ノート:仙台真田家

最新のコメント:1 日前 | トピック:仙台真田氏 | 投稿者:背番号9

仙台真田氏

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記述されている「真田氏の始祖 守信が幸村の次男」と言うのは 出典は 何なのでしょうか。 仙台人名大辞書の真田の項は 間違いが記されています。この事は当辞書の後継会である仙臺郷土研究会の会長から「真田の項は 誤謬」との回答を得ています。よって、それを参考にして作られた本には間違いが載っています。 私は 出典として 相応しいのは 宮城県姓氏家系大辞典のような家系の専門家が著した本等だと思います。 尚、蔵王町の後援社であったNHK仙台局 及び 河北新報も、仙台真田家は 幸村の子孫でないとして ページを削除しました。 結論として、仙台真田氏は「幸村の叔父さんの子孫」と するのが正しいものと思いますが 皆さんはどう思いますか。--深谷藤原三能会話2024年4月27日 (土) 09:03 (UTC)返信

  情報 真田守信を信繁の次男・大八とする説を紹介している文献として、以下のものを確認しました。
  • 少年期、京に在住していたが、「印字打ち(=石合戦)」で落命したと史料には記されている。しかし、これは偽装で、実際の大八は次姉・お梅の許に身を寄せ、片倉久米之介守信と称して三六○石を与えられ、寛永一〇年(一六三三)に没したという。 - 小林計一郎 編『[決定版]真田幸村と真田一族のすべて』株式会社KADOKAWA、2015年7月21日、274-275頁。ISBN 978-4-04-601142-8 
  • なお、伊達氏や片倉氏に匿われた信繁の子女は、阿梅だけでなく、・・・大八(信繁次男、後の片倉守信と称す、寛文十年歿)らも保護されたという(小西幸雄①②)。 - 平山優『真田信繁 幸村と呼ばれた男の真実』株式会社KADOKAWA、2015年10月25日、369-370頁。ISBN 978-4-04-703563-8 
    • (小西幸雄①②)とは小西幸雄①『仙台真田代々記』宝文堂、1996年、小西幸雄②『真田幸村と伊達家』国宝大崎八幡宮、仙台・江戸学叢書65、2015年を指す。
  • なお、信繁の妻も九度山に同行しており、ここで長男大助(幸昌)、次男大八(守信)、女子三人が生まれた。 - 笹本正治『真田氏三代―真田は日本一の兵―』ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選〉、2009年5月10日、221頁。ISBN 978-4-623-05444-2 
  • 次男大八も同様に、片倉家を頼ったとされる。しかし大八について、真田氏側の記録は五月五日に京で印字打(石合戦)をしていたところ、当たり所が悪く夭折したとする。これが事実であれば、九度山蟄居時のことであろう。一方、仙台藩側の記録では、大八は片倉家に庇護され、片倉守信を名乗ったとしている。五月五日死亡説は、片倉家が出自を隠すために流布した偽情報であるという。 - 丸島和洋『真田四代と信繁』株式会社平凡社〈平凡社新書〉、2015年11月13日、258-259頁。ISBN 978-4-582-85793-1 
--こやまひろ会話2024年5月10日 (金) 05:57 (UTC)返信
深谷藤原です。
コメント有難うございます。
確かに それらの本には そう記されておりますが それらの本は 面白おかしく書かれた講談本や仙台人名大辞書を参考にして書かれた本を参考にしたもので、守信が生きていた江戸時代当初の記録ではありません。正しいのは 守信の子辰信が記した書置き、及び伊達世臣家譜だと思います。
尚、丸島さんの真田丸以前の本と 最近の研究結果では認識が変わっております。
真田家の子孫を称する人は「死亡の噂を流したので お寺が死亡」と記したのだと主張しているが
真田丸の時代考証者である丸島さんは「はっきり言えることは 幸村の二男 大八は、徳川の世になり、
戦が起こるかどうかわからぬ頃、即ち、豊臣秀頼から声がかかる数年前に亡くなっていると言う事です。
昌幸及び幸村は 兄 信幸の嘆願で死を免れた事からすれば 時が過ぎれば 幸村も許される
可能性もあった。この頃、大八を死んだことにする必要も無い」と 思いを変えております。
要するに、真実は、大八は 亡くなっており、守信とは 別人で、守信は 伊達世臣家譜にあるように幸村ではなく「政信の子」と言う事です。
また、平山優さんからは まだ返事が来ていませんが、丸島さんと友人のような付き合いをしている平山さんですので 認識は同じだと思います。
尚、ウイキペディアには3原則があるので、この場で その本が正しいかどうかを話し合いませんが、守信が幸村の子でない状況証拠を記します。
守信が幸村の子なら 嫁に行った阿梅が竹林院の位牌を引き取るわけもなく、立派な伊達藩士になった守信が引き取るはずです。幸村の息子でないので 阿梅は当信寺に頼んだ訳です。
また、守信と一緒に暮らしていた辰信が記した家の書置きには 守信の父を内記(政信のこと)と記しました。そして、伊達世臣家譜を記すに当たって 藩主の命を受けた儒学者 田辺 希文は 真田 信成(3代目)を呼び出して 話を聞いて「政信の子 沖允守信」と記したものと思われます。
即ち、当時を生きた人が書いた書物が事実だとは 思いませんか。
この5項目をご覧になって 貴方の感想をいただければ幸いです。--深谷藤原三能会話2024年5月13日 (月) 11:20 (UTC)返信
ひとまず、以下の2点について書誌情報をご提供ください。お示しいただいた情報源のうち、『伊達世臣家譜』以外のものについて特定が不足しており、確認しようにも確認するすべがない状態です。
公刊物であれば少なくとも書名・出版年・発行者の提示、可能であればページ番号もご提供ください。
非公刊物の場合は所蔵館をご教示ください。
  1. 「守信の子辰信が記した書置き」の内容に関する資料
  2. 丸島和洋氏の「最近の研究結果」に関する資料
なにとぞよろしくお願い申し上げます。-- こやまひろ会話2024年5月15日 (水) 16:51 (UTC)返信
深谷藤原です。
1.辰信の家の書置きは 蔵王町が作った数万部のパンフレットの画像です。
2.丸島さんの記録は メールでもらったか、本から引用したか 今は 定かではありません。
調べるのに時間を要します。
それよりも
歴史家が記した本よりも家系の専門家が記した辞典の方が正確だとは思いませんか。
1.宮城県姓氏家系大辞典、1994年 角川書店 p.694
2.大八が夭折した事は 幕末に記された「真田家の正史『真田家御事蹟稿』のうち、信繁(幸村)の伝記である『左衛門佐君伝記稿』」の53ページ上段に記されていることです。
この2点で充分と思いますが 如何なものでしょうか。--深谷藤原三能会話2024年5月16日 (木) 06:00 (UTC)返信
まず、丸島和洋氏の「最近の研究結果」に関する資料ですが、現状では検証可能性がないため、申し訳ありませんが、それにもとづいた記事の執筆はこのWikipediaではルール上できません。
続きまして、ここまでに資料としてあげられたものを時系列順に整理したものが以下となります。
年代 資料名 著者 記述内容
1678年(延宝6年) 真田家代々書上 真田辰信 曾祖父 真田隠岐守(信尹
1792年(寛政4年)ごろ 伊達世臣家譜 田辺希文・希元・希績 政信の子 沖允守信
1843年(天保14年) 真田家御事蹟稿 河原綱徳 大八 於京都早世
1994年(平成6年) 宮城県姓氏家系大辞典 宮城県姓氏家系大辞典編纂委員会(竹内理三ほか) 政信の子 守信は 父の死後、白石の片倉家に身を寄せた
2009年(平成21年) 真田氏三代―真田は日本一の兵― 笹本正治 次男大八(守信)
2015年(平成27年) [決定版]真田幸村と真田一族のすべて 小林計一郎 少年期、京に在住していたが、「印字打ち(=石合戦)」で落命したと史料には記されている。しかし、これは偽装で、実際の大八は次姉・お梅の許に身を寄せ、片倉久米之介守信と称して三六○石を与えられ、寛永一〇年(一六三三)に没したという。
2015年(平成27年) 真田信繁 幸村と呼ばれた男の真実 平山優 大八(信繁次男、後の片倉守信と称す、寛文十年歿)らも保護されたという
2015年(平成27年) 真田四代と信繁 丸島和洋 次男大八も同様に、片倉家を頼ったとされる。しかし大八について、真田氏側の記録は五月五日に京で印字打(石合戦)をしていたところ、当たり所が悪く夭折したとする。これが事実であれば、九度山蟄居時のことであろう。一方、仙台藩側の記録では、大八は片倉家に庇護され、片倉守信を名乗ったとしている。五月五日死亡説は、片倉家が出自を隠すために流布した偽情報であるという。
これらの資料について、以下の点を指摘したいと思います。
  • 2000年以降の資料4件では、いずれにおいても大八=守信説を紹介している。
  • 大八=守信説(新説)に対する批判を行った上で守信=政信子説(旧説)を採用した専門家が今のところ確認できない。
  • 2015年の資料3件では、文末を「という」とすることで大八=守信説による断言を避けている。
  • 『真田四代と信繁』は両論併記という形を取り断言を避ける。
以上にもとづく私の見解は以下の通りです。
  • 大八=守信説(新説)が複数の歴史学者によって紹介された後、専門家による否定がなされていない現在の状況では、この説の記述を直ちに削除することはできない。
  • 『真田四代と信繁』が両論併記としている以上、守信=政信子説(旧説)は新説によって覆されたとは言いがたく、この説もWikipedia記事中に記載すべきである。
--こやまひろ会話2024年5月16日 (木) 17:19 (UTC)返信
深谷藤原です。
なるほど 貴方のコメントで ウイキペディアと言うものが だいぶ良くわかりました。
理路整然とした記述、たいしたものだと感心しています。
また、貴方の見解も大変参考になりました。
有難うございました。--深谷藤原三能会話2024年5月17日 (金) 09:36 (UTC)返信
お世話になります 深谷藤原です。
貴方のコメントに感心して忘れていましたが 大八死亡の記録は 江戸時代初期の古文書にあるのです。
私は 大八死亡は 100%と確信していましたが 今回 貴方のコメントでは 50%の半々との感触のようです。
また、2000年以降の資料を重要視されているが、大八・守信が生きた時代に記された文書こそが
事実だと思います。
近いうちに丸島さん等のコメントが出れば 貴方の考えも変わるものと思います。
まずは、
大八は「大阪落城後 殺されたのではない」と記されている、
日本の武将64 小林計一郎著 1966年 人物往来社  p.91
https://www.myouji.org/sanada-kobayashi-jinbutsu.htm
1598年~1680年の史実を記した玉露叢に「大八 於 京都 早世」と
記されているとしている『左衛門佐君伝記稿』なのです。
とりあえず以上です。--深谷藤原三能会話2024年5月18日 (土) 00:04 (UTC)返信
お世話になります 深谷です。
まずは 笹本さんの回答です。
笹本です。
「真田守信として 仙台真田氏へと繋がっていったような記述がありました」とのことですが、私が真田氏の関係で書いたのは『真田氏三代』だと思いますが、どこに記述したのか見る限りではわかりません。
私は個人の系譜的なことには興味がなく、書いたとすれば他の一般的な記述を参照したものと思います。
守信と大八の関係については研究しておりませんのでわかりません」と。
追って あとの二人から回答くれば ここに記します。
終わり--深谷藤原三能会話2024年5月19日 (日) 02:56 (UTC)返信
お世話になります 深谷藤原です。
5/27日。歴史学者 平山先生から連絡が入りました((株)ポニーキャニオンの経営企画部の責任者を通して)。
「大八(信繁次男、後の片倉守信と称す、寛文十年歿)らも保護されたという」について。
平山さん曰く
「判断に質する文献が現状なく、お答えすることが叶いません」と。←回答をそのままコピー。
要するに深谷藤原が思うに、判断に資する文献がないのに2015年の本には 「大八=信繁の次男」と、記したと言う事です。
しかし、今回は 伊達世臣家譜など 大八・守信が生きた時代に記された文書と、家系の専門家が記した宮城県姓氏家系大辞典(1994年 角川書店発行)等の文書を付けて 判断を仰いだにも関わらず以上の短い回答でした。
これは まさに驚きの回答でした。
尚、丸島先生の思い「はっきり言えることは 幸村の二男 大八は、徳川の世になり、戦が起こるかどうかわからぬ頃、即ち、豊臣秀頼から声がかかる数年前に亡くなっていると言う事です」と言う文章は 今は 削除されているホームページに記されていた事と判明しました。
とりあえず、大八と守信の関係のコメントは以上です。
ところで、こやまひろ様、質問です。
現在の仙台真田家の編集に関して、脚注のリンク先が消えており 見っともない状況になっています。そこで、
編集するに当たって 出典を脚注より上にすることは 違反でしょうか。
出典こそ 重要と思っているので質問します、以上、お忙しいところスミマセン。--深谷藤原三能会話2024年5月28日 (火) 00:38 (UTC)返信

  コメント

  • 丸島先生のコメントは、記事を読んでいる他の利用者は、その内容、真偽を検証できないので、記事を編集する段階では採用しないで下さい。小西先生の意見も同様です。
  • 丸島先生、小西先生のご意見が、論文や書籍などに記されれば、採用して問題ありません。
  • 2000年代の専門家の書籍が、江戸時代初期に書籍の方が信頼できると、深谷さんが考えるのは自由ですが、専門家ではない我々が、その判断を記事に反映することはできません。真田守信のように、両論共に併記し、読者に「正誤」の判断は任せ、判断材料を提供するのが、最良だと考えます。
  • 関連ページのあちこちで同じテーマで議論を持ち掛けるのは、各位のリソースを食うだけなので、一つのノート頁に集約頂ければ助かります。他の頁は、案内を記すなど程度にして下さい。
  • 内容では無く、脚注や出典の可読性の上がる編集は、他者から意義無ければ、ある程度自由に行ってください。

--背番号9会話2024年6月18日 (火) 08:02 (UTC)返信

貴重な意見有難うございます。
私は 前の説を削除せず、並記しております。
また、そういう事であれば 丸島さんとのメールのやり取りを載せましょうか。それで 丸島さんの意見が 2015年の本の後、変わったことがわかると思いますので。
その前に貴殿は 私が記した5項目(5/5日)についての感想を述べておりませんが。
尚、その5項目の内、 2番目、3番目は 家系の専門家が記した辞典ですよ。
そこには 私の自説は 一切 入っておりません。再度確認願います。
以上、いろいろ 有難うございました。--深谷藤原三能会話2024年6月18日 (火) 11:44 (UTC)返信
メールのやり取りでも同じです。Wikipediaの一利用者が、独自に関係者にヒアリング調査した結果は、独自研究の最たる例で、認められません。そういった行為で得た知見を、学術誌などに記載貰えれば、その学術誌の論文、記事として引用できます。私がどう思うか、貴方がどう思うかは重要ではなく、そういった文献などにどう記載されているか、が大事なのです。もし私の意見を述べるならば、「Wikipediaのルールと検証可能な情報源に基づき、論理的な飛躍なく、独自研究も独自の見解も無く、中立的に記載頂ければ、どっちでも良い」です。
紹介頂いたリンク先のページは誰が記載したページですか?複数の著名な学会誌で論文を幾つも掲載しているような、信頼できる専門家ですか?そういう信頼できる方であるなら、その先生のご意見として使えるかもしれません。--背番号9会話2024年6月18日 (火) 13:45 (UTC)返信
深谷藤原です。
リンク先のページは ご覧になれば 誰が記しているかは わかるでしょう。
家系を研究して 50年の深谷藤原ですよ。
その5項目の内、 2番目、3番目は 家系の専門家が記した辞典ですよ。
尚、メールのやり取りは 歴史研究家で テレビの真田丸の時代考証役だった丸島さんですよ。
───────────────────────────
-----Original Message-----
From: marushima.kazuhiro@nijl.ac.jp
Sent: Tuesday, July 19, 2016 2:29 PM
To: fukaya <fukaya@myouji.org>
Subject: 大八は 守信なのかの件
深谷様
はっきり言えることは 幸村の二男 大八は、徳川の世になり、戦が起こるかどうかわからぬ頃、即ち、豊臣秀頼から声がかかる数年前に亡くなっていると言う事です。
昌幸及び幸村は 兄 信幸の嘆願で死を免れた事からすれば 時が過ぎれば 幸村も許される
可能性もあった。この頃、大八を死んだことにする必要も無い
以上、                                     丸島 拝
> --
> **********************************************************
>  国文学研究資料館研究部特任助教
>             丸島和洋
> (職場) 190-0014  東京都立川市緑町10-3
>      Tel:050-5533-2971(直通)
>      E-Mail:marushima.kazuhiro@nijl.ac.jp
───────────────────────────
尚、丸島さんは 現在は 上記 資料館にはいないので 個人情報の保護違反にはなりません。
当時のありのままを載せました。
貴殿は 5項目の感想を記してこないので やりとりは これで終了です。--深谷藤原三能会話2024年6月18日 (火) 14:45 (UTC)返信
ここでの会話は、各位の意見の合意形成を目的としています(WP:CON)。それを拒否するという事は、貴方の意見を反映することを諦めることを意味しますが良いのですね。
丸島先生のメールはWikipedia:独自研究は載せないというルールに抵触し、採用できません。各位が独自研究と言っているのは、「自分勝手な意見を言うな」というレベルの話ではありません。
仮にノーベル賞級の発見や考え方であったとしても、外部で未発表の情報、アイデア、発見を、採用しないで下さい。外部で論文発表などした後で、それを引用して下さい。
という意味です。丸島先生へのヒアリング内容が学会発表するとか、学術誌や書籍で言及した内容であれば採用OKだと思います。
リンク付きで紹介いただいたページは、深谷さんが作った頁だったんですね。失礼しました。それでもページに記載の深谷さんの見解自体は無視すべきだと思います(WP:RS, WP:V#SP)。掲載の文献情報は Wikipedia に適した形に整えれば、記載可能だと思います。文献情報と丸島先生などの専門家の査読付きの学術論文などに記載の意見を幾つか伴って引用すれば…
以前は仙台真田家のルーツは大坂の陣の生き残った信繁の二男だとも言われていたが、丸島などによれば、その考えは現代では否定されている[引用]。
といった記載に持って行くこともできると思います。しかし現在、頂いている文献情報だけでは、「信繁の二男が仙台真田家のルーツ」説を否定し切るには不十分で(WP:SYN)、両論併記がせいぜいだと思います。
またページの編集履歴を確認しました。直近の深谷さんの記述の差し戻されたのは、記載の仕方が Wikipedia のスタイルに合致していないので、差戻しされているようです。私を含め、各位が都度提示しているウィキペディアのルールや記載スタイルを深谷さんが学んで尊重頂ければ、問題は解決すると思います。--背番号9会話)2024年6月18日 (火) 22:00‎ (UTC)--修正して再掲--背番号9会話2024年6月20日 (木) 06:54 (UTC)返信
お世話になります 深谷藤原です。
貴殿に会話終了した理由は 1か月以上前に例の5項目に対して返答してこなかった事と 仙台真田家と言う家系の件で論議した時、面白おかしく書かれた講談本により
江戸時代の貴重な古文書の方が間違っていると思わせているので、これは大問題、と 私が記した時に、貴殿は「第二次世界大戦での日本軍の加害情報は諸外国の陰謀だ!等」と、家系の事とは 全然関係ない事を持ち出しました。
また、私が5項目が記されているサイトの筆者を貴殿に尋ねられた時に筆者は私 深谷藤原であり、家系の50年の研究者と 伝えた後も 再度、私のサイトについて、「紹介頂いたリンク先のページは誰が記載したページですか?」と、冷やかしてきたのでノートでの会話を終わりにしたのです。
しかし、ページを改修して 本気を示しているようなので 再開します。
そこで 質問です。
改修したページに 一番肝心な「伊達世臣家譜と、宮城県姓氏家系大辞典」に記されている、
守信の父を政信としている事や 守信が自分で白石に赴いた事を何故載せないのですか。
また、既に間違いだらけと判明している仙台人名大辞書をわざわざ出典に載せた理由は何故ですか。
その真田の項には 大八や阿梅が伊達氏に匿われたと記されているが
敵の大将の家族を保護れば 伊達謀反として、伊達家 おとりつぶしになる案件であり、
家系の専門書及び伊達世臣家譜には そんな事は載っていません。
私は 真田丸放映前から当家を調べているので もう10年になりますよ。
以上、質問することは 多数あるので とりあえず 貴殿の回答を待って 何度でもします。--深谷藤原三能会話2024年6月21日 (金) 05:48 (UTC)返信
冷やかす意図はありません。先のコメントは、深谷さんの自己紹介を頂いているだけなのかと、誤読しておりました。リンク先の頁を調べ直して、状況を確認しました。何にせよ失礼いたしました。
それぞれの頁には目的があり、ここは表の記事の内容をどうするかを協議することを主目的とします(WP:TPG)。雑談をする場でも、主題について感想を述べあう場でもありません。
記事をどう書くかは、文献にどう記載されているか、で(私を含め)ウィキペディアに馴れた方は判断します。自分の感情を廃してでもルールと文献に基づいて考えます(WP:NPOV)。だから「どう思うか?」と感想を深谷さんに聞かれても、戸惑うばかりです。ルールと文献に従って判断します。としか言いようがありません。
一方、利用者のノート頁は、一定程度、自由があります。雑談ベースで話をしています。そして、見た感じ深谷さんが、自己の主張に固執している過去の利用者と傾向が一致しています。そういった方々が、最後は追い出される過程を10年以上前から、何十回とみています。その過程で他の各位も大変疲れます。そういうお互い不幸な事にならないように、気を付けて欲しかっただけです。分かってくれそうな方だったので、その後は気にしていませんでしたが、一か月経ってまだ、深谷さんの問題が解決していないようだったので、口出ししました。
「伊達世臣家譜と、宮城県姓氏家系大辞典」に記されている、守信の父を政信としている事や 守信が自分で白石に赴いた事を何故載せないのですか。(上記 深谷藤原三能 2024年6月21日 (金) 05:48 (UTC) から引用)
掲載したいなら、記せばいいんじゃないですか?私は手を出していないと思いますが。
既に間違いだらけと判明している仙台人名大辞書をわざわざ出典に載せた理由は何故ですか。(上記 深谷藤原三能 2024年6月21日 (金) 05:48 (UTC) から引用)
それも知りませんが、「間違いだらけ」だと指摘している文献情報はありますか?また、間違いだらけだとして、「仙台人名大辞典の仙台真田家に関する記述が誤りだ」と指摘している文献情報はありますか?あれば、その文献を引用して、否定すればよいと思います。
文献に記載されている通りに記してくれればよいと思いますが、文献を読み込んで、その上で自身の考えを持つのが、研究者の仕事だと思います。しかしながら、ここでは自身の考えを廃す必要があるのです。そこの認識で齟齬が発生しているのではないかと推察します。例えば、
真田の項には 大八や阿梅が伊達氏に匿われたと記されているが敵の大将の家族を保護れば 伊達謀反として、伊達家 おとりつぶしになる案件であり、家系の専門書及び伊達世臣家譜には そんな事は載っていません。(上記 深谷藤原三能 2024年6月21日 (金) 05:48 (UTC) から引用)
これに結論を追加して文意ごとに番号付けします。
  1. 仙台人名大辞典には大八や阿梅が伊達氏に匿われたと記されている
  2. 敵の大将の家族を保護れば 伊達謀反として、伊達家 おとりつぶしになる案件である
  3. 家系の専門書及び伊達世臣家譜には そんな事は載っていない
  4. だから記載内容は誤りだ
このうち2, 3, 4 について、それぞれに、それを裏付ける文献が必要なのです。無ければ 2,3,4 は 深谷さんが研究者としてお持ちの考えです。研究者としてそう主張するのは分かります。しかしウィキペディアでは、それは採用できません。その考え方を共有できていない深谷さんは納得できません。という構造が問題の本質では無いかと思います。
もし、ご主張内容を裏付けする文献が見当たらないのであれば、「10年調べている」という調査内容を歴史の学術誌に論文として報告するのが一番良いのではないかと思います。査読を経て論文として掲載されれば、晴れてそれをウィキペディアに引用して下さい。WP:ORにも同じようなことが記載されていると思います。私の主張をもう一回繰り返します。文献とルールに基づいて記事を書いて下さい。何か主張したいことがあれば、それを裏付ける文献を引用して下さい。世の中にそういった文献が無いのなら、ご自身の調査結果を信頼できる論文などに報告してから、それを引用して下さい。それが守れるのであれば、記事の内容が何にしろ充実するので、私はそれで満足です。
--背番号9会話2024年6月21日 (金) 06:54 (UTC)返信
自分からもいくつか気づいた点についてコメントします。
まず、深谷藤原三能さんが主な根拠としてあげているmyouji.orgというサイトについてですが、典型的な個人サイトであって信頼できる情報源としては使用できません。深谷藤原三能さんはこのサイトの管理者、あるいは関係者ですよね?であればウィキペディア日本語版の方針である「ウィキペディアは独自の考えを発表する場ではありません」「ウィキペディアは演説台、広告宣伝の手段ではありません」にも違反することになります。サイト内で取り上げられている個別資料については議論の余地がありますが、その場合それを基にした信頼できる情報源にあたる論文や書籍を上げてください。
次に、「間違いだらけと判明している」とされる仙台人名大辞書ですが、その主張はmyouji.org以外に見つけられませんでした。(ざっと検索した感じ菊田定郷という方個人が作成した書籍のようなので間違いもあるだろうと個人的には思いますが、)「間違いだらけと判明している」というのはmyouji.org及び深谷藤原三能さんの独自研究ではないかと考えます。
丸山氏とのメールのやり取りについてですが、公開許可は得ていますでしょうか?許可を得ていない場合は著作権侵害となり得ます。引用の場合も著作権法第32条に「公表された著作物は、引用して利用することができる。」となっていますのでメールについては引用の範囲外となります。また、メールの内容についても本当に丸山氏によるものか疑っています。何故ならば深谷藤原三能さん独特の文調と癖が色濃く出ているためです(具体的にどこかは今後深谷藤原三能さんが対策することを防ぐため記載しません)。丸山氏のサイトの2016年時点のブログから読み取れる文調とも大きくかけ離れています。いずれにせよ、何の根拠にもなりません。
さて、具体的な内容(守信は幸村の子・大八ではない)についてですが、myouji.orgに掲載された資料、myouji.orgの解釈、他のサイトや書籍・論文などの解釈などを総合すると、「外(幕府)向けの情報:守信は大八ではない」と「事実:守信は大八である」と2つの情報経路があり、myouji.orgは前者及びそれを基にした資料のみを信じ、それを前提として内容が書かれているのではないかと考えます。それはmyouji.orgの解釈の多くが「はず」という推測を基に書かれていることからも読み取れます。
以上のことから、少なくとも「守信は大八ではない」という説をメインに持ってくることには反対です。なんなら書かなくても良いか幕府向けの情報を基に作られた説であることを明記しても良いかと思います。--桂輝平会話2024年6月21日 (金) 21:46 (UTC)返信
お世話になります 深谷藤原です。
返信するに当たって 確認しますが 会話ページは 自由な発言で ノートページは
「記事の内容をどうするかを協議することを主目的」では ないのですか。
以上、元管理人への質問でした、それによって 記述できるかどうかを考えますので。
以上、宜しく頼みます。--深谷藤原三能会話2024年6月22日 (土) 01:47 (UTC)返信

日本語版Wikipediaでは、管理人とは表現しませんが私に呼びかけてますよね。ノートページは概ねその通りですが、詳細はWP:TPGの方を確認して下さい。三原則ほどの厳守は求めませんが、主目的から脱線した話ばかりで盛り上がったりしないようにしましょう。また個々の利用者の会話ページに深谷さんがマルチポストしている質疑と、ここでの議論は基本リンクしません。そろそろ一回本記事をどうするかに話を集中した方が良いと思います。独自研究検証可能性信頼できる情報源の解釈が、深谷さんはかなりズレています。ズレたまま議論したり、レクチャーするのも大変疲れます。急ぎませんから、次のコメントの前に、今一度ご自身で熟読しておいてください。--背番号9会話2024年6月22日 (土) 02:51 (UTC)返信

仙台真田家の始祖 守信の件

編集

従来のページは出典が記されておらず、脚注の部分の半分以上が「守信は幸村の子でない」として、リンク先が削除されており、見栄えが悪いので出典を別に設置しました。

確か、1年半前は 追加記述の理由を書く欄があったと思いますが 今回は、見つからなかったので、このノートに記しておきます。

理由「従来のページは出典が記されておらず、脚注の部分の半分以上が「守信は幸村の子でない」として、リンク先が削除されており、見栄えが悪いので出典を別に設置しました」以上です。--深谷藤原三能会話2024年6月14日 (金) 05:03 (UTC)返信

いくつかの出典についてオリジナルのリンク先が削除されていることは確認できましたが、それが「守信は幸村の子でない」として削除されている根拠が確認できませんでした。自分には深谷藤原三能さんが勝手にそう判断したようにしか見えませんでした。各リンク先について「守信は幸村の子でない」として削除されたことが検証できるエビデンスを示してください。--桂輝平会話2024年6月21日 (金) 18:23 (UTC)返信
お世話になります 深谷藤原です。
myouji.org のサイトは 20年ほど前にヤフーのカテゴリーに登録された 私のサイトであり、
500万人以上に見られているサイトです。
著者の意思が反映されることは 当然の事です。書くに当たって、是々非々の思いでやっており、キツイ言葉も あるでしょう。しかし、ウイキペディアからリンクするときは公平なページしかリンクしていません。
例えば これです
そのページに記されている出典は もう周知の事実です。
尚、「守信は幸村の子孫ではないとして リンクが削除されている件」については
私が NTT仙台局などに 説明した結果です。
真田丸の年から 気づいたところに やりましたので、この9年間の間にパソコンが2台変わっておりますので 解決済みとして 完全削除もあり、その証拠を示せるかは わかりません。
私が必要と思ったところは 残してある可能性はありますが。
また、仙台人名大辞書のデタラメ部分に関しては 実際にその本を読んだ人なら気づくことです。
尚、そのページには 仙台人名大辞書の後継会の渡邊会長のコメントも記されております。
記されておりますが 読めば 常識的に敵の大将の家族を保護など 有り得ないでしょう。
尚、貴方にも 先のページの5項目に関してのコメントを求めましたが どうなのですか。--深谷藤原三能会話2024年6月22日 (土) 00:43 (UTC)返信
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