ノート:横浜FC

最新のコメント:10 年前 | トピック:クラブ設立期の記事の出展整理について | 投稿者:Garuda

「横浜FCのライバル」の項目 編集

大多数が敵視している、強いライバル心を持っている、一方的にライバル意識されている、など出典がなくWikipedia:中立的な観点から大いに疑問に思い、コメントアウトしました。--124.214.250.46 2010年8月3日 (火) 02:34 (UTC)返信

ホームスタジアムの項目 編集

2010年12月27日に日産スタジアムの写真並びに収容人数の記事がコメントアウトされていますが、横浜FCはチーム創設後、例外なく日産スタジアムで年に1回~数回ホームゲームを開催していますので、ホームスタジアムの項に加えても問題ないかと思います。2007年のJ1昇格時は観客動員を見込める試合は日産スタジアムで開催していました。問題がある場合は当ノート欄にご意見をお願いします。--waka77 2010年12月29日 (水) 15:27 (UTC)

  コメント今年は使用予定はないので、今は保留でいいと思います。--スーパーキノピオ会話)2013年9月26日 (水) 16:48 

統合提案 編集

横浜FCスポーツクラブが別に立項されていますが、横浜FCの一部門的な存在に過ぎず、単独で記す事項も現時点では乏しいと言えるため、横浜FCへの統合を提案。--Kanko3131会話2013年3月21日 (木) 02:35 (UTC)返信

  両項目の統合を実施しました。--Kanko3131会話2013年3月28日 (木) 13:24 (UTC)返信

法人会社・横浜フリエスポーツクラブの略称について 編集

提案1.5ヶ月ほど前の修正時に、横浜フリエスポーツクラブの略称が「横浜FSC」と統一されております。修正直後に質問できなくて大変申し訳ありませんが、クラブ設立時から横浜FCを応援している者として、「横浜FSC」という略称は初見であり、大変違和感を感じております。 複雑な経緯を辿り設立されたことから、愛称「フリエ」は非公式にしか語ることが出来ませんが、法人会社名の「フリエ」は、唯一、公式に名乗ることが出来るものです。修正前の略称「横浜フリエSC」の記述に戻すことは出来ませんか? 修正者様の履歴を拝見し、プロジェクト等で活発に議論されておられる方であると認識しましたので、ノートによる提案とさせて頂きました。--Garuda会話2013年6月2日 (日) 10:30 (UTC)返信

  コメント Garudaさん、初めまして。私のことでしょうか?さて、編集の経緯は確か練習場の文節を加筆した際に株式会社横浜フリエスポーツクラブの名前が頻繁に出てきて、冗長さを感じたので、記事全体を通じて「横浜FSC」に統一したんじゃないかと思います。ただ、「横浜FSC」という名称は便宜的に付けたものに過ぎないので、「横浜フリエSC」へ変更していただいても私個人としては差し支えありません。あと、「横浜フリエSC」という略称が特別な意味を持つと言うことも付け加えれば、より記事に厚みが出るようにも思います。--Kanko3131会話2013年6月7日 (金) 15:05 (UTC)返信
  コメント Kanko3131様、コメントを頂きまして、誠にありがとうございます。提案から1週間が経過し、且つ、「横浜FSC」への変更時のお考えもKanko3131様より頂戴しましたので、記事中の横浜フリエスポーツクラブの冗長時略称を「横浜フリエSC」に統一させて頂きます。--Garuda会話2013年6月9日 (日) 06:05 (UTC)返信
  コメント また、Kanko3131様より頂きました、「「横浜フリエSC」という略称が特別な意味を持つ」旨の追記につきましては、クラブ創設期関連の記事にいくつか付加されております「要出展」を記述時に行いたいと思います。クラブ創設期については、様々なエピソードが横浜FCに関わった多くの人達の間で語り継がれておりますが、短時間での立ち上げ、多くのボランティアによる作業支援、走りながらの環境整備などで、現時点で振り返ることが可能な「出展」が少なくなっているのが現状です。しかしながら数少ない中でも、次の2点、「横浜フリューゲルスを存続させる会公式ホームページ(クラブ設立当時の横浜FCオフィシャルホームページとしても機能した。)」と「ボクらが起こしたFの奇跡―横浜FC誕生秘話(横浜フリエSC初代社長・辻野臣保氏の著書)」は、当時の記録として欠かせないものだと思っています。具体的にどの記事が2点の出展のどこに記述されているかなど、整理する必要がある為、少々、お時間を頂きたく存じます。なお、クラブ創設期の出展の整理について、別途、章を起こしたいと思います。--Garuda会話2013年6月9日 (日) 06:05 (UTC)返信
  横浜フリエスポーツクラブの略称を、「横浜FSC」から「横浜フリエSC」に変更しました。--Garuda会話2013年6月9日 (日) 06:19 (UTC)返信

クラブ設立期の記事の出展整理について 編集

  提案 横浜FCのクラブ創設期については、様々なエピソードが横浜FCに関わった多くの人達の間で語り継がれておりますが、短時間での立ち上げ、多くのボランティアによる作業支援、走りながらの環境整備などなど、10数年の時間の経過とともに現時点で振り返ることが可能な「出展」が少なくなっているのが現状です。wikipediaでは、記事を記述する者が出展を明らかにするルールがありますが、折角の様々なエピソード、とても大変な経験をして育てて来た「みんなの思い」が、出展のない記事ということで削除されてしまうのは、本当に忍びないです。出展が無いながらも素敵な記事を守るため、こちらで要出展の整理を行いたく存じます。--Garuda会話2013年6月9日 (日) 07:46 (UTC)返信

●クラブ創設当時の記録として欠かせないもの(他にも確認可能な出展があれば追記にご協力をお願い致します。)

Template:候補1横浜フリューゲルスを存続させる会公式ホームページ(クラブ設立当時の横浜FCオフィシャルホームページとしても機能した。)」--Garuda会話2013年6月9日 (日) 09:19 (UTC)返信
Template:候補2ボクらが起こしたFの奇跡―横浜FC誕生秘話(横浜フリエSC初代社長・辻野臣保氏の著書)」--Garuda会話2013年6月9日 (日) 09:19 (UTC)返信


●要出展記事(以下、記事の範囲と出展を整理)

:クラブ名に公式愛称は無いが、いずれはフリューゲルスを名乗ると思われた。しかし奥寺康彦は名称継承する事を否定した為、フリューゲルス襲名希望のサポーターグループが解散した経緯がある。[要出典] ⇒クラブメンバーミーティングのクラブ発行議事録等をお持ちの方いませんか?--Garuda会話2013年6月9日 (日) 09:19 (UTC)返信

:その後、2005年10月に行われたサポートミーティングでは、サポーター側から現行のチーム名で継続してほしいとの提案が出された。これには、横浜Fサポーターが立ち上げたチームであるものの横浜Fと横浜FCは全くチーム体質が違うことや、フリューゲルスの版権商標権)が横浜F・マリノスにあること(Fはフリューゲルスを指している)等が挙げられている。[要出典] ⇒クラブメンバーミーティングのクラブ発行議事録等をお持ちの方いませんか?--Garuda会話2013年6月9日 (日) 09:19 (UTC)返信

合併の手続き終了後、サポーターは「フリューゲルス」という名称の譲渡を申し入れたが、この名称を使用するチームが必要との回答もあったため、出資企業の経営に左右されない市民クラブを設立した。[要出典] ⇒候補1、候補2にあったと思うので、出展の該当箇所確認中--Garuda会話2013年6月9日 (日) 09:19 (UTC)返信

なお、Y.S.C.C.との統合案が挙がったが、それは白紙となった。[要出典] ⇒候補2にあったか?、出展の該当箇所確認中--Garuda会話2013年6月9日 (日) 09:19 (UTC)返信

なお、準会員参加の条件として、同年のJFLで4位以内ならば翌年のJFLに正会員として参加し、5位以下に終われば地域リーグ所属クラブがJFL昇格をかけて争う全国地域リーグ決勝大会への参加を義務付けることになっていた。[要出典]

   [1] --Garuda会話2013年6月9日 (日) 09:19 (UTC)返信

また、Jリーグ準会員として承認された。ソシオ制度を巡る内紛、責任企業不在による資金難などクラブ運営は迷走を始めたが[要出典] ⇒三ツ沢での試合後に行われたソシオ向け説明会の模様がスポーツ新聞等に掲載されました。お持ちの方、紙名や掲載日などをお知らせ下さい。--Garuda会話2013年6月9日 (日) 09:19 (UTC)返信

この年は、DFが2人でゴール前を守り、通常の4-4-2ならば両サイドの守備を固めるサイドバックがより前に位置して積極的に攻撃するというシステム"2-4-4" (2-4-3-1)を取った。 スペイン・リーガ・エスパニョーラの攻撃性を愛好する信藤がこだわる戦術だったが、スペースを与えられた相手のサイド攻撃を誘発する結果を招き[要出典] ⇒横浜FC参加の綱島祭り後にクラブ主催で行われた「信藤とクラブメンバーの談話会」で聞いた覚えがありますが、出展になるか??? ⇒オフィシャルイヤーブックの監督インタビューに記載がありそうなので確認中--Garuda会話2013年6月9日 (日) 09:19 (UTC)返信

財政的な不安がなくなったフロントは方針を転換し、[要出典]各チームで世代交代の影響を受けていた三浦知良山口素弘望月重良など元日本代表選手達を新たに獲得し、チームの強化を図った。 ⇒2005年、昇格前年ですが、クラブメンバーミーティングで説明があれば、クラブ発行の議事録を確認??--Garuda会話2013年6月9日 (日) 09:19 (UTC)返信

しかし、彼らの加入によりJ1昇格を命題とするような雰囲気が生まれ、足達を招聘した当初の目的である「チームの底上げ」よりも「勝つチーム」が優先され、結果的に若手選手のチャンスの芽を摘むことになった。方針の転換はチグハグな選手起用にも影響が見られ、移籍効果も一時的に終わり[要出典]、結局11位(12チーム中)で終了。 ⇒総括に関する新聞記事はありませんか?--Garuda会話2013年6月9日 (日) 09:19 (UTC)返信

サポーターからはクラブ目標の「早期のJ1昇格」への道筋が見えないという批判を受けた。[要出典] ⇒足達監督が試合前にゴール裏まで来て説明を行いました。その際の新聞記事はありませんか?⇒個人HP、ブログなら写真付で直ぐに見つかるのですが。--Garuda会話2013年6月9日 (日) 09:19 (UTC)返信

フロントは昨年度の不振とキャンプからのチーム作りの遅れなどを理由としたが、この監督交代に対してゴール裏に集うサポーターの多くは怒りを示し[要出典] ⇒有名な「沈黙応援」ですね。新聞記事や、「あれで自分のやる気に火がついた」と語る高木監督の総括インタビューがあったはず。どなたか情報下さい。--Garuda会話2013年6月9日 (日) 09:19 (UTC)返信

●ソシオ・フリエスタの項目 ⇒ソシオ・横浜の方、お手数ですが、出展の確認についてご協力下さい。--Garuda会話2013年6月9日 (日) 09:19 (UTC)返信

出典 編集

  1. ^ 横浜フリューゲルスを存続させる会公式ホームページ(クラブ設立当時の横浜FCオフィシャルホームページとしても機能した。) 1999年3月5日報告「横浜FC、JFL加盟決定のお知らせ」
ページ「横浜FC」に戻る。