した後の現在にあって、そのまま通用するとは思われません。情報源があるといっても、下手な文章を書く人物による記述では、きちんとした引用なのかどうかさえ疑われます。再検証しようにも、何ページの誰が書いた記事なのかがわからないので、事実上、出典表記として機能していません。また、最初に「文章が正しくない」と指摘したのに、一字の修正もなしに再掲載してきたことから、「適切な指摘に耳を貸さない、あるいは文章のどこがおかしいのか発見できない人物による無責任な行為だな」と判断しました。--usagito 2008年9月7日 (日) 11:17 (UTC)

理由について(コタルス氏へ) 編集

確かにコタルス氏の記述はガイドラインに反してないのかも知れませんが、 ガイドラインに違反していないという理由で、どんなものでも掲載して良いとは思えません。

コタルス氏の言及されている記載理由の 「監督への批判は百科事典を作成する上で、極めて重要なものであり、閲覧者への利益も大きい。」 という主張は私には理解できません。井筒監督を語るうえに批判は重要なものなのでしょうか? これこそまさに主観的なご意見の現れじゃないのでしょうか?

井筒和幸さんの過去ノートページにおいて、コタルス氏は「井筒和幸を批判・糾弾しようなどとは一切思ってはおりません。」 と言及なされていましたが、上記の言及との相関に矛盾をきたしているように思えます。

中立的な観点はウィキペディアの記事における方針でもあります。 アンチなニュアンスを含む主観的な記述はたとえ出典があり、ガイドラインに違反してなくとも、 掲載にあたりノートページに提案し、議論のうえ掲載するのが望ましく思えます。

不特定多数が容易に閲覧することができる場において、不用意な記述は注意しなければなりません。 専断するということは、場合によっては名誉毀損等に問われる可能性があり注意が必要です。 重要なのは個々がモラルを持ち合わせ、言動の重みを認識して慎重に情報を発信するということだと思うのです。

私がおこなった行為が荒らしにあたると判断されたのなら、それは仕方ないことだと思います。 ただ荒らし目的でコメントしていた訳では無いということを改めて申し上げます。--Pianoforte 2008年9月6日 (土) 08:35 (UTC)

横から失礼。確かに今回の記述に関しては、事実も批判的な内容ながら、記述に関しても批判的な文章でした。ただ個人的には事実は全て載せるべきだと考えていますし、出典もあるようなので、文章を改善して記載するべきだと思います。
中立性に関しては難しい問題ですが、例えば良い印象が50、悪い印象が100だとしても、悪い印象を削って50にするわけにはいきません。それこそ意図的に悪い印象を削除した「中立性に欠ける内容」になってしまいますから。--風の旅人 2008年9月6日 (土) 09:05 (UTC)
お返事ありがとうございます。また、風の旅人さん、Bellcricketさん、皆さんご意見ありがとうございます。
「井筒和幸を批判・糾弾しようなどとは一切思ってはおりません。」とは、私が「井筒を貶めてやろう」、「井筒の評価を下げてやろう」というような、偏った個人的な感情・意図を一切持っていないということです。私は当然ながら、今でも一切持っておりません。批判目的の記述ではなく、記事の発展と、閲覧者の利益のため、さらには中立的観点の確保のために記述を行っております。
繰り返しになりますが、批判があるという事実があり、信頼できる明確な出典が示されている以上、それを記述することは当然であり、「井筒和幸には評価されることもあれば、批判されることもある。」という事実を記述することには、閲覧者にとって大きな利益があり、それが百科事典です。批判が記述されていることによって、閲覧者は井筒和幸に批判があることを知り、様々な角度から井筒和幸を知ることができます。業績や評価されていることから、井筒和幸を知ることもあれば、批判されていることから井筒和幸を知ることもあります。業績と評価・批判の両面を記述することによって中立的となります。以下にもある通り、現在記事内には井筒和幸のこれまでの業績や評価されたこと、受賞した各種賞や、さらには映画撮影のエピソードまで記述されており、これに対して明確な批判が存在するのに、それを記述せず、削除を強行するような記事は中立的ではありません。井筒和幸の業績と評価されたことだけを書いた偏った記事になってしまいます。
(現在、記事内に記述されてある井筒和幸の業績・評価・受賞した賞に関する一例)
1996年公開の『岸和田少年愚連隊 BOYS BE AMBITIOUS』は、関西出身の監督らしく、大阪の土着的な風景をフィルムに定着することに成功し、ブルーリボン賞作品賞を受賞するほどの評価を得て、監督としての評価を確立する。その後、1999年の『のど自慢』や2003年の『ゲロッパ!』など立て続けに話題作を制作。
2005年の『パッチギ!』は、ザ・フォーク・クルセダーズの名曲「イムジン河」をテーマに、在日朝鮮人日本人の高校生どうしの、抗争と恋愛を描き話題となる。2度目のブルーリボン賞作品賞を得るなど、多くの映画賞を受賞した。
(井筒の作品である『TO THE FUTURE』は)現代社会に蔓延る問題を鋭く描いた作品である。
(以上引用)
また、中立的観点を理由に記述内容を削除することはできません。公式基本方針である『Wikipedia:中立的な観点』には次のことが明記されてあります。「(偏った意見を削除することは)多くの場合、問題です。われわれの多くは、ある記述が偏った見方から書かれているという事実だけでは、その記述を即削除してしまう理由としては不十分だと考えます。もしもその記述が完全に妥当な情報を含んでいるなら、それを活かすべく編集されるべきで、削除されるべきではありません。」今回の私が記述した内容は、完全に妥当な情報源を明確に示しており、中立的観点上も問題はなく、削除することはできません。
各種ガイドラインに違反していない以上、記述は認められなければなりません。記述が認められない理由は何もありません。ガイドラインは、Wikipediaの全利用者が従うべきとされている公式方針でありますこと申し上げておきます。これに対して、Pianoforte氏は「コタルス氏の記述はガイドラインに反してないのかも知れませんが、ガイドラインに違反していないという理由で、どんなものでも掲載して良いとは思えません。」と言われましたが、これはガイドラインに反するご意見・姿勢だといわざるを得ません。ガイドラインに反していないにもかかわらず、「(この記述は)個人ブログでどうぞ」と仰り、削除を強行する行為は、荒らし行為に該当します。
ガイドラインに反していなくても、それでも記述内容に疑問があるのであれば、それは削除を強行するのではなくノートページで質問を行うべきです。--コタルス 2008年9月7日 (日) 04:36 (UTC)

>ガイドラインに違反していない以上、記述は認められなければなりません。記述が認められない理由は何もありません

もし本気でこう考えておられて、この信念で議論されているのなら、数か月は編集から離れ、物事を俯瞰的に開設するとはどういうことか、事実とはだれにとっても事実か、あまたある事実からどの情報を選びどの情報を捨てるか、バランスをとるということはどういうことか、など、じっくり考えることをお勧めしたいですね。こんなことは、ウィキペディアの基本方針云々以前の問題でしょ。文章の構成力・伝達力の問題かもしれない。少しお休みください。--はるひ 2008年9月7日 (日) 11:25 (UTC)

申し訳ございません、なぜそのようなことを言われるのかよくわからないのですが。でははるひさんは、バランスをとるということについてなどのことを、どうお考えなのですか。「こんなことは、ウィキペディアの基本方針云々以前の問題でしょ。文章の構成力・伝達力の問題かもしれない。少しお休みください。」とはどういうことでしょうか。はるひさんの主観で挑発的な言動をされておられるのでしょうか。はるひさんにそういう意図がないとしても、そう取られても仕方のないご発言です。そもそもノートページは、「数か月は編集から離れ」「少しお休みください」などといったことを述べる場ではないと思いますが。以上のはるひさんのご発言は、Wikipedia:礼儀を忘れないに反するご発言だと思いますので、お控えいただきたくとともに、発言の訂正をしていただきたく存じます。
はるひさんのお答えは、上記の私の意見への反論にもなっておりません。私の記述内容の一体どこに問題があるのかを、ガイドライン等を添えて具体的にご提示下さい。--コタルス 2008年9月7日 (日) 13:34 (UTC)
返答ありがとうございます。私はガイドラインについてなどコタルス氏に質問しておりません。井筒監督の業績・評価等を引用まで用いてご説明いただかなくても、理解しておりますし、また、中立的観点においてもご説明いただかなくとも、熟知しております。私の意見を読解していただけたのでしょうか?重要なのは個々がモラルを持ち合わせ、言動の重みを認識して慎重に情報を発信することで、批判することではございません。こんなことガイドライン云々ではなく、常識の問題です。善悪の判断ができないようなので、私はこれ以上論議する気はございません。--Pianoforte 2008年9月7日 (日) 17:08 (UTC)

私の意見が答えになっていないということであれば、五本の柱などを熟読し、それを咀嚼していただくしかないですね。自分の目についた事実だけをとりあげて、「事実だから、書きたいから、かくんだ」という瑣末なところだけ書くのではなくて、全体像をみることが必要でしょう。それはウィキペディアの方針以前に、文書を書くという行為の問題なので、それがご理解できないなら、やっぱりお休みいただいて(まだ20歳前後の若年者さんのようなので)、すこし文章技法などについて経験を積まれることをお勧めします。目についたことだけ書いているのは、雑多な節と変わりはないですから。ウィキペディアの参加者はそこまで教育する立場ではなくって、WP:NPOVの「実現方法」は各参加者が咀嚼して行くしかないんですよね。また、自分が取り上げようとしている事実が、他の多くの事実と比べてどうして取り上げられるものなのかも考えなければ。コタルスさんは、書きたいから書く、根拠があるから書く、というだけですよね。その事実というものの軽重、全体における位置づけまで考えなければ。やはり全体像を鳥の目で俯瞰できるようになる必要がありますね。もちろん、バランスよく書いていただけるのであれば批判は起きないはずです。私たちはメモ帳を作っているのではなく、「質の高い百科事典」を作っているのですから。たぶんこれ以上は平行線でしょう。少し、お休みになって、これまでについた意見を第三者的な目で見てみてください。--2008年9月7日 (日) 23:23 (UTC)--以上の署名のないコメントは、はるひ会話)さんが 2008年9月7日 (日) 23:26 (UTC) に投稿したものです(コタルスによる付記)。


まず、Pianoforte氏へご返答いたします。貴方のご発言は、私の意見への反論にも、返答にもなっておりません。ガイドラインではなくご自身の常識を振り回して、それを押し付けているようにしか見えませんね。ウィキペディアは貴方の常識を適用する場ではございません。そのようなものは一切適用されません。ウィキペディアのガイドラインが適用される訳であって、削除するのにも貴方の常識に基づいて行うのではなく、ウィキペディアのガイドラインに基づいて行わなければなりません。そんなことはウィキペディアユーザーとしては常識です。「批判することではございません」と仰いましたが、これは批判は書くなということでしょうか。前にもご説明した通り、批判は重要な要素であり、記述することはガイドラインに違反するものではありません。「重要なのは個々がモラルを持ち合わせ、言動の重みを認識して慎重に情報を発信することで」とも言われましたが、私はモラルを持って行動していると自覚しておりますし、私はモラルをもって、今回の記述を記載致しました。もし、私の今回の編集にモラルがないと言われるのなら、どの点がモラルがないのかご指摘下さい。また、強行削除を繰り返しておきながら、「これ以上議論する気はない」とはどういうことでしょうか。責任を放棄されていると言わざるを得ません。
はるひ氏も、ご自身の常識を振り回して、それを押し付けているようにしか見えません。ウィキペディアは貴方の常識を適用する場ではございません。繰り返しになりますが、バランスの点でも、百科事典的という点でも、私の記述内容は全く問題はありません。(私は五本の柱は全て、熟読いたしております。熟読した上で議論に参加しております。)
もし、問題点があるならばガイドラインを添えてご指摘下さいと何度も繰り返し申し上げているのにもかかわらず、貴方はそれに対し、具体的な指摘を何一つなされないばかりか、「やっぱりお休みいただいて(まだ20歳前後の若年者さんのようなので)」と、今回の議論と全く関係のないことを述べております。前回、この点に関して『Wikipedia:礼儀を忘れない』に反するご発言だと思いますのでお控えいただくことと訂正を求めたにもかかわらず、訂正しないばかりか、さらに同様の言動を繰り返しておられます。非常に残念な態度だといわざるを得ません。

>バランスよく書いていただけるのであれば批判は起きないはずです。

本気でこのようにお考えであるならば、貴方の見識を疑わざるを得ません。バランスよく書いていても、偏った観点から書きたい、どうしても納得できないというユーザーの方が存在してしまうのは、管理者である貴方はよくご存知だと思いましたが。ましてPianoforte氏はガイドラインも理解されておられない、ウィキペディアの初心者の方です。それなのに、そのようなことが、私の記述がバランスがとれていないという理由だと言われるのにはやはり、貴方の見識を疑わざるを得ません。

>コタルスさんは、書きたいから書く、根拠があるから書く、というだけですよね。

前回の私の意見を全くお読みになってくださらなかったようですが、議論に参加されるのなら私の意見をお読みになって下さい。繰り返しになりますが、私が記述する理由を以下にて再度述べさせていただきます。
批判があるという事実があり、信頼できる明確な出典が示されている以上、それを記述することは当然であり、「井筒和幸には評価されることもあれば、批判されることもある。」という事実を記述することには、閲覧者にとって大きな利益があり、それが百科事典です。批判が記述されていることによって、閲覧者は井筒和幸に批判があることを知り、様々な角度から井筒和幸を知ることができます。業績や評価されていることから、井筒和幸を知ることもあれば、批判されていることから井筒和幸を知ることもあります。業績と評価・批判の両面を記述することによって中立的となります。現在記事内には井筒和幸のこれまでの業績や評価されたこと、受賞した各種賞や、さらには映画撮影のエピソードまで記述されており、これに対して明確な批判が存在するのに、それを記述せず、削除を強行するような記事は中立的ではありません。井筒和幸の業績と評価されたことだけを書いた偏った記事になってしまいます。ですので、批判は存在するならば記述されなければなりません。
おわかりいただけたと思いますが、私は「書きたいから、根拠があるから書く」というだけの理由ではありません。上記のような閲覧者の利益や、中立的な記事の形成、記事の発展の一助になると思い、記述いたしました。--コタルス 2008年9月8日 (月) 08:50 (UTC)

一通り読んでいます。ひとまず、例えばBellcricketさんのおっしゃっていることも参考にしてみてはいかがでしょうか。このご意見はあなたのとる立場と相容れないものではないですよね。(井筒氏の評価に関して)肯定的評価の反対側の天秤に載せて均衡をとれるレベルの批判、とでもいえばよいのかな、そういうものなのかどうか、もしそういうものなのであれば、批判者が具体的に誰か、とか、そんな加筆を加えるだけで説得力は増すのではなかろうかと思います。そういうことも踏まえていただけるとよろしいのではないでしょうか。Bellcricketさんのご意見をそういう観点で読んでみると、至極常識的なことをおっしゃっているように思います。コタルスさんは、当初からPianoforteさんを荒らしと決め付けてしまったり、ちょっと熱くなっていたようにみえますので、ご自分の主張を述べ続けるだけでなく、1日2日自説を述べるのを休んで、2,3歩引いたところから眺めてみる、というのも、とっても大切なことなんじゃないのかなぁ、と思います。で、どこかで、編集者間であゆみよっていきましょう。--はるひ 2008年9月8日 (月) 10:14 (UTC)

リクエストがございましたから、方針分を交えてご説明いたしましょう。批判が「ある」というのは、確かな事実でしょう。どのような巨匠であっても、全ての人に受け入れられる作品を作ることは、まず不可能なことでしょうから。しかし、「事実があるから、記述して当然」というのは、Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか#ウィキペディアは演説をする場所ではありませんの9、「事実の暴露や報道をする場所ではありません」で明確に否定されている考え方です。果たしてコタルスさんが書き続けてきた批判が、世の中でどの程度知られていることなのか、残念ながらコタルスさんの書き様では、わからないのです。それを説明できるひとつの手段として「信頼できる情報源」というものがありますし、コタルスさんは何度も「信頼できる出典がある」とおっしゃっています。しかしUsagitoさんのように、そもそも出典に懐疑的な方もいらっしゃいます。どうしてもコタルスさんが今回編集合戦の原因となった記述を加えたいのでしたら、また、今後も同様の信念を持って編集を続けられるのでしたら、出典の信頼性など「世の中でどのように知られた情報か」を明らかにしていただきたく思います。それができない文章は、検証可能性を満たさない独自研究の、それもWikipedia:中立的な観点にそぐわない、批判的な部分のみを取り上げた文章、ということになってしまいます。
私の考えは以上のとおりです。他者との考え方とご自身の考え方を比べてみて、相違点についてまとめることで、歩み寄る余地がおのずと見つかるものと、信じております。--Bellcricket 2008年9月8日 (月) 13:50 (UTC)
横から失礼します。議論はすべて拝見しました。また、議論となっている記述も拝見しました。自分にはどう考えても、コタルスさんの主張が正しいとしか思えません。またBellcricketさんの削除行為は荒らしと判断します。管理者であるはるひさんが、Bellcricketさんの主張が「正しい!」と言われるのはどうしても納得いきません。
出典はきちんと明示されてあるし、問題はない。出典先について色々言っているが、出典先である『映画秘宝』はきちんとしており、且つ著名な映画雑誌で、主なライターの方にも著名な方が多い。批判の記述は著名な映画雑誌である『映画秘宝』を通して世間に知られた情報。Bellcricketさんが何でないかの「事実の暴露や報道をする場ではない」を変な方向に拡大解釈しているが、それは自分で見ただけの事実をそのまま書きこんではならない。ということ。例えば、報じられてもいない芸能人が交際している事実を目撃した。だからWikipediaにその事実を書き込む(暴露する)。このようなことを禁止したものであって、きちんとした出典からの記述を禁止したものではない。これは普通、ウィキペディアンであれば常識かと。
以上が自分の率直な意見です。--カスター 2008年9月9日 (火) 05:30 (UTC)
カスターさんに確認です。一つ上の節にも書きましたが、自分は、コタルスさんの今回の引用がちゃんとしたものかどうか、疑わしいと考えています。カスターさんは、コタルスさんの引用が「正確かつ適切」であることを、ご自身で確認されましたか? 「映画秘宝」の当該号をお持ちであれば、何ページの、誰の何という記事で、前後の記述がどうなっているのか、ご紹介ください。--usagito 2008年9月9日 (火) 06:24 (UTC)
◆この議論を、正しい、間違っているという二元論でしか捉えられないようなら、議論に参加するのはどうなのかなぁ、と思わざるを得ません。そんなレベルの話はしていないわけですが、正誤論で議論に参加されるとややこしくなります。ウィキペディアんにとっての常識なるものって、なんなのでしょうね。事実だから書くとか言うことではなくて、その事実の信憑性、天秤のもう一方とのバランス、それらを踏まえて記事全体を鳥瞰できる目、それが必要なのではないでしょうか。Bellcricketさんが荒らしだなどという暴論を述べられるのは、いかがなものでしょうか。--はるひ 2008年9月9日 (火) 08:05 (UTC)

カスター氏に同意です。信頼できる出典がある以上、その事実(批判されているという事実)を記載すれば良いのではないでしょうか?出典の中身が事実かどうかを私たちが判断していたら、それこそオリジナルリサーチであり、問題だと思います。また「事実の暴露」については公の言いたいことを言っている人間に対し、その批判の事実を載せることが、方針の「事実の暴露」には当たらないと思います。どこからどこまでが「事実の暴露」になるのか、その範囲もあやふやで個人の判断に過ぎないと思いますし。バランスに問題があると感じる方がおられるならば、評価されている「事実」を見つけ出し、記載していけばよいだけです。今回の出典が疑わしいとおっしゃっていおる方がおられますが、疑わしいと思うならば、そう思う方が、ここでとやかく言っていないで、ご自分で調べ確認するべきでは?ページ数まで書くのは親切ですがそこまでする義務はないはずです。--Tyoron 2008年9月9日 (火) 14:12 (UTC)

それでは振り出しに戻るわけですね。--はるひ 2008年9月9日 (火) 14:17 (UTC)
戻る必要があるならば、戻るべきでは?結論は出てないように思えますので。--Tyoron 2008年9月9日 (火) 14:19 (UTC)
あれ?カスター氏はコルタス氏だったんですか?--Tyoron 2008年9月9日 (火) 14:39 (UTC)
(多重アカウントの不正使用について)そのようです。多くの人に対して、とくにコメントを付けてくれた人に対して、これほど無礼なことはない。子供さんのやったこととはいえ、こういうことは今後は内容にしていただきたいものです。
(Tyoronさん)振り出しに戻す必要などないです。議論を最初から読んで咀嚼していただきたいですね。Bellcricketさんが基本的な論点とコタルスさんの論の要改善点を指摘されていらっしゃいますから。どちらが正しいとか、そんな話でもないですしね。
この議論は終わりましょう。もし議論の必要があるとお考えの方は、仕切り直しで改めて提議してください。--はるひ 2008年9月9日 (火) 14:49 (UTC)
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