ノート:新改訳聖書

最新のコメント:10 年前 | トピック:「批判」節の再除去につき | 投稿者:Kinno Angel

「批判」について 編集

リベラル派からの新改訳の批判は、学問的な資料からの出典で根拠を証明する必要があります。どの聖書箇所が、どのような点でそのようであるかを、学問的に明確にすべきです。それがないならば、ウィキペディアの性質から言っても、この根拠のない批判は削除すべきです。 ここに載せられている田川健三氏の批判は、とても聖書学者とは思えない、主観的で感情的で恣意的な意見です。学者ではなく、個人として感情的に新改訳を嫌っているだけの意見にしか思われません。もっと客観的に冷静に学問的な見地から意見が必要です。学問的な見地から新改訳の批判をしている学者の意見の掲載をお願いします。--More blessing 2009年9月9日 (水) 03:51 (UTC)返信

  コメント 「出典の明示」は必要とは思いますが、「証明」まで必要とは思いません。事典編集者にそこまでの義務は課せられていません。我々に出来るのは「列挙」のみです。「Aという学者がaという説を唱えている」まではウィキペディア執筆者に書けますが、「aという説はかくかくしかじかの理由により妥当と思われる」まで書くと「独自研究」になってしまいます。
しかし上記のような一般論は別にしても、田川建三氏の「批判」の一節は、現状の記事を見る限り、事典に「列挙」の一つとして掲載する必要はあまりにも薄いと言わざるを得ません。田川氏の意見とされる一節に対して「個人として感情的に新改訳を嫌っているだけの意見にしか思われません。」と仰るのは誠に御尤もであり、このような一節のみを田川健三氏による批判として掲載することは、事典として意味合いが極めて薄いだけでなく、学者としての田川建三氏にとっても好ましい事ではないでしょう(もしかすると原典にはもっと詳しく書いてあるかもしれないのに、この部分だけ読んでしまうと、田川建三氏というのは感情的なバイアスをかなり強く著作に反映させてしまう学者なのかと思われてしまいます)。プロジェクトやポータルなどにも呼びかけられ、1週間ほど経って異議がなければ、削除されても構わないと思います。--Kinno Angel 2009年9月10日 (木) 15:21 (UTC)返信
Kinno Angel さん、ありがとうございます。--More blessing 2009年9月13日 (日) 21:57 (UTC)返信
(反対)田川先生が書く悪口雑言は確かに学者らしからぬもので有名ですが、主観的でも恣意的でも無いことも知られた話です。現在刊行中の『新約聖書 訳と註』などをご覧になればお分かりかと思いますが、註の中での口語訳・新共同訳・岩波訳に対する悪口は凄まじいもので、その翻訳を行なった方々はさぞかし耳を覆いたくなるであろうと御同情せずにはいられないものではありますが、悪口の根拠はすべて明示されており、正文批判から始まって、ウルガタ・欽定訳・ルター訳・RV・RSV・NRSV等の翻訳とも比較した上で田川先生はこき下ろすべき翻訳をこき下ろしておられるし、良い翻訳については素直に褒めてあります。削除する必要は無いと思いますし、福音派POVに陥らないためにも残しておくほうが宜しいです。--おーた 2009年9月15日 (火) 12:25 (UTC)返信

リベラル神学者田川建三の『書物としての新約聖書』(ISBN 978-4326101139)は聖書翻訳の歴史と問題点を懇切丁寧に解説した大著であるが、新改訳聖書についてはpp.694-695で簡単に触れられて、どこまで原典に忠実な訳であるかは「この新改訳聖書については、そういうことを論じる気も起こらない」と酷評し「その系統の信者さんたちがご利用になさればよろしい」としている。 との意見のどこに「悪口の根拠はすべて明示されており、正文批判から始まって、ウルガタ・欽定訳・ルター訳・RV・RSV・NRSV等の翻訳とも比較した上で田川先生はこき下ろすべき翻訳をこき下ろしておられるし、」 が当てはまりますか?明示もされていませんし、他の訳との比較もしていません。 そういう意見が有るのは自由ですが、ウィキに乗せるほどの話ではないです。 ある程度まってもっとまともな批判がなければ、ノートに乗せるという形で本文からは消してもかまわないと思います--ミニラ 2009年10月21日 (水) 02:56 (UTC)返信

ミニラさんの言うように、悪口の根拠の明示、他の訳との比較の上での批判ではないようです。学術的な批判なら載せるべきでしょうが、田川氏の意見は、個人的に自分が新改訳を嫌っているから、という理由しか読み取れません。ウィキは感情論ではなく、学術的の場ですから。私が福音派だからいうのではありません。もし、福音派的な視点で、新改訳以外の他の訳を、学術的な根拠もなしに感情的に批判しているならば、やはりその文章の削除を求めるでしょう。やはり、ウィキの文章はあらゆる立場に公平であるべきです。その意味でやはり削除を要請します。--More blessing 2009年10月19日 (月) 09:05 (UTC)返信
そうでしょうか?『書物としての新約聖書』を読む限り、正文批判(福音派好みの言い方なら「高等批判」)あるいは文献批判の立場で、他訳比較をした上で「論じる気も起きない」と書いておられると思いますが。新改訳を奉じる福音派の方々の心象を害しておられることは察するに余りありますが、田川先生の論はそれなりに影響力がありますし膨大な聖書神学を熟知した上でのキリスト教批判は高く評価もされています。田川先生の批判を削除すれば福音派POVの謗りを招くと思いますけれども。百科辞典編集の立場から、ここは寛容な態度をみせるべきなのではないですか?-おーた 2009年11月7日 (土) 01:40 (UTC)2009年10月19日 (月) 12:55 (UTC)返信
私は、福音派を擁護するとか、福音派の誇りを守るとかそういうことをウィキ上で議論するつもりはまったくありませんし、するべきでもありません。ウィキは純粋に学問の場でありますので。私は新改訳を使用していますが、新改訳は完全な訳でないことを重々承知しています。健全な学問的批判には耳を傾けるべきだと思っています。その意味では批判に寛容であることは、学術的研究には必要不可欠です。
また私は、田川氏の『書物としての新約聖書』持っていませんので、この書持っている方にお願いですが、あの引用だけではわかりませんので、もし、この書物の中で田川氏が学問的な根拠から新約聖書の批判をしているのならば、それは、新改訳聖書の翻訳者の方々にも有益ですので、あの文章を削除するべきでないのならば、それが良くわかるように書き換えていただけませんでしょうか。また、田川氏以外でも健全な批判をおこなっている学者の意見の掲載を心から歓迎します。
新改訳聖書は翻訳の前から緻密な聖書学の積み重ねの上で翻訳され、また、今日も聖書原語や本文批評の学問的検討を積み重ね、改訂されております。また、その研究の書物も出版されています。研究する材料は豊富なのに、田川氏の「論じる気も起こらない」というのは、学者として乱暴で、怠慢な態度ではないかと思うのです。もちろん、田川氏が著名な優れた学者であることを承知の上です。私も田川氏の著作は読んだことがありますし。新改訳を学術的に批判できる学者であるということも承知しています。それなのに、「論じる気も起こらない」と、新改訳に対する学術的な分析を放棄しているのです。そのような文章は百科事典にのせる価値は疑わしいのです。もちろん、田川氏が学者の公平な視点で、新改訳聖書の欠陥を詳しく述べていれば、どんな酷評であってもウィキの本文に載せるべきです。そうでない文章は、本文に載せる価値があるかどうかということです。むしろ、ノートか脚注に移すべきです。--More blessing 2009年10月20日 (火) 07:19 (UTC)返信
  コメント 私も田川健三氏の能力や功績については否定するものではありません。が、一切具体的論点を提示せずに「論じる気も起こらない」という指摘のみ掲載するのは、田川健三氏の暴言のみをそのまま書いているようにも受け取れてしまいます。繰り返しになりますが、これは新改訳聖書にとって不都合な批判というよりは、田川健三氏にとって不都合な要約・引用とすら私には思えます(学者としての資質をこの文章のみからでは疑われるため)。
田川健三氏の問題の著作は私の書架には御座いませんので、図書館にて借りてきました。
問題の部分は694頁と695頁ですね。確かに文言は記事中に引用されている通りです。が、果たしてこの部分、学術的に妥当な批判と言えるかは大いに疑問ですね。御希望の方がいらっしゃれば、著作権上問題がないのであれば全文引用してもいいのですが…僅か2頁弱(分量的には1頁強)の批判。日本聖書協会訳やカトリック教会訳への言及量に比べてあまりに少ない上に、訳文への批判は皆無。翻訳姿勢についての批判のみが行われています。
しかも田川健三氏は「その他の訳は論じるに値するものは無い」という言葉の対象に、新改訳のみならず、少なくない権威を有する翻訳を十把一絡げに含めています。東方教会への関心も高まる1997年(初版時)という時点で、日本正教会訳聖書を名前すら挙げず、「その他は論じるに値しない」と切り捨てるのは、権威ある学者としての責任感を疑われても仕方ないとすら思えます。つまり新改訳への批判というのみならず、他の訳への批判としても、参考文献のこの箇所を使えるかどうかは怪しい部分なのです(蛇足ですが、コイネーの語義など、当時のギリシャ語状況についての研究は大変に参考になり、読んで良かったとは思います、田川健三氏およびこの著作を全否定する意図は私にはありません)。
田川氏の具体的検証の対象となっているのは殆どが日本聖書協会訳であり、他の訳については具体的検証が非常に乏しいものになっています。日本聖書協会訳についての検証は精緻を極めた優れたものです。が、「田川健三氏についてのAについての検証が高水準であるから、田川健三氏によるBについての評価も何らかの検証に基づいているのだろう」と言う事は出来ません。
書くとするのであれば、「田川健三は、新改訳については論じるまでも無いと言っている」、と書くべきなのではなく、「田川健三は、新改訳については○○の欠点があることにより論じるまでも無いと言っている」と書くべきです。もし「○○の欠点があることにより」という文章が参考文献原文にないのであれば、百科事典に載せる意義はありません。これを認めてしまえば、新改訳に対する否定的感情的見解を述べた人間を列挙するだけの節に堕してしまうでしょう。
そして田川健三氏による文章においては、「○○の欠点があることにより」が見当たりません。「ファンダメンタリストの心情から書かれた」という、その事情自体をハナから批判しているのであって、訳文に対する具体的批判はゼロです。私からしますと、載せる必要性は一切見当たらないと言わざるを得ません。--Kinno Angel 2009年10月20日 (火) 10:24 (UTC)返信

最初の議論提示から2ヶ月近く経過して居ますし、ノートでの議論も尽くされたと思うので、勝手ながら本文から消させていただきました ノートに新たに一部からの批評と題して載せさせてもらいます。--ミニラ 2009年11月6日 (金) 12:11 (UTC)返信

長らく放置したこと申し訳ありません。ただ、私としても以前の箇条書きの文章は納得が行かないものであったので、対案を示させてください(少々時間をください)。脚注などを使った処理をを考えています。その上で、キリスト教関係のプロジェクトより外の「コメント依頼」に提出して識者の意見を伺わせてください。その上での削除ならそれ以上、文句は言いません。ということで、本文の削除はいったん取り消させてください。--おーた 2009年11月7日 (土) 01:40 (UTC)返信

コメント依頼に出します 編集

長々と続いたこの件ですが、結局のところ田川建三の記述を信頼できるものと見るかどうかの違いだろうと思われます。信頼出来無いという方々は、あの記述は悪意に満ちて感情的で冷静な学者の意見だとは思えないからだといいます。私の意見では、田川建三という学者は誰に対しても激烈な言葉を使って批判する人なのでそこは割り引くべきだし、日本の新約聖書学の中で田川建三という存在は無視できないのだから書いておくべき、ということになります。

下記に示す文案のごとく、本文中にごく簡単に批判があることだけは書いておくべきだろうと考えますので、本論争に関わらなかった外部の皆様のコメントをお願いします。田川建三の引用は脚注内で行うこととして(<ref>~</ref>で挟まれた部分は本文中では脚注化されます)、また引用の箇所も変更しています。

(文案) プロテスタントの福音派が支持するこの翻訳については、福音派の教義に忠実なあまり、かえって問題を含んでいるとする批判も新約聖書学者の中からは出ている<ref>リベラル神学者[[田川建三]]の『書物としての新約聖書』(ISBN 978-4326101139)は聖書翻訳の歴史と問題点を懇切丁寧に解説した大著であるが、新改訳聖書についてはpp.694-695で簡単に触れられて、「協会訳の諸訳や最近のカトリックの訳は、私の目から見れば多少護教論的な色彩が残るものの、しかし、すでに十分に批判的な学問の成果を取り入れたすぐれた訳になっている。しかしファンダメンタリストにとっては、まさにその点が気に入らない。彼らの教派のファンダメンタリスト的な心情にかなわない点がいろいろ気になるのである。そこで彼らは自分たち用の「聖書」を持とうと考えた」としている</ref>。

--おーた 2009年11月15日 (日) 06:27 (UTC)返信

--おーた さん、丁寧な文案を考えて下さり感謝します。上記の文案だと、引用の文から田川建三氏が、なぜ新改訳に対して否定的なのかがよく分かります。
私は福音派ですが、田川氏を学者としての業績を否定するつもりはまったくありませんし、いままでの業績も含め無視できない影響力のある学者であることを承知しております。田川氏がファンダメダリストに対してよく思っておられないことも良くわかりますし、新改訳ついて思うことも一理あります。そういう面も無きにしも非ずだと思います。
しかし、「聖書翻訳を考える(続)」115-152ページの堀川勇氏の論文「新改訳聖書の完成まで」を見ると良くわかるのですが。口語訳聖書の翻訳の問題に対して、JPCのメンバーは、学問的な見地から、1961年2月20に日本聖書協会の代表と話し合いをしました。日本聖書協会の代表は「学問的な議論ならば応じる」という話でした。JPCのメンバーは日本聖書協会に対して、口語訳で底本にしている原典テキストを尋ねました。そしたら、日本聖書協会のメンバーは誰一人、底本が何かを答えられなかったのです。更に、学問的な見地から(福音派の教義のために)改訂を申し込んでも、改善してもらえませんでした。もちろん、JPCの主張を認めてしまえば、口語訳聖書は根本からやり直さなければならなくのるので、当然といえば当然の対応ですが。新改訳の翻訳は、これらの福音主義の学問的な追及の出来事が新改訳の翻訳が始まるきっかけの一つになっています。
また、新改訳は今日まで,新約は内田和彦氏や伊藤明生氏、旧約は津村俊夫氏や木内伸嘉氏らによって学問的が釈義研究誌「EXEGETICA」EXEGETICAなどで検討が重ねられています。つまり、田川氏の言うところの「批判的な学問の成果」を無視しているわけではありません。福音主義の立場から学問的に反論しているだけです。福音主義の立場から、釈義的に批判して、それらの成果を改訂に生かしています。それら新改訳の学問的な努力を、全てファンダメダリストとしてすべて否定するできではないと思うのです。ぜひ、新改訳の学問的な努力も正当に評価して欲しいと思います。
田川氏にはそれらの流れを踏まえた上で批判をして欲しいと思います。田川氏がそのように新改訳を正当に批判するのであれば、ウィキの本文に載せるには有益だと思うのです。田川氏は優れた学者なのですから、新改訳を「論じる気」を起こして欲しいと強く希望します。--More blessing 2009年11月21日 (土) 23:10 (UTC)返信

そもそも、「大著」という言葉遣いが主観的な意味を持っていると思われる。確かにページ数は多いように思うが、「大著」には、別の意味もありますので。--218.218.95.195 2009年11月30日 (月) 15:19 (UTC)返信

最終結論 編集

最終的な議論からだいぶ時間が経過しています。そろそろ結論を出すべきではないでしょうか。 田川建三氏は学者としては権威があるものの、その発言自体は客観性を欠いており、本文に載せるほどの内容ではないので、脚注に移すという処置が適切というところでどうでしょうか。--More blessing 2010年2月9日 (火) 11:15 (UTC)返信

田川氏の文章が3ヶ月も放置されていました。これですと、今までの議論がまったく反映されていません。先ほどの、私の提案に対して、誰からも異論がありませんでしたので。また、脚注の文案を考えてくださったおーたさんからのコメントがありませんでしたので、勝手に使うわけにもいきませんので、原文のまま田川建三氏のコメントを脚注に移しました。新改訳の本質的な記述ではなく、脚注にしたことで、リベラル派からの意見の一つであるとしました。もし、この処置に対して、異論があり本文に戻したいときには、その明確な理由を述べて下さい。しかし、この処置は田川建三氏の学者としての名誉を毀損するものではありません。私は田川氏が新約学者として優れた人物であることは疑いのないことであることを承知しています。だからこそ、学者として資質を疑われるような発言をのせることは、田川氏の名誉のためにすべきではないと思います。
私は、新改訳聖書に対して、感情論からではなく、純粋に学問的な批判を求めます。私は新改訳の使い手でありますが、新改訳の短所も痛感しているものです。だからこそ、もっと良い訳になるように純粋な学問的な議論をすべきであると思います。福音派の中にも、口語訳や新共同訳に対して感情的な意見があることにも心を痛めています。それは、翻訳者の名誉毀損であると考えます。だから、口語訳聖書新共同訳聖書に対しても感情的な批判を否定します。自分の立場に固執することによって、学問的に盲目になってはならないと思います。
最後に、新改訳は口語訳聖書の翻訳の問題に対して、福音主義的な神学の追求と、緻密な釈義の研究によって始まったのです。田川氏が言ってるように「気に入らない」という感情論によって始まったのではないのです。もちろん問題のある箇所や誤訳もあります。しかし、新改訳の関係者は学問的に改訂を重ねてきました。ですから、新改訳を学問的に分析することは、新改訳のために心血をそそいだ、名尾耕作氏、や舟喜順一氏への名誉のために必要だと思います。今後は、是非、緻密な新改訳への学問的な批判を加筆していただけるように強く希望します。--More blessing 2010年2月18日 (木) 13:41 (UTC)返信
More blessingさん、ご趣旨・ご措置に異議ありません。編集お疲れ様です。長い事こちらの議論を放置してしまっておりましたこと、お詫び申し上げます。--Kinno Angel 2010年2月19日 (金) 02:30 (UTC)返信

批判の欄がこれまでの話し合いがあったにもかかわらず未だにあるので、消させていただきます。 万が一、これを復活させたい方はもう一度トークを読み直し皆様に対してきちんとしたソースを提出してください。--ミニラ 2010年5月28日 (金) 19:11 (UTC)返信

田川建三氏の意見 編集

田川建三氏は、新改訳聖書と同様の方針で翻訳されたNIVについて、次のように述べています。

広く宣伝されているのは、NIVと呼ばれるもの(New International Version)である。これは、大量に宣伝されているから、間違えて買った人も多いのではないかと心配されるが、いわゆるファンダメンタルな教派の人々のための聖書である。つまり、「福音主義」と呼ばれる超保守主義の教派がアメリカにはいろいろあるけれども(なお、ドイツで「福音主義 evangelisch」と言えば、単にルター派のことである。アメリカで同根の言葉を使えば(evangelicals)、ファンダメンタリストを指すことが多い。ただし、狭義には、みずからをファンダメンタリストと呼ぶ人たちとみずからを「福音主義」と呼ぶ人たちと、一応は区別されるけども、基本的には大差はなく、どちらもアメリカのプロテスタンティズムから派生した宗教的超保守主義である。彼らは、当然ながら、学問的批判的にきっちりなされた聖書の翻訳が気に入らない。彼らの教派の思惑どおりには訳されていないからだ。それで、自分たちだけで集って、自分たちの聖書を作った。その序文には正直に、「この訳者たちは、文字に書かれた神の言葉としての聖書の権威と無謬とを信じる点で一致している」と記している。聖書無謬説というアナクロニズムにしがみついた人々の『聖書』である。その宗派の人々にとっては必要だろうが、それ以外の人々にとっては無用のものである。(勁草書房『書物としての新約聖書』611p-612p)

つまり、田川氏は聖書といえども無謬ではなく、他の書物と同様に聖書も学問的批判的な考え方から捉えるべきだと考えており、超保守主義たるファンダメンタリストが自分たちの教派の思惑どおりに訳した聖書はそれとは正反対の考え方であり、考慮に値しないと考えているのです。つまり、『書物としての新約聖書』でNIV及び新改訳に対する批判の記述が少ないのは、訳文の内容に問題があるというよりも、むしろその翻訳が行われる背景にあるファンダメンタリストそのものの教義に賛同しないからです。田川氏にとってすぐれた翻訳とは、どこの教義にも偏らずに中立で、「原典の意味をなるべく正確に理解する」(同書489p)ことができる翻訳であり、まず教義ありきで訳された翻訳など読むに値しないと主張しているのです。--2001:CE8:96:1:719D:C33E:81BF:471F 2013年10月2日 (水) 05:34 (UTC)返信

田川氏が新改訳聖書について述べているところも引用しておきます。

一つだけ、売れているから言及しておくと、『新改訳聖書』というものがある。表紙には大きく『聖書』と書かれ、小さく「新改訳」と付記してある。これは要するにいわゆるファンダメンタリストの教派の人々、及びそれに近い傾向の人々が集って作ったものである(英訳のNIVにほぼ対応する)。協会訳の諸訳や最近のカトリックの訳は、私の目から見ればまだ多少護教論的な色彩が残るものの、しかし、すでに十分に批判的な学問の成果を取り入れたすぐれた訳になっている。しかし、ファンダメンタリストにとっては、まさにその点が気に入らない。彼らの教派のファンダメンタリスト的な心情にかなわない点がいろいろ気になるのである。そこで彼らは自分たち用の「聖書」を持とうと考えた。これはまあ、彼らの内輪だけの出版にとどまっているのなら、どうということはない。当然のことである。ただ、豊富な資金を背景に安い定価で発行し、日本中の書店に流しているから、知らない読者は知らずにこれを買うことがある。しかし、こういうものはその系統の信者さんたちだけが御利用なさればよろしいのである。
旧新約聖書の全体をまとめた一巻本は一九七三年に初版が出ている。今出回っているのは第二版である。発行者は日本聖書刊行会、発行所は「いのちのことば社」である。初版の頃は表紙にはっきり「いのちのことば社」と書かれてあったが、今は表紙も日本聖書刊行会となっている。これと日本聖書協会とはまったく別の組織である。
簡単な後書きがあり、「翻訳編集に携わった者の一致した願いは、原典にあくまでも忠実であり……。新約はネストレの校訂本二四版……に基づき」と記してある。しかしこれは今時の聖書翻訳は必ずこのように書くことになっているだけの話であって、そういう能書きがどの程度信用できるかは、すでにそれぞれの翻訳に関して論じてきたところである。この新改訳聖書については、そういうことを論じる気も起こらない。こういう特色を持ったものをお求めになりたい方は別として、知らずにお買いになることがないように、一応ここで言及だけしておくことにした。(勁草書房『書物としての新約聖書』694p-695p)

これまでの記事の「批判」の節では、「こういうものはその系統の信者さんたちだけが御利用なさればよろしいのである」と「この新改訳聖書については、そういうことを論じる気も起こらない」の引用順が逆になっていました。これでは理由と結論が逆になってしまいます。また「この新改訳聖書については、そういうことを論じる気も起こらない」という記述が「酷評」であるかどうかについても問題があります。引用部分を読めばわかりますように、田川氏が「論じる気も起こらない」のは「ファンダメンタリストの観点で翻訳されたから」です。酷評しているとすればそれは「ファンダメンタリスト」の部分に対してであって、「新改訳聖書」の部分に対してではありません。新改訳聖書の訳文の内容についてはむしろ論評を避けているように読めます。以上の理由により、記事の「批判」の節を修正いたしました。--2001:CE8:96:1:719D:C33E:81BF:471F 2013年10月2日 (水) 06:40 (UTC)返信

「批判」節の再除去につき 編集

これまでの議論の経緯について確認されずにIP氏によって「批判」節がいつの間にか追加され、議論の経緯を御存知無い2001:CE8:96:1:719D:C33E:81BF:471Fさんが「内容修正」をして下さったわけですが…
そもそも「田川氏による批判」節は基本的に必要無い、というのが、以前議論された上での本ノートでの合意でした。
私も気付かなかったのですが、それにしてもノートでの合意を一切無視して「田川氏による批判を復活」させたIP氏はいかがなものかと思います。
「田川氏による批判」そのものが必要とお考えの方は、これまでの合意に至るまでの内容を精査して頂き、その上でもう一度、ノートで合意を試みて下さい。よろしくお願いします。--Kinno Angel会話2013年10月2日 (水) 12:34 (UTC)返信
「合意に反して田川氏の批判を復活されたかどうか」については私は一切関与しません。「ウィキペディアに何かの記述をするのに合意が必要である」というのがそもそも例外的な事態ですし、田川氏の批判自体は彼の立場から見れば決して間違ったことは言っていません。田川氏は長年(書物としての)聖書学を研究してきた見地から福音主義やキリスト教根本主義に否定的であり、「福音主義的な神学の追求」というバイアスを掛けて聖書を翻訳すること自体が間違っていると主張しているのです。そういう批判を新改訳聖書に記述するべきではないというのでしたら、福音主義でもキリスト教根本主義でも違うところに「批判」という節を作って書くしかありません。批判自体は間違っていないからです。むしろ、批判をことさらに取り除こうとすること自体が、田川氏が忌避する理由となっている「護教論」に基づくものなのではないでしょうか。--2001:CE8:96:1:655F:3030:864:F021 2013年10月3日 (木) 03:51 (UTC)返信
2001:CE8:96:1:655F:3030:864:F021さん、コメントをありがとうございます。
田川氏の批判自体は彼の立場から見れば決して間違ったことは言っていません。
田川氏の主張が正しいか間違っているかについては問題ではありません。百科事典に書く必要があるのかどうかが問題であり論点です。田川氏は新改訳聖書に割いているのよりも遥かに多くの具体的批判を日本聖書協会訳に対して行っていますが、それらも全て「内容が間違っていないから」書くべきかと言えば、繰り返しますがそれらも「概論を書くべき事典には必要無いレベル」ということになります。
あくまで、主ページの記事がどうあるべきかという観点から発言するようにしてください。H:NOTE#ノートページの用途より)
批判をことさらに取り除こうとすること自体が、田川氏が忌避する理由となっている「護教論」に基づくものなのではないでしょうか
全く的外れな見解でしかありません。そのようなWP:FAITHに反する姿勢はウィキペディアで歓迎されませんのでお気を付け下さい。(そもそも「反田川」に「見える」言動を採っている「と思われる」から「護教的」云々というのも相当なステレオタイプですね。私の編集領域を何だと思って居いでですか^^;)
「ウィキペディアに何かの記述をするのに合意が必要である」というのがそもそも例外的な事態
方針を御理解頂けて居ないようです。WP:CONを御一読下さい。
合意は編集者が他の編集者とどのように作業を行うかという方針の範囲の一部であり、同時にウィキペディアの五本の柱の4番目にある行動規範の一部です。WP:CONより)
特に最後の「合意云々」に関する貴方様の御認識は、相当危ういものですので、早急に御修正頂きます事をお勧め申し上げます。何とぞよろしくお願い申し上げます。--Kinno Angel会話2013年10月3日 (木) 15:18 (UTC)返信
一部リンク修正。なお蛇足ながら、「田川氏の立場からすれば田川氏なりの観点からの新改訳聖書批判は田川氏なりに筋は通っている」事は認めます(むしろ「一部評価」したらそれはそれで吃驚ものですね・笑)。しかし繰り返しになりますが「事典に書かれる新改訳聖書についての概説には必要ありません」ということです。--Kinno Angel会話2013年10月3日 (木) 15:20 (UTC)返信
新改訳聖書に田川氏の著書に関する記述をするのは諦めます。ただし、田川建三などの別の記事にこの記述をすることを禁止する合意はなされていないと思いますので、その方向で執筆することを考えています。ご協力いただきありがとうございました。--2001:CE8:96:1:E0D2:D72B:31AD:26D0 2013年10月12日 (土) 16:48 (UTC)返信
記事田川建三に記述されるのであれば結構ではないでしょうか。ただその際には、口を極めて批判している日本聖書協会訳などについての記述も同程度(あるいは分量的には遥かに多くを割いて具体的に批判して居る訳ですから、場合によっては同程度以上に)盛り込まなければ、中立的観点を疑われるであろうことは申し添えます。--Kinno Angel会話2013年10月13日 (日) 15:13 (UTC)返信
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